《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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現教団は「石上げ教団」と化した!『生命の實相』が発刊されて90周年の記念すべき年に、教団あげてやるのが「石上の行」なのですか… (14140)
日時:2022年02月16日 (水) 15時39分
名前:破邪顕正

先日、教団信徒さんから、こういう話を聞きました。

〈うちの教区では『生命の實相』をテキストにはするな。そういう勉強会をしているところがあれば通報するように。そう言われているから、隠れて密かに、信頼できる人達だけで『生命の實相』の勉強会をやっています。「立憲民主党を支持せよ」なんてもうウンザリです。〉

こういう不満が、あちこちで渦巻いているようです…。

現教団には、『生命の實相』発刊の90周年をお祝いする気持ちなど、毫もないようですね。

そういうところにもってきて、この度、現教団は、表題に書いたように、「石上げの行」に入れ込むようです。

それに向けて発刊された、現総裁監修による『誰でもできる「石上の行」』を手に入れて読ませていただきました。

まず「はじめに」という文章を読んで、改めて、こんな教団、早く退会していて本当に好かったと思わないではいられませんでした。

だって、こう書いてあるのですから。

〈私たちは人生の中で、さまざまな希望をもち、課題に出会いますが、石上げの行を実施することで、意識の向上や魂の成長を通して、希望成就や課題解決の道が拓かれます。〉

これって、オカシイでしょう。

ことあらためて「石上げの行」なんかしなくても、尊師から「神想観」という、最高の神授の行を教えていただいているではありませんか。

現総裁にとってはそれもまた完全ではない、所謂〝補強〟しなければならない…。

それが「石上げの行」ということなのかもしれませんね。

「聖経」も補強、「神想観」も補強…というわけですか。

もう、これでは尊師の「生長の家」とはいえませんよ。

「石上げ教団」と名乗ったがいいのではありませんか。

ところで、新編『生命の實相』について〝憎悪〟を剥き出しにしている皆さん。

この「石上げ教団」のことはどう思っているのでしょうか。

「石上げ教団」が、尊師の教えを真っ当に継承していると思いますか…。

ぜひ、『誰でもできる「石上の行」』を読んで、その感想をお伺いしたいところですね。

私なりに思うところを、これから連載してまいりたいと思っております。

そして、一人でも多くの方に、現教団にはもはや尊師の教えはない、と知っていただきたいと思います。

その一助になれば幸いです。



現総裁が「石上げの行」に入れ込んだのは、ギリシャ神話に興味があったのが理由とか。本来ならば、そこは「記紀神話」でしょうに…。 (14141)
日時:2022年02月18日 (金) 09時06分
名前:破邪顕正

表題のことは、『誰でもできる「石上の行」』の59頁に出てきます。

〈「石上げの行」が始まったきっかけは?〉との問いにこう答えているのです。

〈ギリシャ神話にある「シーシュポスの岩」の話は、昔から興味がありました。これは神々を欺いたシーシュポスが罰として永遠の苦役を強いられる話ですが、石や岩は苦役ばかりではないと感じていました。〉

現総裁は、こういう話に興味があったのかと驚きました。

尊師は〝神罰なし〟をお説きになられたのに…と、どうしても思ってしまうからです。

案外、深層意識裡に、〝尊師を欺く〟という思いが蠢いていからではないのか、そんなことまで思ってしまいました。

何もギリシャ神話に興味をもつなとは言いませんが、しかし、「生長の家」の教えを説こうというのであれば、何にもまして「記紀神話」でなければならないのではありませんか。

だって、尊師は、『生長の家』誌・昭和30年新年号に、「生長の家の全貌 生長の家は現代に何を与えるか」と題して、こう仰っておられるのですから。

《神武天皇と大和(だいわ)の理想は日本民族の魂の中に儼然として存在するところの理念でありまして、形の世界はその理念の具象化として、徐々に展開し行くものでありまして、途中に色々の消長や停頓がありましても、この「神武」の理念と「大和」の理念とを骨子として、それに具体的歴史が肉付けられて行くのであります》

こういう「理念」の話をこそ、今の時代、大いに求められているのではないでしょうか。

わが国を取り巻く内外の厳しい環境に思いを致せば、国家の有り様に無関心ではいられないからです。

そういうときに「石上げの行」に入れ込むとはどういうことか。

それが「生長の家」の本義とはとても思い得ない…。

能天気すぎやしませんか。


「石上げの行」は偶像崇拝になるのではないのか?信徒からも危惧の念が出ているようで… (14143)
日時:2022年02月19日 (土) 11時26分
名前:破邪顕正


表題のことは、『誰でもできる「石上の行」』の61頁に出てきます。

〈「石上げの行」では、石や三本の枝などを使いますが、偶像崇拝を生み出す危険性があるのでは…〉との問いに、その危険性はあると認めた上で、こう答えているのです。

〈…これを過度に行うことは危険です。石という物質に執着することになり、執着が進行して…石を神だと勘違いすると偶像崇拝になります。そこまでいかないように注意して、「刻印した石は自分の心の表れだ」こぐらいに認識をとどめておくことが必要です。〉

そんな危険性を伴うような行ならば、そういうことはしない!

それでいいのではありませんか。

何故に、そんな危険性を冒してまで実行させようとするのでしょうか。

62頁に、その目的がこう記されています。

〈…それを刻んだ時の自分の心は記憶に残ります。またその石の前で合掌することで、その記憶を持続させることができます。こちらの「心の姿勢」の方が重要であり、それを持続させることが儀式の目的です〉

〝石の前で合掌する〟のですか。

それこそ、偶像崇拝ではないのですか。

いくら読んでも、なんでわざわざ、こんな「石上げの行」なんぞに取り組まなければならないのか、サッパリ、理解できませんでした。

〝その木の善し悪しは、その果実によって知らるべし〟

「石上げの行」から、果たして、どんな果実が生まれるか。

それはそれで興味つきませんが、「讃歌」読誦の体験談集を編纂しようとして、それが日の目を見なかったという話を漏れ聞いておりますが、今回も同様の結果に終わるのではないでしょうか。

それより何より、こんな偶像崇拝まがいのものをやっていたら、逆におかしな体験が出てきやしないかと、むしろ、そちらの方が心配です。

危ういかな、「石上げの行」。

おかしな、怪しげなことには手を出さないのが一番。

尊師からご教示いただいた「神想観」を厳修し、聖典拝読・聖経読誦に励むことの方がはるかに素晴らしいと思うものであります。


「石上げの行」では〝肉体を十分使〟うようですが、これでは尊師の「悟り」にはつながらないのではないでしょうか… (14145)
日時:2022年02月21日 (月) 16時53分
名前:破邪顕正

表題のことは、『誰でもできる「石上の行」』の「はじめに」の中にある、この文章を読んでいて、フト思ったことであります。

〈石上げの行では…自然環境の中で、自然が与えてくれた私たちの肉体を十分使いながら、〝より高い心境〟を得ることを目指して石を上げます〉

ここに言う、〝より高い心境〟というのを、一つの〝悟り〟と捉えれば、この「石上げの行」で果たして〝悟り〟を得られるのであるか、甚だ疑問に思います。

それは明らかに『無限供給の扉を開く』で尊師がお説きになられた真理とは違っているように思うからです。

175頁以降にあることを要約して書き留めておきます。

《昔から悟りを開いたと云う人はそう沢山ないのです。釈迦、キリスト以来名僧智識は出られたけれども、それはまあ数える程しかないんですね。それで何かもっと簡単に悟りが開ける方法はないだろうか、その近道はないだろうかと考えて、それでその近道へ行くところの方法を私が工夫したんです。それが〝生長の家〟であります。》

まさしく、ここにこそ、〝生長の家〟の真骨頂があるわけです。

それでは、悟りへの近道とは何か。

こう続きます。

《その近道へ行く方法として、言葉の力を使います。》

「石上げの行」ではありません、「言葉の力」こそがその近道なのです。

《どういう言葉であるかと言うと「物質は無い。肉体は無い」と云う言葉なんです。此の一喝なんです。》

「石上げの行」は、この〝一喝〟に反するのではありませんか、ということを申し上げたいのです。

《今迄多くの教祖さんが御苦しみになったのは、この肉体というものを本来「無い」とこう頭から一喝してくれる人がなかったからなんですね。…生長の家では、『生命の実相』を読んで「物質は無い。肉体は無い」という実相哲学を体得しますと、心の世界で肉体も物質も超えてしまうのです。》

如何でしょうか。

「石上げの行」などしなくとも、それが目指す〝より高い心境〟は、〝『生命の実相』を読んで「物質は無い。肉体は無い」という実相哲学を体得〟すればいいのです。

しかし、現総裁は、この『生命の實相』を端っから否定してかかっている…。

だから、こんな「石上げの行」などという、オカシナものを拵えなければならなくなるのです。

折角、近道を教えてもらっているのに、何という勿体ないことでしょうか。

新編『生命の實相』を憎悪する皆さんは、そのエネルギーを、この「石上げの行」にこそ振り向けるべきではありませんか。





「石上げの御祭」では、完全に「聖経」が外されています (14148)
日時:2022年02月22日 (火) 09時46分
名前:破邪顕正


『誰でもできる「石上の行」』の45頁には「石上げの御祭」の〝祭次第〟が記されています。

この「祭り」では、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」ならびに「大自然讃歌」を読誦するようになっています。

完全に、「聖経」は外されています。

現教団では、「聖経」は必ずしも必要とはされない…。

「讃歌」で、十分、それに取って替わることができるから、ということなのでしょう。

更に、思うのは、その前後に〝蓮華合掌祈念〟〝蓮華合掌解除〟というものが出てくることです。

「祭り」に〝解除、という言葉は如何なものかなと思います。

で、この〝蓮華合掌〟とは何か。

49頁に、その説明が書かれています。

〈「蓮華合掌」は…普通の合掌の形です。これを「菩提心」の象徴である未開敷(みかいふ)蓮華(開花していない蓮華の蕾)と見なすことで、参列者はそれが開花する(悟りを開く)ことを祈念します。〉

私たちがしている普通の合掌を敢えて〝蓮華合掌〟と表現しているところに、とにかく今までのものを変えていきたい…。

何か新機軸を打ち出したいという、現総裁の並々ならぬ思い入れを感じないではいられません。

つまり、創始者が作り上げた世界をそのまま継承することは嫌だという、これは現総裁なりの意志表示ではないのかと思うのです。

果たして、こんな姿勢で「生長の家」の教えは、未来永劫、続いていくのでしょうか…。

創始者の説いた教えとは、似ても似つかぬ、全くべつものへと変貌していくのではないでしょうか。

教えから離れていたかつての信徒が、久しぶりに教団に戻ってみて痛感するのは、自分が浦島太郎になったような気分になるという感慨だそうです。

さもありなん。

「讃歌」なんか読まされたら、それはそうなるでしょう。

先日、[BSプレミアム] で2月16日(水)、英雄たちの選択「戦国ミステリー 千利休はなぜ死んだ?~天下人秀吉との攻防~」という番組を視聴させていただきました。

今年は、千利休が生誕して500年の年。

その番組に出演していた武者小路千家の家元・千宗屋さんの言葉に惹かれました。

千利休の命日は2月28日ですが、その祥月命日(利休忌)は勿論のこと、月命日の28日にも、必ず法要が営まれているということでした。

最も私の心に響いたのは、もし利休が秀吉に詫びをいれて長生きしていたら、茶道の世界はそのときに終わっていた…。

利休が秀吉の絶対権力に阿ることなく、あのとき切腹していたからこそ、利休は〝茶聖〟となり今日まで続いたのだ…。

因みに、利休の名の言われには二つの説があります。

一つは、「名利(みょうり)共に休す」という禅語から取った説。

「名誉も利益も求めません」という意味です。

お金や名誉のためではなく、純粋に「茶の心」を追い求めるという決意が表れているように思います。

もう一つは、「利心、休せよ」から取った説。

「才能におぼれずに老古錐(使い古して先の丸くなったキリ)の境地を目指せ」です。

いずれにしても、そこからは、茶の道を突き詰めて、おごらず真摯に取り組む姿勢が浮かび上ってきます。

それを視聴していて、「谷口雅春先生を学ぶ会」もまたそうでなければならないと思ったことでした。

私どもは、現総裁の絶対権力に阿るような生き方は決してしなかった…。

また、その思いで、尊師の月命日である17日には、多磨霊園にて墓前祭を執り行わせていただいております。

私たちは、ただ、永遠の尊師・谷口雅春先生だけを見ていく…。

尊師の教えを永遠に伝え遺すには、それしかないのだと改めて確信した次第です。


唯物論だから執着する (14154)
日時:2022年02月26日 (土) 18時03分
名前:雲の上のラッパ吹き

石を拝むと偶像崇拝のおそれあり、
これは自らが唯物論であると告白しているに等しい。
そもそも偶像崇拝とは何か。

「偶像崇拝の絶対禁止が私の教えだ」と大聖師は云われる。

たしかに生長の家の教えは偶像崇拝を禁じている。

「~ねばならぬ」こそが偶像の本質であり、これの亡くすることが本来の生長の家。

物質として具象化した「偶像」は『偶像』の表象にすぎない。
これが理解できない「パリサイ派くずれ」はキリスト教に多いが、彼らが拝む十字架やマリア像もその意味において立派な「偶像」。
もっと極言すれば、アメリカ国民が忠誠を誓う対象である国旗国歌すらも、現象に囚われれば「偶像」たりうる。
ゆえに「石上げの行」なる、重量挙げと見紛うモノの問題点は其処にはない。

石を依り代にすることに問題がある。
甲斐山梨でほうとうを継承された雅宣先生は大祓いや浄心行において
依り代たる物質に、その時の「我」を籠めることに着目して石上げを発明したのでは?

では石上げと前者との違いは何か?

大祓い及び浄心行における依り代としての紙は「現象我」を吸い取る油取り紙であって、それは、真理の炎によって焼き滅ぼされるためにある。
実相の炎で現象の迷いを焼き滅ぼすために紙を依り代として現象の我を移し取る。

では翻って、石を焼き滅ぼせるか?

やろうと思えばできるでしょう。
八ヶ岳の火口に石を持って行って投げ込めば、どんな石でも火山の炎で焼き滅ぼせる。
まさにロード・オブ・ザ・リング。でも投げ込むのは指輪ではなく石。

石に刻むのは「現象の我」ではなく「実相の我」だと主張するかもしれない。
でもそんなことができますか?
現象世界という虚像にどっぷりと浸かっているのに、100%混じりっけなしの「実相の我」を石に刻めるとでも?
そんなことができるのなら、とっくのとうに現象界を去っていますよ。それができていないから虚像世界に我々ははまり込んでいる。

そんな現象人間が石に「我」を刻む?

どう転んでも刻めるのは迷い塗れの妄執我が関の山。
そんな代物を拝む行は、迷妄まみれの妄執我を「これでいいのだ」と肯定する行にしかなりえない。
バカボンのパパですか?

すべての人類はその深層意識において「私は完全円満」という心理を持っている。
これは現象界に人間が投影される際に「私は神の子完全円満」から「神の子」が抜け落ちた結果であり、
投影がさらに低位となると、「肉の子」が付加されて「私は肉の子完全円満!」となる。

「肉の子」が完全円満であるためには現象に現れてきた「悪」はすべて外部に存在しなければならない。
よって肉の子人間はその完全円満を現象界に実現するために、
「我」の外に存在している悪を見つけ出して執拗に攻撃、排除しようとする正義感に燃えるようになる。

地獄への道は正義感で舗装されているとはまさにこのこと。
石上げの行はそういった自己肯定感を強化する恐れがある。
「我、神の子」とは思っていない人間は居ても、「私は完全円満」という深層心理を持っていない人類は存在しない。


パワーストーン商売に見られるように、石には溜め込む性質があるようです。それも半永久的に。
そうでなくても石の持つ堅牢性には特筆すべきものがあります。
現代においても最も頑丈かつ堅牢な記録媒体は石板しかありません。
石板は数千年の歳月に耐えて記録を残せますが、DVDもHDDも紙テープもUSBメモリも記録寿命は石板と比べて遥かに短い。、

聖経読誦があるとはいえ、教団の大祓いや浄心行で石板を使うようになったらどうなるか。
社会実験としては見てみたい気もします。

「石上げの行」は、「高御産巣日神」「神産巣日神」を礼拝させるための〝エセ行〟〝カルト行〟であるというのが私の認識です… (14181)
日時:2022年03月06日 (日) 10時41分
名前:破邪顕正


『誰でもできる「石上の行」』には、「ムスビ」という言葉がいたるところに出てきます。

何故なのか。

その理由が、46頁に掲載されている「石上げの祝詞」を見れば明らかです。

〈ここに我ら集まりて石上げの儀を行うにあたり
高御産巣日神・神産巣日神のムスビの御働きを讃え感謝し奉る〉

つまり、この「石上の行」は、これまでの「住吉大神」から「高御産巣日神・神産巣日神」に切り替え、それを礼拝させるための行に他ならないということなのです。

で、それを行うにあたって、強調されているのが、「労働」と「自然」であるということもまた目を引きます。

そもそも、本来の「生長の家」で、「労働」を価値とするものは〝献労〟であった筈です。

♪練成献身譜♪の歌詞を見ても判るように、それは神に献げる、一つの宗教行でもあります。

1番の歌詞には〈神をたたうる神の子ら いのちきよむとあつまれり〉

2番には〈神をたたえて献労に まことささげて無我献身〉

3番には〈いのちをきよめ実相を 呼び出し引き出す奇(く)し作業〉

4番には〈いのち献げて練成に いそしむ我ら神の子は 智慧出し愛出し奇し作業〉

こういう〝献労〟なればこそ、数多の奇蹟的な神癒体験が生まれたのです。

しかし、「石上の行」に於ける「労働」は、果たして同様のような精神を持ち合わせているでしょうか。

甚だ疑問なしとしません。

また、後者の「自然」についての捉え方も、とても首肯し得るものではありません。

何故と言って、前掲書42頁には、こう記されているからです。

〈これらの〝従来行事〟(筆者註…練成会や誌友会、家庭訪問)と石上げの行とが異なるのは、前者が想定してきた行事の場が概ね「都会」の環境であったのに対し、後者はそれが行われる場として「自然」を前提とし、自然を強く意識する点である。もちろん、…練成道場は…自然豊かな土地にもある。しかし、そこで行う浄心行や感謝行という宗教行そのものは、都会の室内で行われる形式とほとんど同一である。また、…それらの行事に使われる道具…も、特に自然を意識したものではなかったと言える。〉

これで明らかなのは、現総裁の念頭には、〝献労〟への関心が皆無ではないのかということです。

とにかく、現総裁は、〝従来行事〟を変えたくてたまらないというのが、これでよくわかります。

尊師の創始せられた「生長の家」に取って替わって、自分なりの「生長の家」にしたい、その思いがありありと窺えるのです。

それもこれも、すべては「住吉大神」を変えたいという思いから来ているというのが、私の前掲書を読んでの実感です。


「石上げの行」には、「行」の本来的な意味である〝心を浄める〟という視点が完全に抜け落ちている、これでは「神癒体験」は生まれ得ない… (14189)
日時:2022年03月09日 (水) 09時23分
名前:破邪顕正


『誰でもできる「石上の行」』の8頁にこうあります。

〈石上げの行では、石に三つの穴(窪み)を彫り、その三点をつなげてムスビを象徴する三角形を作ります。〉

で、その「穴を彫る時に心に思うこと」と題して、前掲書の10頁にはこうあります。

〈①第一の穴は「これは自分だ」と思って彫ります。
②第二の穴は、自分が個人的に一番関心のあること…
③第三の穴は、①の「自分」と②の「希望」や「課題」が結ばれて、調和した〝新しい価値〟が実現することを強く願って…〉

これが、果たして「行」と言えるのか。

そもそも、「行」とは、本来、心を浄化するためにこそあるのではないのか。

『光明道中記』には、〝一月八日 魂浄まる日〟と題してこうあります。

《浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。伸びるのが浄まりであり、枉屈(のびないの)が苦しみである。》

心が浄まれば、様々な気づきが生まれる。

その気づきが感謝の心の元となる。

感謝の心が湧き出れば幸福になる…。

浄まる→気づく→感謝する→幸福になる

すべては心が浄まることから幸福のサイクルがはじまります。

そのために、様々な「宗教行」があるのだと思います。

例えば、「実相円満誦行」。

それを実修する上での心得として、よく紹介されるのが一遍上人の話です。

上人が、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と詠ったのを法灯国師が、「未徹在」それではまだだめだと否定されます。

で、上人は、更に工夫して「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と詠います。

「声ばかりして」というのではまだ声を認識している自我が残っている…、というわけです。

一遍上人は、語録のなかで「我体を捨て南無阿弥陀仏と独一なるを一心不乱といふなり。されば念々の称名は念仏が念仏を申なり。」と言っています。

我が身を捨てて南無阿弥陀仏ひとつになる、それが一心不乱だというので、私が念仏を称えるのではなく、念仏が念仏を称えるのだと言われたのです。

その言葉に倣えば、「実相が実相を称える」「実相が実相を念ずる」「実相が実相する」ということになります。

それについて『詳説 神想観』はこう言います(41頁)。

《実相を念ずる我は「始めから成仏している我」(実相の我)であります。だから神想観は小我でやる小行ではないのでありまして、実相が実相する大行であって、実相が実相する--これを成仏すると言うのであります。実相が実相する、仏性が念仏する、その大行が、その称名のコトバが、そのままであります。
「衆生なし、仏性のみある。その仏性のみが本当の自分である」というのであります。その仏性が南無阿弥陀仏ととなえる。自分が神である。自分が仏であると念ずる。これが仏性がコトバになったのであり行になったのであり仏の実が出たのであります。念仏即時成仏であり、神想観即時成仏(見真)であり、始めから仏であることが顕真したのであります。》

こんな素晴らしい「行」があるのに、どうして「石上げの行」などというものを、こと改めて拵えないといけないのか。

しかも、この「行」は、上記したように、「これは自分だ」「自分が個人的に一番関心のあること」〝我〟への執着がモロに出ているように思えてなりません。

果たして、この〝エセ行〟〝カルト行〟で、宗教的な歓喜の体験が生まれるのか、私は甚だ疑問なしとはしません。

「住吉大神」という宇宙浄化の働きの神様を排除したツケが、そこここに出て来るとそう確信しております。



ある教区では、『誰でもできる「石上の行」』を会員に対して無料配布しているそうです… (14194)
日時:2022年03月10日 (木) 11時51分
名前:破邪顕正


購入して貰おうにも、なかなか会員が率先して購入するような雰囲気にはない…。

かと言って、そのままにしていたら、どれだけ頒布してるのかと本部から問われる…。

だったら、教区で買い上げて、会員に無料で配布したらいい…。

そのような実に安直な考え方で、お買い上げとなったのではないのか、そんな気がしております。

問題は、無料配布で、それを手にした会員が、この「石上げの行」をどう思うのか、ということです。

それはそれで実に興味深いものがあります。

普通に考えて、とてもこれを快く受け容れるとは、到底、思えません。

「思えません」というか、願望を込めて、そうあってほしいと心から思うものでありますが、しかし、案外、今の教団に残っている信徒の皆さんは、これもまた「中心帰一」として素直に受け容れ、「石上げの行」に励むのかもしれませんね。

現総裁が言ったら何でも「ハイ」と受けることが「中心帰一」だと思い込まされているフシが有り有りですからね。

でも、もうそろそろ、盲目的に「ハイ」するのが本当の「中心帰一」なのか、考え直してもいいのではないでしょうか。

今回の「石上げの行」は、まさしくそのための絶好の機会ではないかと思うのです。

これが本当に「生長の家」の信仰にとって欠くべからざる「行」だと言えるのか…。

尊師が教えてくださった本来の「行」では、何故、いけないのか。

それを、もう一度、見直してみる…。

先に「実相円満誦行」のことを引き合いに出しましたが、前掲書の中にも、それに言及している箇所があります(43頁)。

〈無心になってハンマーでタガネを叩き続けるという行為自体が、現代生活のゴタゴタを忘れさせてくれる…これは、宗教の世界では、称名念仏や木魚を叩く行為の中でも生じる心理的効果の一つであり、生長の家では「実相円満誦行」の中にも取り入れられている。〉

だったら、その〝無心〟になる「行」として、「実相円満誦行」に励んだらいいではありませんか。

とにかく、現総裁の言動から垣間見えるのは、何か新しいことをやりたい…。

尊師の教えとは違うことをやりたい…。

そういう〝野心〟がちらついて仕方がないということです。

「法燈」を継承したというのであれば、そのまま素直に継承したらいいではないか…。

「継承」を拒否して、現総裁はまるで自分の宗教を〝立教〟しようとしている…、そう思えてならないのです。

心ある信徒の皆さんには、ぜひ「中心帰一」の呪縛から解放されて、尊師のお説きになられた本来の「生長の家」に帰ってほしいと心から期待する次第です。


「石上の行」で信徒は〝お手上げ〟状態に… (14203)
日時:2022年03月12日 (土) 17時42分
名前:破邪顕正


興味深いのは、教区の機関紙です。

現総裁が、ここまで「石上の行」を実修するよう、指示しているというのに、これを率先してやろうという雰囲気が感じられないのです。

立場上、仕方なく、『誰でもできる「石上の行」』を買い求めましょうという声はあっても、肝心のこれを大いに実修しましょう…。

そういう声がなかなか見られない…。

つまり、そこまではどうも言いづらいような空気が蔓延しているのです…。

それほど、この「石上げの行」は不人気だということです。

実際、こんな「石上げの行」よりかは、本来、やるべきは「三正行」ではないのか…。

そういう鬱憤が信徒の間に渦巻いているとも言われています。

とある信徒の呟きとして、こういう声もあるのだとか。

どうして、現総裁はこんなにも△に拘るのか。

本来の教えは、完全円満、○ではないのか。

そう言って、目を〝三角〟にして怒り出す信徒もいるのだとか。

△を重ね合わせたら、どこかのマークになるではないか。

現総裁は、もしかして、そちらの影響を受けているのではないのか。

そんなことを漏らす信徒もいるそうです。

ともあれ、「石上げの行」で、ますます信徒は〝お手上げ〟状態になっていく…。

当然、それは「心の影」として教勢の低落へと〝ムスビ〟つくものと私は確信しています。




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