「月見草」さんへ。これで“造化の三神”教団と「谷口雅春先生を学ぶ会」教団との違いが明確になります… (12374) |
- 日時:2020年07月14日 (火) 09時17分
名前:破邪顕正
投稿、ありがとうございました。
おそらく、公的には、“造化の三神”教団で、「大日本神国観」を実修することはないと考えるべきでしょう。
後は、個人として、実修するしかないように思います。
でも、これで、私は却って好かったと思っています。
その理由を申し上げさせていただきます。
私は、以前、この「大日本神国観」の重要性について、こう投稿したことがあります。
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何かと言えば〝生長の家は中心帰一だから…〟と言われる向きへ (10804) 日時:2019年03月31日 (日) 19時11分 名前:破邪顕正
ある会員の方から、「生長の家は中心帰一!と言われて返答に窮してしまいました。こういうときには、どう返したらいいのでしょうか?」というご質問をいただきました。
教団では、常に、この〝中心帰一〟が言われているようです。
答えは簡単です。
標題に書きましたが、〝生長の家は中心帰一だから…〟この「…」に何を入れるかで全ては決まるということです。
さしずめ、教団は、〝生長の家は中心帰一だから、総裁先生に中心帰一しなさい〟というように使っていると思うわけです。
で、続けて「生長の家大神-総裁・副総裁-御教」これを頻りに刷り込んでくる…。
しかし、私は、尊師・谷口雅春先生の教えからすれば、こうなると思うのです。
〝生長の家は中心帰一だから、「大日本神国観」を実修しなさい〟
生長の家は、「神想観に始まり神想観で終わる」そういう教えだと思うのです。
だから、『人生の秘訣365章』は、こういうわけでしょう。
《生長の家の誌友でありながら、神想観をしない人があるのは誠に不思議なことなのである。
聖典を読むのは、無限の宝が充ちている未知の世界に旅行するための旅行案内書を読んで、どこに行きどうしてその無限の宝を発見し得るかの手段を知らされるようなものである。
神想観は、案内書によって知った「未知の宝庫」に直接触れる途なのである。
神想観を毎日励まないでいて、「私は生長の家です」というのは少々無理である。》(285~286頁)
生長の家を名乗るには、やはり神想観を実修しなくてはならない。
その神想観の念ずる言葉の中で「中心帰一」が出て来るのは「大日本神国観」であります。
そして、それが如何に重要な神想観であるか。
『生長の家五十年史』はこう言います。
《生長の家の瞑想法である神想観は、まず現象界の存在の完全否定の後、自らを神の個性的顕現者としての自覚に高めて行なわれる〝絶対力の行〟であるが、谷口先生によって、かかる「神我一体」の自覚の深化を主眼とする「基本的神想観」を第一段階として、この「大日本神国観」を最終段階とする十六種の神想観が説かれている。
最終段階の「大日本神国観」は、「天皇」という実相世界の中心者の生命に帰一することを教えるが故に、人類光明化という大業の実現には、極めて重要な役割をもつものであり、言わばその中心的役割を果すものである。
そして人類を最大最勝の中心に帰一せしめるという意味において、この「大日本神国観」は従来の世界の瞑想法はもとより「生長の家」の全ての神想観を完成するものと言えるのである。》(482頁)
〝神想観を完成するもの〟
それが「大日本神国観」であるならば、その実修をしないのでは生長の家とは言えないと思うのです。
だから、私はこう応えたらいいと思っています。
教団組織の方が、〝生長の家は中心帰一だから…〟と言ってきたら、〝だったら、当然「大日本神国観」を実修するようにと徹底的にご指導されているのでしょうね〟と言い返したらいい。
もし、そういう指導がなされていないならば、〝生長の家は中心帰一だから…〟の本当の教えがわかっていないということになる…。
そう言ってさしあげたらいいというのが私の考えです。
現場での様々な問題、返答に困るようなことがあれば、少しでもお役立ちしていきたい…。
この掲示板をそのような場として、私は活用していきたいと思っております。
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〝神想観を完成する〟「大日本神国観」を実修しないということは、とりもなおさず、尊師の本当のお悟りを得ることは出来ない…。
つまり、“造化の三神”教団にいては、尊師の御教えは、伝わらないということを意味するのです。
ここに、新たに宗教法人を取得した「谷口雅春先生を学ぶ会」の存在意義が、俄然、高まってくることになります。
“造化の三神”教団と新たな「谷口雅春先生を学ぶ会」教団との違いは、奈辺にあるか。
その一つとして、この「大日本神国観」「宇宙浄化の祈り」を実修し得るか否か、それを示していくことで明らかにできる…。
それは、非常に大事な観点なのではないのか…。
今後、吾らの運動は、何故、「谷口雅春先生を学ぶ会」教団が誕生したのか、その必然性、その今日的意義をどんどん伝えていくことにあります。
その意味で、今回のことは、大いなる追い風になると私は思っております。
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