「ウクライナは降伏して早急に戦争を終わらせよ」というコメントが、何故、恥ずかしげもなく罷り通るのか… (14202) |
- 日時:2022年03月12日 (土) 15時02分
名前:破邪顕正
表題にあるようなコメントが、ワイドショーで散見せられるようですが、これこそはまさしく戦後的価値そのものと言えそうです。
どうして、こういう価値観が蔓延ってしまったのか。
それを見事に分析してみせてくれているのが、早稲田大学の有馬哲夫(ありまてつお)教授です。
〈約束を破った占領軍 皇室の維持という点では「国体護持」がなされた。ところが、国家神道と軍国主義の除去という点では、「国体護持」の条件は守られなかった。
占領軍は終戦から4カ月後の12月15日に「神道指令」を出して、軍国主義の中心にあった国家神道を禁止した。国のために命を捧げれば靖国神社に神として祀られるという思想を禁止した。
次いで、教育の場から徹底的に軍国主義を追放した。1946年2月4日、CIE(民間情報教育局)は、文部省に次のように解釈される要素を含む歴史教科書記述を削除することを命じた。
〇国民の英雄的及び一般的活動として戦争を賛美すること 〇天皇や祖国のために戦死を名誉とすること 〇人間の最高の名誉として、軍事的偉業や戦争の英雄を美化すること 〇天皇を防御し、国家発展のために、桜の花が散るがごとく人間の生命を犠牲にすること 〇天皇のために死ぬことを義務とする考え 〇天皇の勅令に対しての従属的な考え
われわれ日本人がよく知るように、こういった考え方や価値観は戦後教育において徹底的に排斥された。そして、日本人は、「戦争を賛美してはいけない」「戦争で戦う人を英雄視してはいけない」「国のために自分を犠牲にすることはよくない」「国のために死ぬことを名誉としてはいけない」という考え方を植え付けられた。
問題なのは、侵略戦争と自衛戦争を区別していないということだ。これは、憲法の戦争放棄条項を見てもわかるように、占領軍が意図的にしたことであって、侵略の戦争はもとより、自衛の戦争であっても、とにかく戦争はしてはいけないのだ。占領の目的が日本を自衛戦争さえできない国にすることだったからだ。
こうして、「国体」のうち、国家神道と軍国主義は破壊された。この点ではアメリカは終戦条件を守らなかった。しかも、これは次のようなハーグ陸戦条約に違反していた。
第43条 国の権力が事実上占領者の手に移ったら、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重し、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、できる手段を尽くさなければならない。
第46条 家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない。
結局、日本は「国体護持」できたのかといえば、半分はできたが、残りの半分はできなかったといえる。やはり、占領されるということはそういうことだ。
亡国の民の心情を想像せよ 無条件降伏していたなら、半分も「国体護持」ができなかったことは明らかだ。また、降伏相手がアメリカだったからよかったが、ソ連だったら、傀儡政権を作ったのち、日本人の半分ほどをシベリアに強制移住させたあと、ロシア人を入れて日本本土を支配しただろう。つまり、国を奪われていたのだ。
こうしてみると、なぜ一部日本人が祖国防衛のために身を挺して戦うウクライナ人の行動を理解せず、批判するのかわかる。要するに彼らの歴史認識が間違っているのだ。
彼らは無条件降伏しても別にどうということがないと思っているが、それは日本が「国体護持」の条件を獲得するために最期まで戦ったことを知らないからだ。また、日本の場合は、たまたま領土的野心を持たないアメリカに降伏したので、国を奪われずにすんだが、ウクライナ人の場合はそうはいかないということが理解できていないのだ。
占領軍によって植え付けられたマインドセットから抜け出せていない日本人は、自衛の戦争であっても「戦争はよくない」といい、国のために戦うな、犠牲になるなといい、勝ち目がないし、無駄だから、さっさと無条件降伏すればいいという。国を奪われること、亡国の民となることがどんなことか理解していない。
彼らはウクライナ人がおかしいという。国際的に見て、おかしいのは占領軍のマインドセットから抜け出せていない日本人の方なのだ。〉
結局、こういう敵前逃亡の〝無抵抗・降伏主義〟を是とするような考え方が蔓延るのは、戦後日本から「義を見てせざるは勇無きなり」という価値観、肉体生命以上の価値があるという考え方が蔑ろにされてきたからに他なりません。
本来、日本人がもっていた〝恥〟の文化が消失してしまっているのです。
そのことを尊師は、前掲書の「なぜ人間は愛のために肉体を捧げた人を美しいと感ずるのか」というご文章の中で〝物質や肉体のいのちを惜しがる奴はきたない〟と題してこう書いておられます。
《非常に物質的な執着が強くってたくさん金が有りながら出すのを惜しんだり、所謂けちん坊という奴、吝嗇漢というような奴を見たり、或いは愈々命捨てにゃならんという時に皆が一緒に命捨てようといっている時に自分だけ逃げ出すというような忠臣蔵でいうと大野九郎兵衛みたいな、そういう奴を見ると何となしに「彼奴(きゃつ)は卑怯である」「値打がない、卑しむべき奴である」「軽蔑すべき奴である」というような感じがきっと起るでしょう。何故そういう感じが起るかという問題であります。》
この「きたない」「卑怯」「卑しい」「軽蔑」という価値観こそ、とても重要なそれではないでしょうか。
そのことを、ここに出て来る「大野九郎兵衛」で見てみましょう。
赤穂藩の経理係(経済官僚)であった大野は、あの松の廊下での刃傷事件後、開城恭順を主張したために、殉死・切腹を唱えた大石内蔵助と対立し、金を盗み取って逐電。
その際、孫(赤ちゃん)を置き去りにしたりしていて、後世においてたいそう評判が悪く、講談では彼は強欲で悪計をめぐらしては金を儲けることばかり考えている、武士としてはあるまじき奴と紹介されています。
蓄電したのは、大野が侮辱した岡嶋八十右衛門に「勝負しろ!」と家に押しかけられ、そのとき臆病風に吹かれたことが原因。
主家断絶後は、江戸の友達・木村善助をたより、横領金を元手に安穏と暮らしていたが、最後は親子共々、斬り殺されて生涯を終えたということになっています。
大野のように、とにかく生き延びる…。
たとえ生き恥をさらしてでも生き延びる…。
これが戦後日本の価値観だということです。
ウクライナの愛国心、その敢闘精神が理解できないのも無理はありません。
ウクライナはまさしく戦後日本の鏡としてあると思う所以です。
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