《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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先祖供養、永代供養で最も大事なことは〝常にその霊魂が聖経に守られている〟ということにあるのです… (13424)
日時:2021年05月25日 (火) 11時33分
名前:破邪顕正

「谷口雅春先生を学ぶ会」に永代祭祀をお願いされた方のお話は、とても重要だと思いましたので、ここにご紹介させていただきます。

その方は、宇治にもお願いされていました。

しかし、宇治で「経本」が読誦されているというのを知って、大変、ショックを受けられました。

いくら、「聖経」も読誦していますと弁明されても、一緒に「経本」を誦げているという事実に変わりは無い。

「聖経」と「経本」とを混ぜているのは、却って好くない…。

それはそうです。

洗剤にだって、〝まぜるな危険〟と記されています。

神授の「聖経」と人間知の「経本」とを混ぜたら、却って危険なのです。

混ぜていることへの危機感が少しもない…。

今や、現教団では混ぜることが当たり前になってしまっている…。

それをオカシイとも何とも感じていないということの方が、実はもっとオソロシイことなのだと私は思っています。

その方も同様の感想をお持ちで、こう仰いました。

宇治に永代祭祀をお願いしたのは、「聖経」で供養してもらえると信じたからこそである。

そして、それは尊師が信徒にお約束されたことであったと…。

実際、尊師は、宇治がご造営された頃、こうお書きになっておられます。

《○霊魂の祭祀が今ほど必要な時代はないのである。
それについて宇治別格本山に唯今営造中の寶藏神社の内殿には、中央に「紫雲殿」を左に「光明宮」を、右に「寶藏宮」をしつらへ、紫雲殿には布教功労者及び聖使命会員にして、生前より肉体滅後はその誠魂を寶藏神社に永代祭祀を希望するを表明し、一定額の寶藏神社維持費を納入したる者の誠魂を祭祀する。
それは自筆で、お守型聖経『甘露の法雨』の表に自分の名前を書きて提出する。
…死後はその聖経に書かれたる自書の名前(つまり聖経そのものが位牌となる)をそのまゝ宇治本山の寶藏神社内の紫雲殿に遷して祭祀し、宇治本山役員及び練成会員一同が『甘露の法雨』を読誦し、神想観を行ってその誠魂の霊界に於ける解脱向上を祈願することになった。
自署の筆跡にはその人自身の霊波が印せられてゐるから、霊魂祭祀の媒体とするのに最も適當である。
自署の名前が聖経に書かれて、それと俱に常にあると云ふことは、常にその霊魂が聖経に守られていることを意味するのでその功徳はかり知れない。》( 『生長の家』誌・昭和34年12月号「明窓浄机」)

〝功徳はかり知れない〟のは、「聖経」に守られているからこそなのです。

みんな、その尊師のお言葉を信じて、宇治にお願いしたのです。

ところが、その宇治では「経本」も読誦されている…

尊師のお約束と違うではないか。

本当は、永代祭祀の奉納金を返納してほしいところだが、裁判沙汰にまではしたくない…。

しかし、「経本」ではご先祖さまが納得されない…。

ということで、宇治にお願いしたことはもはや過去のこととしてうっちゃって、改めて、「聖経」のみでお守りしていただきたいと思い、「谷口雅春先生を学ぶ会」にお願いすることにいたしました…。

そういうお話でありました。

信徒の、この純真な、尊師の教えをひたすら信じてきた思いを、決して無にすることのないよう、先祖供養、永代祭祀に真心込めて取り組んでまいりたいと思いを新たにした次第です。


本当の救いは神授の「聖経」からしかもたらされないし、ご先祖の神通力が増すにも「聖経」しかない! (13428)
日時:2021年05月27日 (木) 16時11分
名前:破邪顕正

「体験に優る説得力なし」

ですから、現教団が、本気で「経本」を弘めたいと思うのであれば、そういう救いの体験をどんどん宣伝するに如くはなし…。

ところが、そういう声がなかなかあがらない…。

現教団でも、「経本」読誦の体験談集を出そうという企画があったそうですが、どうも途中で頓挫したみたいだという話を耳にしました。

それどころか、逆に、「経本」を熱心に誦げていたら家庭内に不幸が起きたとか、精神的におかしくなった人が出たとか、そんな話が聞こえてくる始末。

一方、「聖経」の方はどうかと言うと、ご存じのように、たくさんの素晴らしい体験が続出しているわけです。

それだけを見ても、「聖経」だけを読誦するのが一番、いいのです。

それは、ご先祖さまの供養でも然りです。

『生長の家』誌・昭和36年7月号に、このようなご文章があります。

《祖先の霊魂というものは、物質の食物を食べて発達するものではないのであって、真理の言葉の念によって放送されると、真理の念を吸収して、霊界に於いて神通力を得るようになるのであります。
すなわち霊魂の霊力が殖えるのです。
これを“魂のふゆ”というのです。
霊魂の肥立ちがよく発達してゆくということは、物質の食物によるのではなくて、“真理の言葉”を送って貰うことによって、霊魂は益々発達して神通力が増加するのであります。
祖先が自己の神通力を増加してきましたら、祖先というものは、子孫を守って、子孫を繁栄させてやりたい、子孫を健康にしてやりたい、というのが其の念願なのですから、祖先の神通力がふえるようにさえしてあげたら、祖先の守りが多くなり、凡ゆる点に於いて子孫が護られ、自然に病気が治るようになるのであります。
そういう意味に於いて『甘露の法雨』を読みなさいとお勧めするのです。》

「産後の肥立ち」ということばがありますが、それと同様に霊界でも「霊魂の肥立ち」というのがあるのですね。

赤ちゃんの成長には、「産後の肥立ち」が大事なように、神通力が増すような霊魂となるには「霊魂の肥立ち」が良くなくてはいけない。

それには、何よりも真理の言葉が必要。

このご文章で、改めて、先祖供養には、「聖経」による真理供養が何よりも重要なのだと確信した次第です。

尊師が、〝『甘露の法雨』を読みなさいとお勧めするのです〟と仰った意味を、再度、肝に銘ずるようにいたしましょう。


尊師の聖典を絶版にしている現教団で先祖供養しても、ご先祖さまは納得せられていないのではないでしょうか。 (13435)
日時:2021年05月30日 (日) 13時36分
名前:破邪顕正


『人間無病の原理』に、重大なご文章があります(173頁~)。

「大調和の神示」にある〝父母〟には先祖が含まれていると説かれているからです。

《生長の家の神示には「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」と示されている。〝父母〟とある中には父母のそのまた父母である祖先の霊をも含むのである。
 吾々が、ここに神の生を享けて地上に出現し得ているのは〝諸々の祖先〟を含む父母を通してであるから、祖先及び「父母に感謝せぬものは神の心にかなわぬ」と神が示し給うているのは当然のことである。多くの心霊治療家がその力の限界を暴露し、精神集注によって念じても、祈っても、神想観してすらも病気が治らないことがあるのは、祖先及び父母に対する感謝行が足りないのである。ここに霊界にい給う祖先霊に対して報恩感謝のための供養をすることが必要なのである。
 祖先供養とは霊魂を招霊し、感謝の法要的儀式をして真理のお経(生長の家では聖経『甘露の法雨』)を子孫の者又は同信の多数者によって朗読し、その経文に書かれてある「真理」を多数者のコトバの力によって祖先霊に念送するのである。
 肉体死後の霊魂は物質的食物は食さないけれども、真理の念送によって、真理を一層深く悟り、霊界に於いて一層の自由を得、神通力を発揮して子孫の報恩行事によって歓喜し満足して、…子孫が〝実相の完全円満さ〟を現実界に引出し易いようにしてくれるのである。》

ここでも、はっきりと先祖供養は「聖経」によるべしと説かれています。

現総裁は、その「聖経」を〝補強〟されなければならないと公言し、そして「経本」を拵えたわけです。

私に言わせれば、そういうことをやってのけるのは、それこそ〝祖先及び父母に対する感謝行が足りない〟からだというほかはありません。

あまつさえ、現総裁は、勝手に33もの『聖典』を絶版に処すという暴挙を働いているわけです。

それに手を貸した幹部を含めて、それは、〝教え親〟に真っ向から刃向かうことであり、当然、そういう行為は、「父母に感謝せぬものは神の心にかなわぬ」という結果を受けるしかないと思うものであります。

こういうことを考えると、現教団で先祖供養されても、果たして、ご先祖さまは本当に納得せられているのだろうか…。

そういう疑問が沸々と湧いてきてしまうのです。

心ある信徒の皆さんにも、ぜひ、このことを考えてほしいと思います。

現教団は、父母に感謝せよ、と正面から胸を張って言い切ることができるのかと…。


機関誌『生長の家』6月号に、宇治別格本山では「聖経」と「讃歌」が混ぜて誦まれていることがはっきりと示されています! (13501)
日時:2021年06月16日 (水) 13時25分
名前:破邪顕正


表題は、他の掲示板で、宇治別格本山では、きちんと「聖経」が誦げられているのに、「讃歌」で供養されているかのような〝デマ〟を流している…。

そういう趣旨の、非難の投稿を目にしたからです。

宇治別格本山で「聖経」が誦げられていないなどとは言ったことはありません。

ただ、一緒に「讃歌」があげられている…。

「聖経」と「讃歌」とを混ぜることは却ってよくないという問題提起をしただけです。

例えば、上の

〈先祖供養、永代供養で最も大事なことは〝常にその霊魂が聖経に守られている〟ということにあるのです… (13424)〉

この投稿をご覧ください。

混ぜることの危険性をただ問題視しているだけでしょ。

〝デマ〟だと非難するならするで、きちんと、証拠をあげて投稿していただきたいものであります。

前置きが長くなりました。

表題の件、当該記事は55頁「宇治別格本山宝蔵神社 霊牌供養」にこうあります。

〈生長の家の先祖供養では、「霊牌」と呼ばれる御霊代にご先祖様の名前を記入して宝蔵神社にお祀りし、聖経・讃歌の読誦によって、先祖と共に神の子の自覚を深め…〉

ここに明らかなように、宇治では、霊牌供養を〝聖経・讃歌の読誦によって〟執り行うと示されているではありませんか。

もはや、尊師ご指導のそれとは違う供養になっているということです。

「讃歌」を誦げられて、ご先祖様が喜ばれると思うのであれば、それはそれで結構です。

しかし、それは御免被りたいと思うご先祖様だっておられるに違いないと思うのです。

自分が嫌なモノは、ご先祖様だって嫌がられるに違いない…。

そう思う信徒は、宇治には供養をお願いできないのではありませんか、そう申し上げているのです。

勝手に曲解し、〝デマ〟呼ばわりして、意図して人を貶めるというのは、如何なものかなと思う次第です。









東京第二教区の機関紙「多摩の光」7月号にも、先祖供養を『聖経』や『讃歌』を読誦して行うことが明記されています… (13508)
日時:2021年06月21日 (月) 10時23分
名前:破邪顕正


三浦教化部長の文章中に、こういう文言が出てきます。

〈『聖経』や『讃歌』を読誦することにより、先祖と偕に神の子の自覚を深め…〉

〈『聖経』や『讃歌』を読誦して、ご先祖の「霊」に直接、真理を語りかける生長の家の「先祖供養」は…〉

ここの何が問題なのか。

『讃歌』が、果たして、〝神の子の自覚を深め〟ることに繋がるのかどうか…。

『讃歌』の読誦を、果たして、ご先祖様が〝真理を語りかけ〟ていると納得されるのかどうか…。

どうして、こういうことを言うのか…。

現総裁は、自分の書いたものは〝『聖典』と呼ばせない〟と言ってのけたわけです。

つまり、『讃歌』は『聖典』ではないわけです。

『聖典』ではないものを読誦して、果たして、それによって神の子の自覚が深まるのか…。

果たして、それは尊師の説かれた〝真理〟と同じものだと言えるのか…。

もし、そうだと言い切るのであれば、『讃歌』だけは聖典に入る、そういうふうに、まずは言い直さないといけないのではありませんか。

そういう自己矛盾が既に生じているということを現教団はしっかりと認識し直すべきであると思います。

また、現教団信徒も、『讃歌』の読誦による先祖供養を本当に良しとするのか。

自分で、『讃歌』を読んでみて、これならばご先祖様もおよろこびになられる、そう確信する者のみが、現教団に霊牌を出すべきであると思います。

もし、自分は納得していないというのであれば、そういうシロモノをご先祖様に誦げるのは〝不孝〟というものではないのか…。

そのあたりのことをぜひ、真剣に考えていただきたいと思うものであります。




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