谷口雅宣総裁、今こそ持論の「今の教え」に従って、「鎮護国家」の教えを大いに弘めるべきときではありませんか。「石上げの行」に興じている場合ではないでしょう。 (14201) |
- 日時:2022年03月12日 (土) 14時11分
名前:破邪顕正
現総裁と言えば、「今の教え」が持論。
常に移り変わる時代状況に応じて、教えの説き方も千変万化しなければならないし、当然、それに従って、運動方針もその目標も変わっていかなければならない…。
であれば、「鎮護国家」の教えを説くのこそ、まさしくその「今の教え」に合致するのではありませんか。
こんなときに「石上げの行」なんかやっている場合ではないでしょう。
尊師・谷口雅春先生は「何故、現象界の処置が必要であるか」と題して、次のようにお諭しくださっているのですから…。
《神のみが唯一の力であり、神は善であり、神は無敵であるから、神を信ずる限り、「実相の完全さ」を神想観で念ずる限り、中共が核兵器をもとうとも、神の力に敵するものはないから、それに対抗する日米安保態勢など不要ではないかというような議論が往々行われるけれども、それは実相と現象との区別をわすれて、現象界に於ける適当の処置をなおざりにするものである。「実相の完全さ」を念ずるとき、その「完全さ」があらわれるための現象的処置が自然に出来て来るのである。インフルエンザ・ヴィールスが侵入して身体に熱があるときには、寒む気がして自然に温かい衣料で身体を覆いたくなるように、内部の「神の力」(生命力)が催して来るのである。中共の核兵器が近くにあるのはヴィールスが皮膚面に迫って来つつあるのにも似ている。何かそれに対して危険を感ずるのは、カゼ引きの時、悪寒がするのに似ている。「温かい衣料で覆う」ことは充分の軍備で自国を覆うか、日米安保条約の外套で自分の身体を包むのに似ているのである。神は無敵であるということは、何もしないで外敵に身をさらすということではない。時と処と相手とに応じて、神が適当な処置をとらせ給うて、自然的過程を通じて敵と見えたものが害をしなくなるということである。》(『神と偕に生きる真理365章』279~280頁)
尊師がこれをお説きになられたとき以上に、中共は今やアメリカ・ロシアに匹敵するような核兵器をもち、更には北朝鮮だってそれを保有していると見られているわけです。
そんなときに、「無防備・無抵抗」の〝第九条〟であっていいわけがないではありませんか。
谷口雅宣総裁は、「冷戦が終結」したと思ったら、そうではなかった…。
素直にその自らの不明を認めて、尊師が仰ったように「占領憲法」では駄目であることをはっきりと訴え、「憲法改正」の運動を支援するよう説いていくのが、まさしく「今の教え」であると思うものであります。
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