《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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〝谷口雅宣総裁は、谷口雅春先生依存、生長の家総裁依存を離脱するように信徒各員の信仰の自立を促す観世音菩隆である〟(本部退職者)阪田氏もこれと同様の考え方をしているとは… (14301)
日時:2022年05月25日 (水) 11時10分
名前:破邪顕正


表題は、『光明の音信』第13号にあるものです。

これを読んで、私はそれこそ、阪田氏は、実に空恐ろしい、とんでもないことを言い出したと思いました。

だって、〝谷口雅春先生依存〟という表現が、〝生長の家総裁依存〟と同列で掲げられ、あまつさえ、それから離脱する〝信仰の自立を促す〟とまで書かれているからです…。

阪田氏は、あろうことか、この本部退職者の言に、注意を促すどころか、それに同感してしまった…。

だからでしょう、阪田氏は、この文章のタイトルをこう書いています。

〈今こそ〝神意〟に帰一し、〝信仰者〟として〝自立〟を!〉

阪田氏は、とうとう、これによって〝自立〟という名の〝阪田教祖〟の迷い道に踏み込んだのだと私は思いました。

そう思うにいたった理由を、阪田氏の文章から引きます。

  ……………………………………

<本部退職の頃は、谷口雅宣総裁を批判する心のみ強かったですが、八年経た今は考えが変わり、谷口雅宣総裁は、谷口雅春先生依存、生長の家総裁依存を離脱するように信徒各員の信仰の自立を促す観世音菩隆であると思えるようになりました。>
 と云われ、現在は
<信仰者としての自立を目指して、個人で『生命の實相』と神想観に励んでおります>
 と、書いておられます。私はこの手紙に感動しました。実は私も同じことを考えていたからです。

  …………………………………………

ここまで書いた以上、阪田氏もこの本部退職者と全く同じ考え方をしていると見て間違いないでしょう。

私は、本部退職者も阪田氏も、「生長の家」の信徒として重大な間違いを犯したと見ます。

私ならば、この本部退職者にこう忠言いたします。

〈「生長の家総裁」という役職者のいうことであれば、何でも「ハイ」と受け取るというのが「中心帰一」の教えではない。

その意味において、「生長の家総裁依存を離脱する」というのは、それはそれとして了といたしましょう。

しかし、〝谷口雅春先生依存〟という表現、これだけは、絶対に許されない、厳に慎むべきそれであります。

そういう表現をした時点で、もはや本来の「生長の家」の信徒ではないと思うからです。

何故、私たちが、現総裁についていけないと思ったのか。

それこそ、現総裁が、信徒のことを〝谷口雅春先生依存〟というように見ていたからに他なりません。

〝原理主義者〟というレッテル貼りは、まさしくその象徴としてありました。

〝谷口雅春先生依存〟という表現を用いた段階で、貴兄もまた現総裁と同じ立場になったのです。

私たちにとって、谷口雅春先生は永遠の存在です。

〝永遠の谷口雅春先生〟を心から仰慕していく。

現教団ではそれがゆるされないと見切ったからこそ、私たちは現教団を退会するしかないと判断したのです。

すべては、〝永遠の谷口雅春先生に帰一する〟その思いから出発しているのです。

〝谷口雅春先生依存〟という言い方を安易に用いたこと、これは決して看過しえるものではありません。〉

私ならば、このように苦言を呈します。

しかし、阪田氏は、そういう忠告を述べることもなく、〝私はこの手紙に感動しました。実は私も同じことを考えていた〟とまで書いてしまったのです。

そして、阪田氏は、更に、そこから大変、間違った道へと歩み始めてしまったと私は見ます。

それは結局、〝阪田教祖〟への道を開くことにつながると思うからです。

それについては、また稿を改めて書くことにいたします。


阪田氏は、尊師の言葉を〝阪田教祖〟誕生の正当化に使っているとしか思えません… (14302)
日時:2022年05月25日 (水) 13時15分
名前:破邪顕正

阪田氏は、『光明の音信』第13号で、〝谷口雅春先生依存から離脱して…信仰の自立を促す〟ということを前提にして、こういうことまで書いています。

とても重要な文章なので、そのまま引きます。

 ……………………………………

昭和40年に飛田給道場の練修生八人が大学を卒業することになり、谷口雅春先生から
<世界で八人だけが真理を知ったとして、さて、どうしてこれを弘めるかと八人が全然新しき事を企画してやると従来にないよいもの、少なくとも従来にない新しきアイディアが出て来ると思う。ひとつそれをやらせて見たいと思うのです>というご指示があったことを思い出し、私へのご指示として考えてきました。
 さらに尊師がかつて「生長の家は全ての誌友を教祖にする道だ!」(昭和11年12月の「進況通信」)と云われたこと。
 昭和53年11月に「龍宮住吉本宮」が造営されたあとの「実相研鑽会」で尊師は、
「皆さんの中に住吉大神が宿っているのである。皆さんが住吉大神である」と云われ、昭和55年2月29日には、尊師最後のご指導となった代表者会議では、「皆さんが谷口雅春で、救世主である」と云われました。
 皆様もこれらの尊師の〝御言葉〟を尊師から直接ご自身に頂かれたものと受けとめてほしいのです。そして自分は、今何を為すべきかを問うて頂きたいのです。

 …………………………………………

私たちも、現教団にいた頃、この「皆さんが住吉大神である」「皆さんが谷口雅春で、救世主である」というお言葉は、よく使わせていただきました。

しかし、それは、あくまでも、そういう思い、自覚をもって人類光明化運動・日本国実相顕現運動に、挺身・致心・献資の誠心を捧げてまいりましょう、という意味合いを込めて使わせていただいていたと思うのです。

また、尊師もそういう意味合いで、仰ったのではないでしょうか。

それはそうでしょう。

尊師が「生長の家は全ての誌友を教祖にする道だ!」と仰ったからと言って、自分も教祖になれるんだと思ってしまったらどうなりますか。

また、尊師が「皆さんが住吉大神である」と仰ったからと言って、私の言っていることはそのまま「住吉大神様のお告げである」なんて、信徒それぞれがいいはじめたら、どうなりますか。

「生長の家」教団は、それこそ、バラバラになり、空中分解してしまうのではありませんか。

そう考えたら、尊師はあくまでも、光明化運動を展開する際の心構えとして仰ったのだと見るのが至当だと思うのです。

それにしても、阪田氏は、どうして、ここに来て、こんなことを言い始めたのでしょうか。

信徒一人ひとりが教祖になれる…。

それを〝谷口雅春先生依存から離脱して…信仰の自立〟であるかのような文脈で用いていることに、私は正直、本当に空恐ろしさを感じないではいられません。

それが言うところの〝信仰者の自立〟なのですか。

そうてあれば、私は、そんなところには、何の価値も関心も魅力も感じはしません。

如何にせば、尊師の教えを弘め、尊師の願いを実現しえるか。

そこにしか、私の関心事はないからです。

〝信仰者としての自立〟を恭しく掲げるのは、結局は、自分の信仰の有り様こそが大事なのであって、尊師の願いをどうやって実現していくか、そこには少しも思いが及ばないからではないでしょうか。

そういう私からすれば、〝谷口雅春先生依存から離脱して〟というようなことを言い得ること自体が、もはや理解の範疇を超えてしまっています。

よくもまあ、こんな不遜なことを言い得るものだと唖然としています。

阪田氏は、こういうことを書いて、いったい、これから何をしようとしているのだろうかと思います。

一人一人を教祖にしていく…。

阪田氏もその一人となって、自分の書いていることが正しいのだという世界に入り込んでいくのでしょうか。

私はそれこそが、〝分派〟活動以外のなにものでもないと見ます。

それでよくもまあ「谷口雅春先生を学ぶ会」や「ときみつる會」を〝分派〟だと批判できたものです。

脚下照顧、今回、書いたものがどんなに空恐ろしいものを内包しているか。

それを知っていただきたく、敢えて、書かせていただいた次第です。


「破邪顕正」様へ (14303)
日時:2022年05月26日 (木) 23時17分
名前:月見草

いつも有難うございます。

本部退職者さんの手紙にある “谷口雅春先生依存” と言う言葉には、とても驚きました。

また、阪田氏の言葉 “私はこの手紙に感動しました。実は私も同じことを考えていたからです。”にも。

普通ならば、この本部退職者さんに対して、「破邪顕正」様が仰っておられるように苦言を呈すべき所だと思いますが、阪田氏もまた、感動したり同じことを考えておらるのですね。

この事で、尊師のみ教えを正しく学び理解することが、いかに大切かを思い知らされた気が致します。

〝自分自身が教祖である〟という意味を、新編『生命の實相』第29巻「宗教問答篇」から学ぶ (14304)
日時:2022年05月27日 (金) 12時06分
名前:破邪顕正


「月見草」さん、投稿、ありがとうございました。

表題につき、改めて考えています。

これは、「生長の家」の教えの素晴らしさ、特長を示しているものと思うからです。

《…近頃「人の道教団」というような新しい宗教団体が頭角をあげて「病気も環境もわが心の影」という生長の家所説の真理を、神宣という厳かな名によって信者に単純な方法で実証させているのは大変結構な神の摂理だと思います。ただ、そういう教えに頼る信者の常として、一にも神宣、二にも神宣、三にも神宣と、他からの神宣ばかりを頼ることになり、やれ蜂が螯したから神宣を貰おう、蚊が螯したから神宣を貰おう、臑に傷が出来たから神宣を貰おう、腹が痛いから神宣を貰おうというように、年から年中、何でも彼でも神宣に頼って自主独立の生き方を失うようになる危険がありますので、そういう教団に入り、環境も病気も吾が心の影だということがわかったら、もういつまでも一人立ちの出来ぬ子供のように御神宣ばかりに頼っていてはならぬ。本当の救いにあずかるということはいつまでも一人立ちの出来ぬ人間になることではありませぬ。更に一歩を進めて、「生長の家」的に自主独立の精神に立ちかえり、ひとり立ちして、自分自身が神であり教祖であり、他からの御神宣よりも自分の御神宣が自分を一番よく知っているというようになって頂きたいのであります。だから人の道教団の教えが生長して来れば当然「生長の家」になって来なければならないのであります。》(187~188頁)

〝御神宣ばかりに頼っていてはならぬ〟

言うならば、「御神宣依存症」になってはならぬという意味での〝自主独立の精神〟であり、〝「生長の家」的に自主独立の精神に立ちかえ〟ることの重要性をお説きになられたのであり、それをもって〝谷口雅春先生依存から離脱して…信仰の自立を促す〟ということを正当化することはできないと思うものであります。

しかも、引いたご文章の最後に示されているように、〝人の道教団の教えが生長して来れば当然「生長の家」になって来なければならないのであります〟とまで仰っているのです。

大事なのは、「永遠の谷口雅春先生」あっての、その御教えあっての私たちの信仰であるということではないでしょうか。

そこを外しては絶対にならない、それが私の申し上げたいことです。


〝誰でも教祖になれる〟というのは、『生命の實相』の素晴らしさを言い換えたものということではないでしょうか… (14307)
日時:2022年05月28日 (土) 10時52分
名前:破邪顕正


表題に関して、新編『生命の實相』第43巻「久遠仏性篇」から学びます。

《…心で思うから病気をするんだと教えてあげると、私は肺病を思ったことはありませんのに何だか身体が衰弱する、疲労をするので医者へ行きましたら肺病だと宣告されました、こういわれる。これは心の法則を知らざる人がいうことであって、肺病と思わなくても、胸に思を溜めると「類は類を招ぶ」という法則によって胸に血液が欝結し、血行が悪くなり、その部分の抵抗力が衰えて胸の病気に罹るということになるのであります。これは「類は類を招ぶ」という法則によって出てくるのであります。われわれが人から、私はちょっと足がわるいのです、わたしは手がどうでございます、これはどういう心持から来ますかと、こういって、色々と病気の起る原因の心を指摘せよといわれる。それを、あんたのこういう心持から起るのですよ、こういって上げることが出来るのは、それを開く鍵はどこにあるかというと「類は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります。この鍵によって病気の原因を開けば治るのであります。『生命の實相』を読めば自然とその鍵がわかるように書いてある。だから『生命の實相』を読めば、誰でも教祖のようになって「あなたの病気はこういう心持で起る」と御神宣を下すことが出来るようになる。自身が病気の人なら自分で自分の心の欠点が『生命の實相』を読んでいるうちに省みられ、是正されて病気が治ってくるのであります。》(108~109頁)

〝「類は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります〟

その鍵を『生命の實相』で公開せられたわけですから、誰もが〝教祖〟となれるというのは宜なるかな、決してこれは誇張でも何でもないわけです。

まさしく、これは『生命の實相』の素晴らしさを物語る以外のなにものでもないのです。

しかし、その心の法則の鍵を手にしたからといって、決して自分を〝教祖〟にしてはならないものでしょう。

だって、これは『生命の實相』を大いに弘めていきましょうという文脈でこそ読み取るべきものであると思うからです。

それほど素晴らしい『生命の實相』の著作権が、もし現教団、即ち谷口雅宣総裁の手に握られてしまえばどうなるか。

「『生命の實相』を読んでいると〝原理主義者〟になるよ」ということがまことしやかに言われてしまう、そういう現教団の内情を具に知ってきた者からすれば、いずれこの『生命の實相』は事実上の絶版に処せられるやもしれない…。

すべては、現総裁の胸三寸次第…。

さればこそ、『生命の實相』等の著作権を断乎として守らなければならないと思ってきたのです。

今、こうして新編として『生命の實相』が発刊できているのも、尊師が社会事業団に著作権を託されたからこそ…。

よくぞ、尊師は、この著作権を生長の家教団ではなく、社会事業団に託されたものだと、まさしくそれこそは神様の叡慮ではなかったか…。

そんな思いでいっぱいです。


信仰の自立を私はこう考える (14308)
日時:2022年05月28日 (土) 18時08分
名前:令和の春


 合掌 有難うございます。

 「信仰の自立」とは何か? と考えた時に、私は次のような事を思いました。

 1 生長の家の信徒としては、この尊い教えを説かれた谷口雅春先生によって私は救われ、導かれて来たのですから、谷口雅春先生が説かれるみ教えの真髄をしっかりと学び、理解し、揺るがない事が第一だと思います。

 2 谷口雅春先生が説かれた「唯神実相」とは何か? を徹底的に、良く理解できるまで、『生命の實相』を中心として谷口雅春先生が書かれた書を読み、神想観を行じて、頭だけでなく、自分の心に、身体全体に叩き込むこと。

 3 谷口雅春先生が説かれる「天皇」「日本国」「人間」についての実相をよく理解すること。

 4 自分の生活が本当に明るく、愛他的で、楽しいものになるよう生活する。

 5 谷口雅春先生は、立教の最初から、生長の家イコール「人類光明化運動」であると言われた。生長の家の信仰は独り書を読み、哲学的に理解し、行いすましていれば良いのではなく、「兄弟である人類を救うところの運動体であること」をよく理解し、実行しなければならない。

 6 だからこそ、それは必然的に「運動体」を成すものであり、まともな教団や、その他諸々の運動体(グループ)が生れるのは必然であると思う。

 7 しかしながら如何なる運動体も、いついかなる時でも、その核の核は、谷口雅春先生が『生命の實相』を始めとする膨大の書で、あるいは講習会やラジオを通して説かれた「宇宙の真理そうもの、唯神実相論そのもの」を通して為さなければならない。

 これが出来た時こそ「自立した真物の生長の家信徒である」と言えると思います。単なる講師ではなく、我が祖国を愛し、天皇陛下に帰一し、大恩人であり尊師である、谷口雅春先生を永遠の師として、深く敬愛し仰慕し、運動体の一員を忘れず生きて行くことだと思っています。 再拝


〝自分自身が教祖である〟ということの意味 (14311)
日時:2022年05月30日 (月) 21時55分
名前:月見草

「破邪顕正」様へ

有難うございます。

『生命の實相』から引いて下さったご文章で より深く分かります。

〝「生長の家」的に自主独立の精神に立ちかえる〟こと。

そして、一人一人が雅春先生のご意志や願いを受け継いで、人類光明化運動・日本国実相顕現運動に邁進し、「生長の家」を弘めていくこと。

本当に「永遠の谷口雅春先生」あっての、その御教えあっての私達の信仰ですね。

『生命の実相』が護られて良かったです。大切に学んで行きます。

〝信仰者としての自立を目指して、個人で『生命の實相』と神想観に励んでおります〟これで本当にいいのでしょうか、尊師は〝伝道の組織づくり〟の必要性を訴えておられましたが… (14312)
日時:2022年05月31日 (火) 11時58分
名前:破邪顕正


「令和の春」さん、「月見草」さん、投稿ありがとうございました。

今回は、表題の件について、思うことを書いてみたいと思います。

本部退職者の方は、〝信仰者としての自立を目指して、個人で『生命の實相』と神想観に励んでおります〟と書いているわけですが、今の教団を見ていて、果たしてそれで良いのでしょうか。

幕末の志士・平野二郎國臣の歌に、「君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりけむものを」というのがありますが、現教団が尊師の教えをそのまま伝え弘めているというのであれば、〝個人で『生命の實相』と神想観に励〟む、花守して暮らすのも一興でしょうが、今はとてもそういう状況下にはないわけです。

そう考えると、これは「自立」という美名に隠れた〝利己主義〟ではないのか。

厳しい言い方になるかとは思いますが、どうしてもそう思えてならないのです。

それというのも、『理想世界』誌・昭和42年11月1日号で、尊師が、組織づくりの重要性を次のようにお説きになっておられるからです。

《何事でも完全な成績を円滑に挙げるためには組織づくりという事が大切なのである。…教えの内容がいくら立派であっても、教えの布教網の組織づくりが下手であっては、その教えは伸びないのである。宗教は、魂の問題であり、魂の救いは個々の人間の問題であり、外形の組織づくりばかりに狂奔していると、魂の内的問題がおろそかになるおそれがある。魂の救いは、個々の〝悟り〟又は〝信心〟の問題ではあるけれども、その個々の人間も教えに触れなければ魂の救いの門に入る訳にはいかないのであるから、伝道の組織づくりを完全にして誰でも教えに触れ易いようにしてあげることが、人を救う道である。人を救わずして、自分だけ悟ったとか、救われたとか考えるのは、一種の利己主義であって、そんな人が〝救われた〟などと自任しているのは、唯の増上慢に過ぎないのである。》

ここにハッキリと、尊師は「一種の利己主義」とまで仰っていることに私は注目したいと思うのです。

尊師の教えを本気で受け止めるのであれば、ここにあるように〝伝道の組織づくりを完全にして誰でも教えに触れ易いようにしてあげることが、人を救う道である〟このお言葉を決して看過してはならないと思うのです。

私は、このお言葉を肝に銘じて〝伝道の組織づくり〟に残りの人生のすべてを捧げ尽くしてまいりたいと熱願しております。

そういう使命感を持たなければ、信仰者としての本当の生き甲斐、信仰の喜びには繋がらないと確信するが故です。

心ある信徒の皆様には、ぜひ、尊師のこのご文章を心読していただければと思う次第です。



破邪顕正さま 有難うございます (14318)
日時:2022年06月01日 (水) 00時49分
名前:令和の春


 合掌 有難うございます。

 私の至らざる所を補って下さったことを感謝致します。

 おっしゃる通りで、個人の信仰深化と共に、生長の家のみ教えを一人でも多くの人に伝道して行くことが大切で、それをこそ尊師は望んでいらっしゃると思いますし、それによってしか人類光明化運動は成り立たないと思います。

 自分自身と自分の家庭が幸せになる事で終わるのではなく、それをさらに広めて行く人類光明化運動の一員として活動することによって、自分自身の信仰も深化し、信仰者としての喜びも大きくなるのだと思います。

 「自分はどこにも属しません」と宣言なさる方もいらっしゃいますが、信仰者が力を合わせる事によって、救われる人も増えて行くのですから、個人としての発信と共に、神の子同士として運動に参加することは大切だと思います。

 たとえ自分の力が未熟であっても、より力ある人を紹介したり、素晴らしい教えの書を進呈したりする事は出来ますから、勇気を出して身近の人に教えを伝えて行きたいと思います。

 特に今は、国内外において問題が山積していますし、日本も戦後最大の危機にありますから、尊師いませば獅子吼されていると思います。微力ながら皆さんと共に頑張って参りたいと思います。有難うございます。


〝無限に創造して無限に活き活きと活気臨々乎として生きているのが実相〟(『限りなく日本を愛す』146頁) (14334)
日時:2022年06月02日 (木) 09時35分
名前:破邪顕正


「令和の春」さん、再びの投稿、誠にありがとうございました。

投稿を読みながら感じたのが、表題の言葉です。

『前掲書』で尊師は、こうも仰っています。

《「生長の家」の實相観(神想観)を修していますと、生命の實相(ほんとのすがた)は動であって静でないということが判ってまいります。》(146頁)

こういうご文章を拝読させていただいておりますと、〝 信仰者としての自立を目指して、個人で『生命の實相』と神想観に励んでおります〟という信仰姿勢に、私はどうしても疑問を感じないではいられないのです。

聖典を拝読し、「神想観」を実修するのだけでは、「三正行」とはならないと思うからです。

静から動へ、それが信徒としてのあるべき姿なのではないでしょうか。

新編『生命の實相』第43巻「久遠仏性篇」(79頁)にもこうあります。

《…自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと…無限創造の宇宙即ち「生長の家」であります。》

ここにある「無限創造」について、『栄える生活365章』にはこうあります(128頁)。

《この無限創造の「神のアイディア」と一体になるには如何にすべきであるか。それは毎日、神想観を実修して、〝自己の意識〟を、〝神の意識〟に融合せしめて一体となることである。そのとき、あなたは「神のアイディア」の噴出口となり、表現の代理者となり、多方面にわたって、あなたの能力は展開し、協力者が無数に集り、人類の幸福増進の一大拠点となるのである。》

「自己は拠点なり」そういう自覚が芽生え、教えを伝え弘めることに活き活きと活動しないではいられない、それであって初めて谷口雅春先生の弟子と言えるのではないでしょうか。

私は、そういう道を歩んでまいりたいと思っております。



改めて〝谷口雅春先生依存症〟という表現に思う (14345)
日時:2022年06月05日 (日) 13時06分
名前:破邪顕正


表題に関して、例えば、「あなたは〝キリスト依存症〟だね」とか「いつまで〝お釈迦様依存症〟なの」と言われたら、どう思われますか。

ものすごい違和感を覚えるでしょう。

そもそも、こういう表現自体、信仰の世界にはなじまないものだと私は思うのです。

そのことで思い出すのが、親鸞聖人が法然聖人について仰られた言葉です。

『歎異抄』にある原文をご紹介します。

〈たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう〉

もしかりに、法然上人にだまされて念仏して地獄に堕ちたとしても、決して後悔はしない、それが親鸞聖人が仰られた意味でありましょう。

それをもって、親鸞聖人は〝法然聖人依存症〟だと評したらどうなりますか。

これは、信仰そのものの否定だと私は思います。

ここで、徳久克己・元理事長が言われた言葉を引かせていただきます。

〈病人のところに行って、「谷口先生が病気はないと言われるから無いのだ」といったらいいのです。生長の家の講師なら「先生の言っておられることを信じます」と言っても、恥ずかしいことはないではありませんか。恥ずかしい人は、講師を辞めたらいいのです。教えをひろめて行くのに邪魔になります。根本的な問題は、先生の言われることを信じない人が中心に座ったら、とんでもないことになるということです。〉

その顰みに倣えば、現教団に所属するということは、「谷口雅宣総裁が言っておられることを信じます」ということだと思います。

それを信ずることをよしとしない信徒は「辞めたらいいのです」。

それが、信仰のスジを通すということではないでしょうか。

だから、私たちは、そのスジを通して教団を退会し、新たに「尊師・谷口雅春先生の言っておられることを信じます」という団体を起ち上げたわけです。

そして、本年、創立20周年を迎えたわけです。

そのスジを通した思いを、本年度、私たちは〝光明スローガン〟として次の「三つの誓い」に込めさせていただきました。

一、吾らは、尊師谷口雅春先生がお説き下さった
  人類最高のみ教えを深く学び、喜びをもって実践する!

二、吾らは、尊師谷口雅春先生が住吉大神の導きをうけて
  創始された「生長の家」を永遠に護りぬく!

三、吾らは、尊師谷口雅春先生のおこころざしに生き、
  人類光明化・日本国実相顕現の使命に邁進する!

〝永遠の谷口雅春先生〟を心から仰慕する信徒の皆さんとともに、この旗のもと、大いなる発展を目指して前進してまいります。




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