「谷口雅春先生はもう亡くなっているんですよ」と言うしかない現教団信徒の、その心の葛藤を思いやってみると… (13454) |
- 日時:2021年06月04日 (金) 11時30分
名前:破邪顕正
現教団信徒が吐いた言葉で、私が最も衝撃を受けたのが、表題の言葉です。
人間、死んでも死なない、永遠生き通しの生命だということが少しも理解されていないのではないのか…。
しかしそれにしても…と、どうしてもそう思ってしまうのです。
「生長の家」に入信したら、少なくとも、永遠生き通しのいのちぐらいは判っていると思うからです。
聖経「甘露の法雨」の末尾に、こうあるのですから…。
《人間の本体は生命なるが故に 常に死することあらざるなり》
にもかかわらず、どうして表題のようなことを言い放つのか…。
やはり、そこには何かある…。
私なりに、その信徒の深層心理に穿ち入ってみると…。
よし、尊師が今もなお生きて導いておられるという立場に立つと、色々と不都合が生じる、齟齬を来してしまう、そういう思い、懸念があるからではないのか…。
そもそも、次の世で尊師にお合いし、ご挨拶申し上げなければならないとしたら、果たして今の自分のままで尊師に合わす顔があるであろうか…。
果たして、胸を張って尊師にご挨拶できるであろうか…。
そう考えるだけで、いろいろと苦しい思いが吹き上がってくる…。
その苦しみから解放されるには、もう尊師は亡くなられて此の世にはおられない、そう思い込むことにする…。
そういう思いが働いているからではないのか…。
結局、それもこれも、すべては、現総裁の説く〝今の教え〟と尊師の教えとでは全然違う、根本的に違う…。
そこに起因するのだと思うのです。
そして、信徒も、そのことを直観的に理解しているからこそ、現総裁に中心帰一する以上は、尊師の御存在を無視してかかるしかない…。
表題の言葉は、そういう信徒の、苦渋の判断からきている…。
そういう理解をして、これは信徒自身の問題ではない…。
現総裁に専制支配されている現教団の本質的な問題なのだと、そう捉え直していきたいと思っている次第です。
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