阪田氏は、〝正々堂々とみ教えに基づき対処し〟と書いていますが、その〝み教え〟の中には「法を守る」ということが、その大前提としてあるのだと思います… (14321) |
- 日時:2022年06月01日 (水) 08時05分
名前:破邪顕正
今回、何故、裁判沙汰にまで発展したのか。
言うまでもなく、阪田氏の書いたことが、著作権を巡って争われた最高裁判決を否定するものであり、また著作権法にも抵触しているという嫌疑がかけられたからに他なりません。
つまり、今回の事は、純粋に法的問題として争われているわけです。
それに対して、阪田氏は〝正々堂々とみ教えに基づき対処し〟という…。
まさか、阪田氏は、ここで、法律上はそうかもしれないが、み教えからすればこうなのだ、というような論法を振りかざそうというのではありますまいね…。
何故、そういうことを言うかと言えば、阪田氏の支援者の中に、〝たとえ阪田先生が敗訴したとしても阪田先生の仰っていることは正しい〟というようなことを言う向きがあるからです。
万が一、そうということであれば、それは「み教え」からしても全然、違うと言わざるを得ません。
何故と言って、その「み教え」の中に、当然、法は守られなければならないという大前提があると思うからです。
例えば、『理想世界』誌・昭和43年7月1日号には、当時の全学連が、法律を無視した、というよりかはその法そのものを受け容れない姿勢に対して、尊師は当時の秋山全学連委員長の言葉を紹介しながら非常な危機感を抱いてこう記されています。
《秋山全学連委員長は新入生に対して次の如く演説する。――「暴虐のあらし荒れ狂うとも、人民大衆の利益を貫き通して行く限り、闘いには未来がある。全学連の旗のもと、闘いの火の手を拡大しよう。」(昨年四・一九「闘う全学連」) 「われわれは現体制を認めないからその法律も認めない。間違った体制をこわすためには実力行使は正しい。」(同一〇・九)》
結局、ここに明らかなように、法を守ることを拒絶する姿勢は、そのまま国家破壊を企図しているからに他ならないのです。
で、それを是認し、それどころかそれを煽りに煽っていたのが「朝日新聞」でありました。
尊師は、それを嘆いてこう難じられます。
《『文芸春秋』五月号に東大教授中屋健一氏が〝新聞報道これでいいのか〟と題して、佐世保事件に関する新聞報道――特に『朝日』の記事――をより多く克明に分析してその偏向ぶりを指摘しているのである。その中で中屋氏は『朝日』が「警察の取締りが行き過ぎ」という批判的な記事を繰返し書いていることや、全学連が警官隊と衝突した際の現地記事を書いた『朝日』は、みだしで「大半素手で突入」と全学連を半ば弁護するように見せながら、「記事を読むと、やはり投石、角材戦術という暴力行為が行なわれている」とあるので、見出しで嘘を書いて、記事をこまかく読まない読者が、小見出しだけ見る場合、全学連が素手であるのに警官が警棒を揮ったというように見えるように記事が巧妙に工夫されていることを指摘しているのである。(略)すべては、法を無視し、これを犯した全学連の学生の責任ではないだろうか。佐世保の場合、投石をし、角材をふるった学生に対して、警官の警棒が対抗したのであって、警官の警棒の使用に対して学生が角材をふるったのではない。さんざん角材をつかっていて、警棒によってふるい落され、頭をかかえた状態を無抵抗といえるだろうか。 これは中屋氏の分析の一例にすぎないが、このように丹念に記事を分析した上で、中屋氏は、「法律を無視し、暴力をあるう者を擁護して、『〝暴徒〟にも〝愛国者〟がいる』という意味の投書(一月二十七日)が掲載されるに及んで、私はもはやあきれはててしまった」と書いていられるのである。全く『朝日』の革命や暴動に味方する偏向記事は困ったものである。諸君は『朝日』の記事にまどわされてはならないのである。》
これを読んで痛感することは、「朝日新聞」の偏向ぶりは、決して今に始まったことではない…。
それどころか、それは一貫して変わらぬ〝社是〟の如きものとしてあった…。
そういう「朝日新聞」を、ご存じのように現総裁は信徒に購読するように推奨しているわけです。
この一つをとって見ても、尊師のお心とは相容れないものがあると言っても決して過言では無いと私は思います。
それと合わせて、尊師は、ここでも法を守ることの大切さを指摘なされているのだと思います。
当然、そうであれば、阪田氏も、自分の書いたことが果たして法に抵触してはいなかったか。
その判定は、最終的に裁判所に委ねられることになったわけですから、もし、抵触していると判断されたならば、それこそ、正々堂々とその非を、過ちを詫びていただきたいと思うものであります。
「過ちては改むるに憚ること勿れ」それが正々堂々という意味だと思うからです。
阪田氏の言う〝み教えに基づき対処し〟とは、いったいどういうことなのか、そこに私は大きな関心を寄せています。
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