特別報告【 シリーズ解体】谷口雅宣 三代目総裁 によって失わしめられたもの その2 ― 天も泣いた雨の中の「御神像」撤去 ― (13955) |
- 日時:2022年01月05日 (水) 08時12分
名前:護法の天使
住吉大神の神姿を見た人々
生長の家は昭和五年三月一日をもって立教されました。
この日付は『生長の家』誌の創刊号が発刊された日付ですが、第五号となる昭和五年七月一日発行の『生長の家』誌より〝神想観〟の公開伝授が始まり、神と直結する道が開かれることによって、直接〝神姿〟を拝する人々があらわれるようになりました。
このことについて谷口雅春先生は、「神秘面より観たる生長の家四十年史」と題する御文章において次のように述べておられます。
「私の背後に、白髪の老翁の姿をしたキリスト(「ヨハネ黙示録」の第一章に出現している〝久遠のキリスト〟)の姿を最初に見たのは私の家内であった。
それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂(いわゆる)〝発祥の家〟で、私と家内とが互いに向い合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。
この神姿はその後、他の信徒の集りにもあらわれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも見たと言われた」。(『生長の家四十年史』より引用)
立教当初、谷口雅春先生はインスピレーション(神徠)を受けた霊感的長詩を、当時の神誌に次々に発表されておられましたが、その詩の校正を谷口輝子先生がなされているときに〝生長の家大神〟が神姿をあらわされたのです。
その様子を次のようにお書き下さっています。
「「生長の家の神」が天空高く詩中の「生命の長老」に相応(ふさわ)しいような白き衣を足まで垂れ、白髯(はくぜん)胸まで至る姿にして神姿(しんし)を現わし給うたのであった。
これでこの詩を誦(じゅ)することが生長の家の神を招(よ)ぶに相応しい精神的リズムを自己の心の内に作るものであると察せられる。
爾来(じらい)この同じき神姿(みすがた)は異る場所、異る人々によって見られ、或る時には一座の数人が同時に同一神姿(しんし)を見たような事実もあって生長の家の神の存在が幻覚ではないことが第三者から立証された」。(新編『生命の實相』第33巻)
神様のお姿を服部仁郎氏が彫刻され 谷口雅春先生御自ら、お手を入れられた御神像
こうして、谷口輝子先生をはじめ多くの信徒に、具体的に目に見える形で出現された神様のお姿を、芸術家の霊感で服部(はっとり)仁郎(にろう)氏が彫刻されて「御神像」は生まれたのです。
完成した「御神像」について、谷口雅春先生は次のように記されています。
「唯今、神宮前一丁目二三ノ三〇(旧地名〝原宿〟)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置せられてある神像は、服部仁郞氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、家内が「此処はこんなでなかった。此処は斯うであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に出来るだけ近づけて制作せられたものであるが、服部氏自身は、神姿を見たことはなかったが、天才的彫刻家の一種の霊感で本当に家内の見た神姿そっくりに出来ているらしいのである」(『生長の家四十年史』より引用)
この服部仁郎氏が昭和41年昇天されたとき谷口輝子先生は、『白鳩』誌に「巨星天に昇る」と題する随想を寄せられました。
「彫刻家として一流の技をもっていた服部さんは、「生長の家」の指導者としてもぬきん出て居(お)られた。……
原宿に生長の家本部会館が新築され……本部玄関の屋上に「神像」を建てることになり、夫は服部さんにその制作を依頼された。石膏の模型が出来た時に、私たち夫妻に、アトリエまで見に来て欲しいと申もうし で 出られたので、二人で出かけて行った。
「どうぞ先生のお気に入りますようにお手を入れて下さい」
と言われるので、夫はみずからヘラを持って台の上に上(あ)がり、石膏を塗ったりして手を入れて居られた。
「先生がちょっと手を加えられたら大変よくなりました」
と服部さんは喜んで居られた。
完成された「神像」は銅像の表面を白色に塗られた神々しい御姿(おすがた)となり、堂々たる本部会館の円塔の前面に立って、御教(みおしえ)の象徴と仰がれている。
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