《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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不滅の真理を体得して一切の苦厄から救われる「写経のススメ」 (14185)
日時:2022年03月08日 (火) 13時50分
名前:サンポー

合掌ありがとうございます

日頃からの皆さまの真理の実践を心から感謝合掌申し上げます。

世界中を巻き込んでいる感染症による苦しみ、最近ではロシア軍によるウクライナへの侵攻、更にその先には・・・


古来から日本人が現世と伝えてきた現象世界(人間の五感で感じる世界)には清濁の人間の心の顕れが様々な形で減少として映し出されます。

日本ではかつて飢饉や疫病の流行、また異国からの夷敵の侵略などが起こった際、祈りと共に行われてきたのが真理の言葉を書き写して神力を得られあらゆる苦難から守られると信頼されてきた「写経」であります。


老若男女、人種など問わずに春休みにも差し掛かってきているこの時期だからこそ、大調和の神示の写経、あるいは般若心経を始め「写経」と呼ばれる行を通して心を整えてこれからの生活が光明溢れる生活を得られるキッカケを皆様が得られますように心からお祈り申し上げます

再拝


「般若心経」解説文 (14188)
日時:2022年03月08日 (火) 23時00分
名前:サンポー

合掌

写経を行うにあたり真理の理解を深めるために谷口雅春先生著 生命の實相t頭注版 39巻「佛教編」より「般若心経」解説文の該当部分を抜粋させていただきます。

般若心経の解説については他にも谷口雅春先生著作集7「真佛教の把握」や、新選谷口雅春選集・6「あなたは自分で治せる」にも掲載されております。



第四章 仏教とキリスト教はかくして融合す

(略)

十二

観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じたまう時、五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即まに是れ空なり、空即まに是れ色なり。受想行識も亦復是の如きなり。舎利子よ、是の諸法の空相は、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず.是の故に空中には、色も無く、受想行識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色声香味触法もなく、限界もなく乃至意識界も無く、無明もなく、亦無明の尽くるところもなく、乃至、老死もなく、亦老死の尽くることも無く、苦、集、滅、道も無く、智も無く、亦得も無し、無所得を以ての故なり。菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心罣礙(けいげ)無し、罣礙(けいげ)無きが故に恐怖有ること無し、顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃(くぎょうねはん)す。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知んぬ、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり、是大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり、能く一切の苦厄を除いて、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。
・・・(『般若波羅蜜多心経』)

 これは唐の玄奘三蔵訳の『般若心経』の一節であります。無明もないから、無明の尽くることも無い。老死もないから、老死の尽くることもない。色即是空すなわち物質(色)はあるがままにそのままに空なのである。「即」はそのままである。物質は否定して空なのではなく、否定するもしないもない、そのまま空なのであって、空即まに物質と見えているのである。空は単なる「ない」ではなく、そのまま不増不減金剛不壊の実体なのである。その不増不減金剛不壊の実体を自覚するには、五官六根の感覚の否定を必要とする。だから眼耳鼻舌身意なしと否定している。かくて、菩提薩埵すなわち菩薩大士はそのままにこの身このまま金剛不壊の久遠法身なりと自覚するから、心に罣礙(さわり・けいげ)なく自由自在を得て、恐怖心がなくなる。三世の諸仏もこの般若波羅蜜多の行によって阿耨多羅三藐三菩提すなわち悟りを得たというのである。

 この身このまま金剛不壊の久遠法身と悟れば、これが即身成仏である。この身このまま大日如来の法身である。物質的に肉体と見える姿がどうあろうとも、それを超える、そしてこのまま法身、霊身、金剛不壊身、久遠人間とわかる。物質身から法身への吾の置換えである。キリストの言った「天より降りし者のほか天に昇りし者なし」という意味の天より降りし「神の子」が自分自身であると悟るのである。「神の子」をただある特定の人のみだと思ってはならない。人間は皆このままに神の子なのである。蛇の知恵(知恵の樹の果の知恵ー五官知)で見たときには人間は物質身(「汝は塵なれば塵にかえるべきなり」)であるが、般若の智慧(五蘊皆空、無眼耳鼻舌身意の智慧)で見れば、人間はこのまま金剛不壊法身である。このまま如来である、このまま仏である、このまま神の子であるのであります。ここに病老死憂悲悩苦の世界を超えてわれわれはエデンの楽園を奪還しうるのであります。

 五官の眼で見れば、地球に生じた黴の一種にすぎない人間が、般若の智慧で見れば、神仏のままの法身である。これをキリストは「人あらたに生まれる」と言われたのです。法身とは真理の身体である。キリストが言われた「吾は生命なり真理なり道なり」である。現実人間は、一方に滅すべき「肉」なりとの妄覚と、久遠不滅法身なりとの内在自覚との、二つの「覚り」の間に彷徨するところの鵺(ぬえ)的存在である。肉より生じたという妄覚を打破してしまわないかぎりは、生命内在必然の要請が満足しない。この内的必然の要請を満足せしむるものが、仏教では釈迦が摩耶夫人の右脇に懐妊したとの神話であり、キリスト教ではマリアの処女懐妊の神話である。それは人間は「肉より生まるるものは肉なり、霊より生まるる者のみ霊なり。」この自覚に生まれかわるとともにいっさいの物質としての肉体に付随するところの苦厄が解放されるのであります。
 
 観世音菩薩はいっさいの苦厄を度(すく)うのに五蘊皆空と照見せられたのだと釈迦がお説きになったのがこの『般若心経』なのであります。昔から『般若経』を翻読するだけでも病気が治り、魔障が解除せられると伝えられておりますのも、その根本は、物質無、肉体無、五官無、六根無……しかしていっさいの固定せる「生命の自由への障害」を否定し去った結果、完全なる「生命の自由」を回復しえ、そこに真空妙有の世界を肯定しうることになるからであります。諸君は、「人間は神の子」という実相を肯定し自覚するために、この否定の哲学を一度通過して、さらに物質肉体あるがままに「空」にして自在なるところの、妙有の真身を自覚しなければならないのであります。それには本を読んでただ「頭」で解るだけではいかぬ。観世音菩薩の深般若波羅蜜多行を行じて、絶対実在の絶対認識を必要とするのであります。生命を生命で直接把握するのであります。この観世音菩薩の行じられた深般若波羅蜜多行が、生長の家で指導し実修せしめている神想観であります。



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