亀の子様、御指南有難うございます (13452) |
- 日時:2021年06月04日 (金) 00時02分
名前:立葵
亀の子様
合掌 参考書籍の御紹介をありがたうございました。 本当に今こそ学び、信ずるが無形のものに形としての言葉を得てゆく上で必要な貴重な書物ばかりだと思ひました。感謝して読ませていただきます。 この問題に関する凡ゆる文献を渉猟なさって考察を深められた御足蹟に敬服いたしてをります。その中で選りすぐって御紹介下さいまして有難うございます。
また、このたびは個人への人格攻撃とならないやうに留意したつもりですが、さうなってゐないか気になってをりました。 その答へは未だ摸索中ですが、投稿によって亀の子様から貴重な書物との縁を結んでいただけましたことを大変嬉しく思ひます。
拙い投稿にあたり、『生命の實相』の聖典講義篇に説かれた、邪説への反論についての御文章が思ひ起されてをりました。長いですが引用させていただきます。 再拝
愛蔵版第十五巻461~462頁 イエスは必ずしも無抵抗に執はれず
461~462頁 我々は時には成る程、無抵抗でゐなければならないこともあります。併し大いに相手に對して抗言しなければならないこともあります。特に眞理に關することでは爭はねばならないことが度々あるのであります。聖書を御覧になりますと、到る處にイエスがパリサイ人や學者の説に反駁し其の信仰の間違つてゐる點を説破して、或は罵つたり、或は批評したりして居られるのを見出されるでありませう。これは眞理の光が、闇の中を進んで行く時に止むを得ない狀態であります。光が進んで行けば、闇は消えなければならない。この時、光と闇とは衝き合ふやうにしばらく見えるのでありますけれども、光が進めば闇そのものは積極的存在ではなく、自然に消えて行くのであります。しかし、一見したところは衝き合ふやうに見える。それが眞理が迷に對する抗爭であります。
462~463頁 これは別に人と爭ふために爭ふのではないのです。眞理を述べる爲に、他の間違つた邪説と衝突すると云ふことは是また止むを得ないことであります。だから、自分が正しいと考へてゐる處の眞理に對つて、反對者が間違つてゐると云ふのならば、その間違つてゐる點を擧げて、此處は斯う間違つてゐると云へと、斯う云ふ具合に云つてをられるのであります。
463~464頁 非眞理が滔々乎として弘まつてゐる時代に眞理を説くには、非眞理の説を是正しなければならない。「虛妄を壞するものは眞理のほかに非ざるなり。」と聖經『甘露の法雨』の中に書いてありますが、邪説を打ち破るためには正説の法鼓を鼕々と打ち鳴らす必要があるのであります。正説の法鼓を打ち鳴らすことは大調和を破つてゐるのではない、大調和を破つてゐる邪説の領域を狹めて、大調和の領域を廣めることなのであります。
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