「清流の民」さんの投稿に、心から感謝申し上げます。現総裁の問題点が鮮やかに喝破されていると思うからです… (13892) |
- 日時:2021年12月10日 (金) 09時44分
名前:破邪顕正
久しぶりの投稿、今回も本当に素晴らしい、心から首肯できる内容でした。
現総裁は、「聖経」を〝補強〟せんとして、『讃歌』を拵えたわけですが、補強どころか、それが却って仇となって、尊師がお悟りになられた「実相世界」を眩ます、迷いの『讃歌』(だから『惨禍』とまで仰る向きもあるのだと思うのですが)となってしまったのだと思うのです。
今回の投稿は、どこがどのように、その〝迷い〟を生ぜしめているか、きちんと整理してお伝え下さった、私はそのように捉えさせていただきました。
何かのご参考になればとの思いで、『光の泉』誌(昭和39年11月号)「地上に天国を建設するには」と題するご文章を引かせていただきます。
《…この世界を造ったのは「吾々の心」であるが併し「吾々を救う処の何か偉大なる者」が何処かにあるに違いないーー。何処かにその偉大なるものがなかったら、こうして切実に魂の底から〝救いを求める心〟が起って来る筈がない。私の心の底は、何処かにその救いを求める尚一層大なるものにつながっていて、それを感じているのである。既にそれを暗黙のうちに感じ知っているからこそ、それを求めるのではなかろうかーー。「救いの本尊」が何処かにある。それを「神」と言えば「神」と言える、しかしその「神」はこの悲惨な弱肉強食の現象世界を拵らえたんじゃないんだ、という直感が這入って来たのであります。ここに現象世界の創造者と、実在の世界の創造者とをハッキリ分けて考えなければならぬことに気がついたのであります。 その直感が今、生長の家の教えの奥底にあるのでありまして、その「救いの本尊」は何処にあるかと言うと、それは「実相の世界」にあるという風に今では生長の家では説かれているのであります。此の肉眼で見るところの世界は、殺し合いの世界は、奪い合いの世界は、食い合いの世界は、それは吾々の〝心〟のあらわすところである。〝心〟が変ればそれは変わる。けれども、その現象世界の、殺し合いの世界のその彼方に、もっと「超越した処」に完全な実相の世界があって、そこはイザヤ書に書いてあるように、蝮(まむし)のすむ孔(あな)に子供が指を突込んでも蝮と子供とはたわむれ遊んで蝮が子供を傷つけない。ライオンと羊とは仲良く草を食っているようなそういう世界が既にある。既にあるからこそ吾々の求める気持が、自己の生命の奥底から押し出してくるのである。実相の世界にはすべての生きとし生けるものが互いに完全に調和した姿において、そこに既に在るのだ。その世界はどうしたら出て来るか、どうしたら現象化して出て来るかという事に、私は思い悩んだのであります。 そうして遂にそれを発見したのであります。それは現象世界は心のあらわす所でありますから、心を媒介として、心をレンズとして、その心を澄み切らして、完全に心を透明にして「実相の世界」の光が射し入るようにした時に、その心を媒介として心のあらわす処の現象世界に、実相世界の完全な相(すがた)が投影して、諸法がこのまま実相となる。この「実相の世界」のことを「仏の世界」と言ってもいい、「神の世界」と言ってもいい、天国と言ってもいい、「お浄土」と言ってもいい、それこそが本当に実在する世界である。その実在の既存の完全な世界が、心を媒介として吾々の現象世界にそれがあらわれて来させるーーこれが地上天国建設運動であります。》
尊師は、ここではっきりと生長の家の目指すものが「地上天国建設運動」であると仰っておられます。
そして、そのためには、〝心を媒介として、心をレンズとして、その心を澄み切らして、完全に心を透明にして「実相の世界」の光が射し入るように〟することが肝要であるとまで仰っています。
まさしく、その〝澄み切ら〟すためのハタラキを司っていらっしゃる神様が「住吉大神」でありましょう。
その神様を脇神へと貶め、あまつさえ「宇宙浄化の祈り」まで実修しない、実修させ得ないのであってみれば、尊師の願われた「地上天国建設運動」など出来ようはずがありません。
尊師の折角のお悟りを、いったい、現総裁は何と心得ているのであろうか。
現総裁へのかかる不信、それこそが、私をして教団を脱退せしめた根因と言っても決して過言ではありません。
その道の選択に一切の後悔はありませんし、それどころかこれで良かったのだと、自らの生き方にますます自信を深めている次第です。
今回の投稿で、なぜ現総裁への不信が募ったのか、それを見事に裏付けしていただいたように感じ、心からの感謝を申し上げる次第です。
ぜひ、またの投稿を期待しております。
感謝、深謝、多謝!
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