"入選無し" ー「生長の家歌壇」「白鳩歌壇」の選評に學ぶ言葉の修練とレベルの維持 (13930) |
- 日時:2021年12月25日 (土) 01時26分
名前:立葵
合掌 谷口雅春先生が人間神の子の眞理を宣べ傳へるために昭和五年三月一日附で創(はじ)められた『生長の家』誌、そして昭和十一年三月七日の谷口輝子先生のお誕生日を期して創刊した『白鳩』誌には、やがて「歌壇」が生まれました。 讀者の投稿歌の中から選者の先生が入選や佳作を選んで掲載したり、選評を寄せられたりしました。
往時の歌壇を拜讀する時、私は信徒の先輩諸氏の作品と共に、歷代の選者の先生方の選評を拜讀するのが樂しみです。否、樂しみと申しますよりも寧ろ、大變敎へられ、脚下照顧を餘儀なくさせられます。
何故なら、わざわざ應募してきた作品の中に入選は無かつたとして佳作のみを發表する卷號が少くないからです。
現在私は幾つかの和歌の發表の場に詠草を提出しては拙い歌を載せて頂いてをります。入選歌を決める歌壇ではありませんのでほぼ確實に載せて頂けます。選者の先生には載せる歌を選定して頂いたり、添削して語法の誤りや言葉の足らざる點を指摘して頂いたりして、誰に對しても意味が通つて心情が正確に傳はるやうに調へて頂けますことに感謝してをります。
それが何よりの勵(励)みとなつてをりますが、翻つて今日、「入選無し」といふやうな嚴しい選評を受ける機會は果してどれだけあるでせうか。 例へば、永年にわたつて「生長の家」歌壇の選者を務めて下さつた山口悌治先生の選評には、よく詠みましたといふやうな、頑張つて應募したことを等し並みに勞ふといつた甘さは最早ありません。
山口悌治選著『いのちを詠ふ ー歌壇選評ー』平成二年、日本敎文社刊 より (假名遣と漢字の字體も同書による)
昭和三十二年『生長の家』四月号(上掲書24頁) ◇選後に 今月は入選歌がとれませんでした。一月二月三月と、格調の高い、或いは味はひの深い立派な入選歌が続きましたので、その水準を崩したくないと思つたからです。(中略) 歌の上達はやはり怠らず作つて繰返し習練して行く事でありますが、何を歌ひ上げようとしてゐるのか、どのやうに表現したら、言葉を用ひたら、その意図をはたす事が出来るか一首一首に精魂をこめて頂く事が大切です。
昭和三十二年『生長の家』十一月号(上掲書33頁) ◇選後に 今月は入選歌がとれませんでした。この夏は、尻あがりに暑く好天が続いて、お蔭でお米は一昨年につぐ大豊作で、まことに芽出度い限りですが、投稿歌は全体にゆるみがあつて、格調に劣りがみられ、あまり申し上げることもありません。(後略)
昭和三十四年『生長の家』新年号(上掲書56頁) ◇選後に (前略)この一年を顧みて、入選歌が少なかつた事が思ひ浮びますが、それは決して歌壇の低調を示すものではなく、歌をよむ事の基準が、単に整つた歌を作ればよい ー と云ふ点に本誌の歌壇の精神があるのではなく、日常生活に於ける神の子の自覚の拡大、生命的把握の深化との関連が不断に追求されてゐるのでありますから、何よりも安易をしりぞけ、脱皮と精進を重ねて頂いてゐるのですから、多少の破綻がみられて、入選歌はとぼしくとも、それは全体として低調と申すべきではなく、その率直な作歌の態度と高貴な精神こそ最も尊ばねばならないのだと存じてゐます。 光明化運動推進の基盤もまたそこにあるのですから。(後略)
昭和三十五年『生長の家』十二月号(上掲書85頁) ◇選後に この一年間を顧みて、入選歌の少なかつた事に気がつきますが、しかしこれは決してこの歌壇が低調であつたからではありません。 生命の世界は誠に無限です。その無限に凡ゆる角度から突入し歌ひ上げて頂きたい念願です。広く深く、時には繊細に時には豪宕(ごうとう)に、或いは楚々と或いは怒濤の如く、生命の無限をみつめ、無限なるものを出来る限り余すところなく、悔なく生き抜いて頂きたいのです。ですから小成に甘んずる事の拒否を潔癖なまでにお願ひし続けて来ました。(後略)
昭和四十九年『生長の家』八月号(上掲書283頁) ◇選後に (前略)殊に本誌の歌壇は、一般雑誌に見られるやうな読者の「文芸欄」のやうな歌壇ではなく、実相の行者としての生活の表白でもありますので、常にそれだけの心遣ひを心に置いて、ものを観る心を愈々深め、表白する言葉への細やかな配慮、歌格、気品、一首と雖もおろそかには扱はぬやう心掛けて頂きたく念願してをります。(後略)
以上、引用が長くなりましたが、山口悌治先生はお使ひになつていらつしやらない言葉ながら、換言すれば「レベルを維持する」といふことの如何なるかを山口先生は一貫してお敎へ下さつたのではないでせうか。
歌の道以外にも見廻しましたら、クラシックの權威あるコンクールでは一位不在の最高位二位、更には一位二位不在の最高位三位といつた例はよくあります。 大相撲でも横綱不在や殊勲、敢闘、技能の三賞に該當(該当)者無しの場所があります。 芥川賞にも該當(該当)者無しの囘がありました。
尊師谷口雅春先生の御敎へを學んで山口悌治先生曰く「実相の行者としての生活」を積み重ねてゆけますやう、至高至尊の御存在(皇室の御事や谷口雅春先生)をゆめ自分のレベルに引き摺り降ろすことなく、自分の方が少しでも上昇して近づいてゆけることをこそ志向したいと切に思ふこのごろです。 再拜
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