現総裁が「石上げの行」に入れ込んだのは、ギリシャ神話に興味があったのが理由とか。本来ならば、そこは「記紀神話」でしょうに…。 (14141) |
- 日時:2022年02月18日 (金) 09時06分
名前:破邪顕正
表題のことは、『誰でもできる「石上の行」』の59頁に出てきます。
〈「石上げの行」が始まったきっかけは?〉との問いにこう答えているのです。
〈ギリシャ神話にある「シーシュポスの岩」の話は、昔から興味がありました。これは神々を欺いたシーシュポスが罰として永遠の苦役を強いられる話ですが、石や岩は苦役ばかりではないと感じていました。〉
現総裁は、こういう話に興味があったのかと驚きました。
尊師は〝神罰なし〟をお説きになられたのに…と、どうしても思ってしまうからです。
案外、深層意識裡に、〝尊師を欺く〟という思いが蠢いていからではないのか、そんなことまで思ってしまいました。 何もギリシャ神話に興味をもつなとは言いませんが、しかし、「生長の家」の教えを説こうというのであれば、何にもまして「記紀神話」でなければならないのではありませんか。
だって、尊師は、『生長の家』誌・昭和30年新年号に、「生長の家の全貌 生長の家は現代に何を与えるか」と題して、こう仰っておられるのですから。
《神武天皇と大和(だいわ)の理想は日本民族の魂の中に儼然として存在するところの理念でありまして、形の世界はその理念の具象化として、徐々に展開し行くものでありまして、途中に色々の消長や停頓がありましても、この「神武」の理念と「大和」の理念とを骨子として、それに具体的歴史が肉付けられて行くのであります》
こういう「理念」の話をこそ、今の時代、大いに求められているのではないでしょうか。
わが国を取り巻く内外の厳しい環境に思いを致せば、国家の有り様に無関心ではいられないからです。
そういうときに「石上げの行」に入れ込むとはどういうことか。
それが「生長の家」の本義とはとても思い得ない…。
能天気すぎやしませんか。
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