《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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阪田成一氏編集・発行の「光明の音信」第12号(本年4月号)を読んで、オカシイと思うところを述べておきます。 (14268)
日時:2022年04月28日 (木) 15時45分
名前:破邪顕正


知人から「光明の音信」第12号を送付していただきました。

それを読んで、思ったことを書くことにいたします。

阪田氏は、こう書いています。

〈…〝お重さん〟の墓が整理されてなくなっていました。私は愕然としました。「発祥道場」といい、これは今の「生長の家教団」や、「社会事業団」そして「学ぶ会」の姿を象徴していると思いました。…誰も尊師のゆかりの方の墓所を守ってはいなかったのです。〉

問題は、そのあとの文章です。

〈そういう私もその一人でコロナ禍のためとは言え、ここ二年間はお詣りしていませんでした。〉

神戸に住んでおられるんだから、そもそも、これは、阪田氏が墓守なされればそれで好かった話ではありませんか。

少なくとも、「谷口雅春先生を学ぶ会」は、毎月17日、多磨霊園での墓前祭を欠かしたことはありませんよ。

たとえ、コロナ禍であっても、休んだりしはしませんでした。

第一、尊師を仰慕する心さえあれば、コロナ禍が何の理由になるのかとすら思ってしまいます。

自分で墓守なされれば好かったことを、それを人のせいにするなんて、それは尊師の教えとは違うのではありませんか。

墓が荒れていれば、それに気づいた人がすればいい…。

それだけの話なのに、どうしてこういうことを書いてしまわれるのか。

阪田氏は、何でも攻撃材料に使って、相手を貶めよう、貶めようとする思いが、どんどん昂じてしまっておられる…。

そんな印象を持ちました。

〝一切万事、己より出でて、己に還る〟

『幸福を招く365章』に「すべての人と物と事とに感謝せよ」と題してこうあります(97~98頁)。

《若しあなたを訪ねて来る人に、そしてあなたの周囲にあらわれて来る出来事にあなたが不快を感ずるならば、それは、あなた個人の「好き嫌い」が関係して起る感情でありまして、自然があなたに捧げようとしている最善の送り物を拒むことになるかも知れないのです。すべて幸福になるためにはそのような個人感情を取去らなければならないのです。すべてあなたを訪れる人と物と事とに感謝し礼拝し、出来るだけそれらの人と物と事とを丁寧に取扱うようにしなければならないのです。若しあなたが、誰かを憎む心や、嫌う心がありましたならば、それは結局、あなたに還って来て、あなたを傷つけることになるでしょう。自己より発したものは自己に復ることになっているからです。》

かえすがえすも、どうして阪田氏は、「光明の音信」で、仲間を撃つような文章を書かれたのか。

「真理を生きる」での投稿をいつも楽しみにしていた者としては、本当に残念でなりません。


一体、誰が「対立」の構図を持ち来したのか (14270)
日時:2022年04月28日 (木) 17時03分
名前:破邪顕正


「光明の音信」第12号に、こういう文章が出てきます。

〈相手の尊い本質を拝むことを忘れ去り、「和解」とは正反対の「対立」をみずから作り出し、相手を傷つけているのです。〉

そう言うのであれば、だったら、この「対立」、一体、誰が作り出したものなのか…。

この際、はっきりと申し上げておきますが、今回の一連の問題の発端は阪田氏にこそあるのです。

「みずから」というのであれば、それは阪田氏なのです。

阪田氏は、「真理を生きる」に連載しているときは、現教団の批判の投稿はしても、「谷口雅春先生を学ぶ会」や「社会事業団」については、一切、批判の文章は書きませんでした。

ところが、突然、「光明の音信」を発刊するや、その第1号で、「谷口雅春先生を学ぶ会」と「ときみつる會」が宗教法人となったことを挙げて、こう批判したわけです。

〈とうとう『生長の家』も、〝分派〟が出来てしまったのかと、なんともやる瀬無い気持ちと尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました〉

阪田氏が、「谷口雅春先生を学ぶ会」のことを、このように〝分派〟として忌み嫌っていたのであれば、どうして平成25年から開始された社会事業団主催の「“生長の家教義”研修講座」の主要講師を第1回から連続して6年間にもわたり引き受けたのですか。

その講座には、「谷口雅春先生を学ぶ会」のメンバーが講師として、或いは参加者として関わっていたわけです。

そして、阪田氏は、そういう人と一緒に談笑したりしていたのです。

ところが、突然、「光明の音信」を発刊するや、掌返しをして〝敵対〟してきたわけです。

〈相手の尊い本質を拝むことを忘れ去り…〉

最初に〝敵対〟したのはどちらですか。

そもそも、阪田氏は私どもを拝まれましたか…。

ある方が、こう言ってこられました。

〈阪田さんとは一緒にやってきていたのに、どうして仲違いのようなことになってしまったの。自分が間に入って、何とかしようか〉

で、私はその方に、申し上げました。

〈第1号で、阪田氏が〝分派〟として「谷口雅春先生を学ぶ会」のことを批判したことをご存じですか?〉

すると「エッ」と絶句され、「そんなことを書いたの。今の教団の方が、よほど尊師は嘆かれているよ」

すべての始まりは、阪田氏が一緒にやってきた仲間、同志に対して、掌返しをして、後ろから弓を引くようなことをやったことに起因するのです。

全ては、そこから始まったのです!


事の本質は「言論の自由」の問題ではない、これが名誉毀損に当たるということこそが問われているのです。 (14271)
日時:2022年04月28日 (木) 17時41分
名前:破邪顕正


「光明の音信」第12号にこういう文章が出てきます。

〈生長の家社会事業団は、阪田成一氏が書いた文章を「名誉毀損」として、削除し、謝罪文を書くことを求めているようですが…それは「言論の自由」に反する…〉

この箇所を読んで思い出したのが『日本会議の研究』を巡る一連の裁判でした。

このときも、「言論の自由」と「名誉毀損」で争われました。

結果はどうであったか。

『日本会議の研究』の記事には真実性も真実相当性も認められず、人格権・名誉権を違法に侵害しているとして、「名誉毀損」が認められたわけです。

つまり、「言論の自由」があるとうそぶいて、名誉や社会的信用を毀損するような違法行為を行う自由まですべて認められるわけではないということが明らかになったのです。

今回、そのことが問われているわけです。

昨今、阪田氏の支援者たちの、ネット界隈での表現を見ていると、匿名にかこつけて、平然と代理人の弁護士に対してまで卑劣な侮辱に満ちた人格攻撃をし、名誉や社会的信用を毀損しても一向に構わないという無法な姿勢を目の当たりにして、今回の事件は社会的に大きな影響を及ぼすと私は見ています。

自分の言っていることが、名誉毀損などの犯罪や不法行為に当たるということすら気づかない…。

それに気づかせるには、被害者が法的救済を求めることもやむを得ないことだったのだという思いでいっぱいです。


〝真理で人を裁くなかれ〟〝真理は自分の生き方を正すためにある〟 (14273)
日時:2022年04月29日 (金) 17時18分
名前:破邪顕正


〝裁くものは裁かれる〟

それを私は今、目の当たりにしているように思います。

真理で人を裁くことの怖さを、改めて思い知るべきだと思ってもいます。

真理は、常に鏡として、自分の生き方を正すよすがとなすべきであって、それで人を裁いたりしてはならない…。

真理は、ときに自己反省する、言わば生き方の〝トリセツ〟にすべきものだと私は思っています。

「知床観光船遭難」の傷ましい事故が起きましたが、亡くなられた方に対して、「その人の業がそのような運命を引き寄せたのだ」などと、訳知り顔に真理で裁いてはならないものでしょう。

そのように、真理で安易に相手を裁いてはならないのです。

何故、こういうことを申し上げたかといいますと、今回の一連の問題の発端は、阪田氏が突然、「谷口雅春先生を学ぶ会」を〝分派〟と非難したことに始まるからなのです。

その始まりをどういうわけか、意図的にか、無視しているように思えてなりません。

しかも、それが単なる非難に留まらず、阪田氏は「尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました」とまで書いたのです。

これは、会名の「谷口雅春先生を学ぶ会」を完全否定するも同然の、とても由々しき、悪意に満ちた表現と言わざるを得ません。

それを言うのならば、現教団の方がよほど尊師に反逆する、ヒドイことをしているのではありませんか。

だって、著作権を「絶版権」であるが如くに捉え、愛国聖典等を次から次へと実質上の、絶版状態にしているのですから…。

尊師のお悲しみはいかばかりかと思います…。

それをしも、一貫して反「谷口雅春先生を学ぶ会」の論陣を張って来た人がいうのであれば、それはそれで致し方ないと、私も受け容れます。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は潰れろ!

そう願って一所懸命、ネット等でガンガン言い募っている人たちがいることは周知の通りです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が潰れて一番、喜ぶのは一体、誰でありましょうか。

現教団しかありません。

だから、そういう人達は、結果的に現教団の応援団なのだと私はずっと思ってきました。

そういう人達が出現するのは、それはそれで致し方ないとも思っています。

『限りなく日本を愛す』の中に、こうあるからです。

《歴史作者の民族的理念が其処につらぬいていながらも、現実の事実に於いては一據にその理想が実現しないで、反作用が起って来る。》(136頁)

ですから、何か事を為そうと思うのであれば、当然、その〝反作用〟は現出するし、それを覚悟して乗り越えていく力をつけるしかない…。

そして、その〝反作用〟こそは更なる前進の糧にしなければならないとも思っています。

しかし、阪田氏は、本来、そういう人たちとは自ずと違います。

だって、それまで一緒に、ともに〝同志〟だと思ってやってきた事実があるからです。

なのに、どうして、突然、こんな掌返しをされたのか。

一体、これまでのお付き合いとは何だったのか。

「光明の音信」と題して発刊するのであれば、そのタイトル通り、〝光明〟の真理のみを書いていかれたらよかったのに…。

「谷口雅春先生を学ぶ会」や「社会事業団」を、言上げて非難しなければならない必要性、必然性が一体、どこにあったというのでしょう。

なるほど、今から思えば、阪田氏の心中には、「気に入らない」という思いがあったのかもしれません。

しかし、そう思うことと、それを文字にするのとでは、自ずと全然、次元が違ってきます。

そのことは、森田先生を見ていればはっきりと判ります。

阪田氏は、何かと森田先生のことを引き合いに出されますが、森田先生は色んな思いはおありになっても、それをそのまま公に文書になさることは一度たりともありませんでした。

もし、それをやってしまったら、それが周りにどのような影響を及ぼすか、ご自身、よくご承知であったからだと私は解しています。

本来ならば、阪田氏は、森田先生の、そういうご姿勢をこそ範とされるべきだったのです。

だって、阪田氏が書いたことによって、一体、どうなりましたか。

常日頃から「谷口雅春先生を学ぶ会」、「社会事業団」のことを快く思っていない人達を喜ばせただけに終わったではありませんか。

本来は、現教団の問題を正すべきであるのに、その矛先を私どもに向けてくる人まで現れてしまいました。

一体、現教団と私どものどちらが尊師の教えを護ろうとして、一所懸命、精進しているか…。

その冷静な判断すら出来なくなり、恨み、憎しみをこちらにぶつけてくる…。

本当に残念なことですが、起きてしまったことはもはや取り返しがつきません。

この現実から、出発するだけです。

そして、これを飛躍のバネにしていくしかないと私は覚悟しております。



「言いたい人には言わせておけばいい、どうして裁判沙汰にしたのか」と抗議される向きがありましたので… (14278)
日時:2022年05月02日 (月) 11時51分
名前:破邪顕正

今回の一連の問題の発端は、阪田氏が突然、「谷口雅春先生を学ぶ会」を難じたのがはじまりだったということを申し上げてきました。

しかし、当初、それについて当方から苦情を申し上げたことはありませんでした。

勿論、どうして、阪田氏は、突然の掌返しをするのか。

本当に残念な思いはありましたが、しかし結局、阪田氏はこちらは同志として一緒にやっていけると思っていたが、それはこちらの一方的な片思いであったのか。

阪田氏とはもはやこれまでか、致し方ない、ならば、それこそ「言いたい人には言わせておけばいい」そう思っていたのです。

ところが、黙っているうちに、今度は、社会事業団を難ずることを書かれるにいたった…。

今回も「言いたい人には言わせておけばいい」…とはならなかった重大な理由があります。

それは、その内容が著作権に言及するものであったからです。

ご存じのように、今なお、現教団とは係争中にあります。

その中で、いつも問題になるのが、「黙示の許諾」という話なのです。

かつて、現教団と社会事業団とは親密な関係にありました。

事改めて、社会事業団から色々ということはなかった時代がありました。

そういう時代の頃を捉えて、教団側は、「黙示の許諾」をしてきたではないかと言い募ってくるのです。

この意味をわかりやすく言うと、あのとき、何の文句も注文もせず、黙って許してきたではないか。

(実際に、裁判では、教団は「社会事業団から異議を受けたことはない」という言葉を連発したそうです。それに対して反証するために、数十年間の膨大な記録文書の中から証拠を探し出し、また、当時の事情をご存知の方を証人になっていただくよう、大変な苦労があったそうです。)

黙っているということは、それはそのまま認めた、容認したことになるのだという、これはそういう意味の法律用語です。

つまり、阪田氏が書いたことについて「言いたい人には言わせておけばいい」を黙って見過ごしていたら、それこそ「黙示の許諾」となって、今後の訴訟に悪影響を及ぼしかねない…。

また、社会事業団の基本財産である著作権について真実と異なる誤解(虚偽の風説)を容認すれば、社会事業団の責務である「著作権の保護」を全うしていないとして監督官庁からの問題にもなりかねない…。

その懸念を払拭するために、阪田氏には、こちらから内容証明を送って、最高裁判決に抵触する箇所がありますから、それについて、事実誤認を謝罪され、「光明の音信」の読者に訂正の文章を書いてほしい。

そうすれば、こちらとしては「不問にします」ということを書いて送付したのです。

何か、勘違いしている向きがあって、端っから、こちらが何か阪田氏を裁判にかけようと思っていたと思い込んでいる方もあるようですが、決してそんなことはありません。

事は、最高裁判決に関わる著作権のことであるから、このまま「黙示の許諾」とするわけにはいかないという現実判断が働いということなのです。

ところが、阪田氏は、頑なにこちらの要請に応じなかったのです。

そうであれば、もはや、やむを得ない、裁判できちんと決着をつけるしかないということになったのです。

何故、「言いたい人にはいわせておけばいい」ということにならなかったのか。

再度、繰り返しますが、これが著作権に関わる問題であったからこそです。

だって、私たちの運動が成り立っているのも、全ては、この著作権が大前提となっているのですから。

その大前提にケチをつけられたら、当然、それを看過して頬被りすることは出来ない…。

影響力のある阪田氏なればこそ、それなりのお詫びの文章を書いてもらわないと困る…。

それを受け容れないということであれば、法的救済手段に訴えるのも無理からぬ、やむを得ない判断ではなかったでしょうか。

とにかく、最初から裁判沙汰にしようと思っていたわけではありません。

「黙示の許諾」という事態は、公益財団法人の存立をゆるがす重大な問題になるので、何としても避けなければならなかったという事情があったからこそなのです。

そのことをぜひ、ご理解いただきたいと思う次第です。


「破邪顕正」様へ (14288)
日時:2022年05月05日 (木) 18時52分
名前:月見草

一連の流れが よく分かりました。有り難うございます。

色々と言われる方が有るようですが、心を無にして読んで頂ければ、必ず理解できるはずです。

阪田氏の訴訟に関して、余りにも〝事実〟の歪曲が罷り通っているようなので、ここで一言、苦言を呈します。「谷口雅春先生を学ぶ会」は今回の訴訟の当事者ではありません! (14291)
日時:2022年05月06日 (金) 10時56分
名前:破邪顕正


「月見草」さん、投稿、ありがとうございました。

残念なことですが、「則天去私」さんや、所謂「トキ掲示板」の投稿者の中には、「谷口雅春先生を学ぶ会」のことを恰も目の敵であるかの如く攻撃なさっておいでです。

例えば、これなぞの表現にはもうビックリです。

〝スラップ訴訟ならいつでも受けます‼️かかってこい学ぶ会‼️〟

こんな喧嘩腰の表現をなさる方が、本当に谷口雅春先生の御教えを学んでいる方なのだろうかと、正直、暗澹たる気持ちにすらなっています。

どうして、こういうことを仰るのか。

何か「谷口雅春先生を学ぶ会」が阪田氏を訴えていると思い込んでいるからではないのか。

この際、はっきりと申し上げさせていただきます。

今般の阪田氏の訴訟に関して、「谷口雅春先生を学ぶ会」は原告ではありません。

それはそうですよ、だって阪田氏との問題は、あくまでも「著作権」を巡ってのそれだからです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、著作権を有する「(公財)生長の家社会事業団」との親密な関係の上にたって、『生命の實相』等をもって光明化運動に励んでいる団体です。

そのことを見れば、そもそも、著作権に関わる訴訟に、「谷口雅春先生を学ぶ会」が当事者となるわけがないではありませんか。

「言論の自由」が保障されているとは言え、〝事実〟を踏まえないそれは如何なものかなと思うばかりです。


頭注版『生命の實相』第30巻より (14292)
日時:2022年05月06日 (金) 23時22分
名前:月見草

「破邪顕正」様、有難うございます。

今日、拝読したところにも このように書かれていました。


「イエスは必ずしも無抵抗に執われず

…われわれは時にはなるほど、無抵抗でいなければならないこともあります。しかし大いに相手に対して抗言しなければならないこともあります。とくに真理に関することでは争わねばならないことがたびたびあるのであります。…」

「邪説を排撃するの可否

これは別に人と争うために争うのではないのです。真理を述べるために、他のまちがった邪説と衝突するということはこれまたやむをえないことであります。…

…十分真理の悟れない人や、いわゆる宗教業者で商売敵だと思って揚げ足取りして非難される人がありますが、そういう場合、生長の家では黙殺することもありますが、他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には敢然としてその人たちの妄論を反駁することもあります。…」


尊師のみ教えを正しく学びご指導頂ける私たちの幸せを思います。心より感謝申し上げます。



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