「自分の人生を大切にする」「真剣に生きる」…それが、尊師に対する報恩の生き方ではないでしょうか… (13500) |
- 日時:2021年06月16日 (水) 11時54分
名前:破邪顕正
「人間は怒ることによって手をあげるというよりは、手をあげることによって怒りが倍加する」ということが言われます。
動作が人間の感情を引き起こすからです。
だから、どんなに怒っても手はあげないようにする…。
これは意志の力です。
どうしたら、この意志の力を強くすることができるか。
「自分の人生は大事である。粗末に扱ってはいけない」と決意することだと思います。
人生なんてどうでもいいと人生を嘗(な)めてかかるから、そのときどきの気分に流されてしまい、人生に躓(つまず)いてしまうのではないでしょうか。
新装新版『真理』第4巻「青年篇」にこうあります(41頁)。
《人生にはいろいろの躓きがあるものです。併(しか)しその躓いた為に運命が好転したり、その人の使命のところへ神様から導かれ、自分が選ばれたる使命を、遂行する道に乗せられるようになることも度々あるのであります。私の自叙伝…を読んで頂いたら判りますが、私の青年時代の躓きの生活がなかったら、私は多分、大学教授位の一学究として現在生活していただろうと思うのですけれども、私の青年時代の躓きは、やっぱり神の導きだったと思うのであります。併し、人間は真剣でなければならない。躓いて顛落(てんらく)してしまうのは、真剣さがないから、神に導かれての躓きにならぬからであります。真剣に「正しく生きよう」と思って進んで躓く場合は、躓いていることが必ずしも悪いことではない。真剣とか、誠心(まごころ)とか云うものは吾々を神様と一体にならせてくれる。すると躓いても、一時は方向を誤(あやま)っていてさえも、顛落し切ると云うことなしに、必ず神に導かれて光明の世界に出ることが出来るのであります。》
どうして、この箇所をご紹介したかと言えば、「生長の家」の信仰に真剣に取り組んだら、現教団の有り様に満足するわけがないと思うからです。
今、好評を博している「News」(かがやく女性と母親の会・機関誌)6月号に千葉県の井上祥子さんの信仰エッセイが掲載されています。
その中に、こういう一文があります。
〈機関誌に〝長崎総本山は聖地ではない〟と今の総裁が書かれてあるのを見て、ああ!!もうここには居られないと脱会する決心がつきました。〉
信仰に対して、真剣であれば、何がホンモノで何がニセモノであるか、自ずとわかってくると思うのです。
ですから、とにかく、信徒の皆さんには、
何を求めて信仰しているのか…。
心からのよろこびが今、あるや否や…。
一つ、一つ、胸に手を当てて、深く考えてみていただければと思います。
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