《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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谷口雅春先生は 「すべての宗教よ、その宗祖の教えにかえれ」と説き給う (12324)
日時:2020年07月04日 (土) 16時54分
名前:謙信

 破邪顕正様が6月30日(12296)の書き込みで
 「……総裁は、『生命の實相』は古いといい、
 それをテキストとした誌友会や勉強会を禁じました。
 そのために、信徒が『生命の實相』を拝読していよう
 ものなら、教区幹部から「そういうものを読んでいると
 原理主義者になるわよ」と脅迫されたりもした……」が
 『生命の實相』の〝洗礼〟を受けることの大切さ、
 谷口雅春先生の御教えに帰れということを訴えていました。
 
 谷口雅春先生は既に聖典の中で、「救いがなくなるのは、
 すべて善き宗教の宗祖の教えから離れて形式的信仰にながれる」
 と警鐘を鳴らされています。

 以下二つのご文章を掲げます。

1つは、『生活と人間の再建』(新選法話集7)の中の
 「無限なるものの調和」254頁
 
「すべての善き宗教はこの「幸福の法則」と調和する道を
 説いている。然し多くの既成宗教は其の教祖の教えた、
 原理を後世の祖述者によって歪められて伝えられたため、
 教祖の教を晦まし、人間の心を啓蒙せず、却って混乱に導き
 「法則」へ調和する道が判らなくなってしまって教祖時代と
 同じような奇蹟的治療があらわれなくなっているのである。
 生長の家の出現の理由は、すべての宗教よ、その宗祖の教えに
 かえれと云うことである。」

2つめのご文章は『善と福との実現』(新選法話集8)の
 「臨終の大事に就いて」102頁

「すべて宗教は、一種の霊界よりの霊的救済運動であって、
 一つの宗教運動が現実界に 起るところ、必ずその背後に
 宗祖の人格を中心とする一群の護法の守護神が活躍し、
 その作用によって、宗教の初期時代には至るところに
 奇蹟をあらわす。併し宗祖の人格の感化がうすれ、
 宗祖の時代を過ぎ、形式的信仰にながれてくると、
 宗祖の人格を中心に 集れる霊界の守護神の一群は
 離散し、その宗教に奇蹟はなくなる。」

 唯善なる世界・實相世界に超入し、吾が内に神ましまして、
 神と吾と一体なりの自覚を深める神想観を修することの
 妨げとなるこの度の教団通達=「「實相」額・軸の前に象徴物
 を置く」ことの変更は、明らかに宗祖、創始者谷口雅春先生は
 何処にも説かれなかったことで「形式的信仰」の象徴であること
 と知らなければならない次第です。

現総裁が、教団の最高指導者であるということと
  宗祖、創始者の起こされ、数多の人を救いに導かれた真理の
 「法燈」を継承しているかということは全然別物であります。

「毘沙門天」さんへ。神様の取り替えは「神想観」を意味ないものにしないかと予見します… (12326)
日時:2020年07月04日 (土) 18時02分
名前:破邪顕正


「毘沙門天」さんがご紹介くださっている、尊師の2つのご文章。

私も、大変、重要であると思って紹介させていただきました。

〈尊師いませば現総裁は“義絶”されるに違いないと私が確信する、その理由を書いておきます… (12240)
日時:2020年06月21日 (日)〉

〈何故、宗教的奇蹟が生まれるか、〝必ずその背後に宗祖の人格を中心とする一群の護法の守護神〟の活躍がある。〝宗祖の人格の感化がうすれ〟るとその奇蹟がなくなる… (11995)
日時:2020年05月20日 (水)〉

私は、今回の総裁のやった、神様の取り替えは、まず「神想観」を意味ないものにするのではないかと畏れます。

多分、総裁は、いずれ、招神歌の四首目「生長の家大神守りませ」の生長の家大神とは造化の三神だと説明するでしょう。

そうしないと、今回、神様を取り替えたことの意味がなくなるからです…。

では、造化の三神が果たして具体的に「守りませ」、お守りするというお働きをなさるでしょうか。

造化の三神は、絶対神であって、具体的なお働きをなさる神ではありません。

もうそこからして論理が破綻しています。

そもそも、「神想観」というのは、尊師が本住吉神社において、住吉大神から神授せられたものであるわけです。

その歴史的事実は絶対に覆すことはできません。

私は、今回の総裁のやったことは尊師の神観を根底から覆すものであり、生長の家を否定する以外のなにものでもないと思っています。

その思いを、これからも言いつづけていかなくてはならないと思っています。

投稿、誠にありがとうございました。


本尊〝実相〟の意義について (12327)
日時:2020年07月04日 (土) 18時11分
名前:毘沙門天

谷口雅春先生が「實相」を礼拝する意義、真義について
お説き下さった各種の聖典での重要ご文章は、破邪顕正様が
幾つも紹介され此度の教団決定の諸問題を糾弾されてきた。

 ここに、谷口先生の別なご文章を掲げ「實相」が不可欠
であるかということを噛みしめたい。破邪顕正様が数多く
書かれているので既に別なところで紹介されているかも知
れないが、その場合は改めてということでご容赦のほど願
います。

 
 「本尊〝実相〟の意義について」

 「生長の家の本部へ行くと、然しやっぱり『実相』という
額があって、それを皆さんが対象として礼拝しているのであ
って、矢張(やっぱ)りあれは『外にあるところのもの』を
礼拝しているじゃないか」と、こういうふうに反論して言う
人もあるのでありますけれども、実は生長の家の本尊という
のは、姿、形なく、宇宙に充ち満ちているところの普遍的な
神であります。普遍的でありますから、自分の内にも宿って
いるのであります。普遍なるところの神が、自分の、個人と
いうところの、出口において、その無限の力が、無限の智慧が、
無限の愛が、噴出して、具体化してアイディアとなり、健康
となり美となり調和となり、全ての善きものとなって顕われる
ということになるわけであります。」

このご文章は『幸福生活への招待 20章』の第7章「神の国より
〝無限供給〟を受ける道におさめられたご文章。
『光の泉』誌の昭和43年3月号の「放送人生読本」に同題名で掲載
されたのが初出。

 谷口雅春先生は、上記の本尊「實相」の意義のご文章の前に、
生長の家の信仰の前提となる神観についてご説明されている。

「生長の家の信仰はここに書かれておりますように、「外にある神」
に頼って無闇に、或る本尊に泣き付いて、それによって幸福とか
財福とか富とか健康とかいうものを得ようとするんじゃないので
あります。「自分の内にある神」を礼拝し、それを認め、認識して、
それを自覚することによって内から内部の生命力が発現して、
自(おのずか)ら健康にもなりますし、自ら適当なアイディアが
湧き出て来て、新しい発明とか、或いは事業の経営法とかいうも
のが出てきまして、自然とそこに富というものが出てくるのであ
ります。』
そしてまた、「本尊」實相の意義のご文章の後にはこう説かれている。

「自分の内にあるところの神を外に移入して(丶丶丶丶丶丶)(これを英語でProject
プロジェクトという文字を使います。内部の映写機から外部のスク
リーンに映し出す意味であります)そして『実相』という軸を媒介
として、そこに自分の実相を移入して拝むということになっている
わけなんであります。無闇(むやみ)にその本尊を拝んで、それさえ
拝んでおったら人間は幸福になるというような偶像崇拝でも物質崇拝
でもないのであります。」
と。
 特に後半のご文章を噛みしめて拝読すると
この度の「實相」の前に七重塔・造化三神の社を置くことの教団通達
にある「日本国内において、万教帰ーの教えを視覚的に現すことを意味
しています。」との説明からは、偶像崇拝・物質崇拝に導いていくような、
迷いへの導入物にしか思えない。


「毘沙門天」さん、新たな資料提供、誠にありがとうございました… (12329)
日時:2020年07月05日 (日) 11時46分
名前:破邪顕正


今回の『幸福生活への招待20章』の第7章、これについては、私も紹介してはいません。

初出です。

おかげさまで、改めて、「實相」礼拝の大切さを確認させていただきました。

ご文章の中に「自分の内にあるところの神を外に移入」というご表現がありますが、この〝移入〟という言葉が大事なことだと思います。

私の投稿したご文章にも、それが出てくるからです。

まず、『白鳩』誌・昭和48年3月号の箴言からの引用です。

〈「十九日の箴言 本尊として祭祀する『實相』の由来」に学ぶ (12192)
日時:2020年06月15日 (月)〉

この中にも〝移入〟が出てまいります。

…………………………
(前略)

《さて、何を本尊として安置しようかと考えた揚句、形ある本尊を安置しては、超越的内在の超越者を象徴することは出来ないし、といって、神は無相であるといっても、形ないものを安置する訳にも行かないので、形がありながら、形なき超越的内在の意味をもつものを本尊として祭祀するほかはない。》

ここにある、“形がありながら、形なき超越的内在の意味をもつものを本尊として祭祀するほかはない”というご文章が、実に重要であります。

まさしく、それが「万教帰一」を説く生長の家だからこその、尊師のお悩みであったのです。

“考えた揚句”

このお言葉が、それを如実に物語っています。

で、尊師はこう仰るわけです。

《そのためには『實相』という文字を選んで本尊として掲げるのが適当であると考え、私の自筆の『實相』という文字の〝額〟又は、〝掛軸〟を本尊として掲げ、地方の教化部や道場は勿論、相愛会等のごとき信徒の集会ある場所には、その『實相』という文字を本尊として安置し、各自の内在の実相たる〝神性〟をその本尊に移入して、宇宙普遍の神霊との合一点として、そこに〝内在超越〟の神霊を礼拝するための〝心の焦点〟をつくることにしたのであった。》

(後略)

………………………………

もう一つは、『神真理を告げ給う』に出てまいります。

〈今回の「通達」は、尊師の畢生の大事業、総本山のご造営に、挺身・致心・献資の真心を捧げられた先人たちを裏切り、尊師の教えで救われたであろう後世の人々をも見捨てる、許されざるものである… (11986)
日時:2020年05月17日〉

ここでは、〝移入〟という言葉がこのように出てきます。

…………………………

(前略)

『神真理を告げ給う』の次のご文章をお読みください。

《諸君は〝生長の家〟の本部道場や練成道場の講壇の正面に『實相』という大文字が掲げられてあることを知っているであろう。あれは〝わたし〟が掲げるように命じたのである。
 なかには、何かあの文字に大なる神秘的霊力があって、あれを礼拝すれば何か功徳があるかのように思って礼拝している人があるが、実相とは〝あなた自身の実相〟である。あなたの実相は、純粋透明な空気のように肉眼には見えないから、それを思い出して自分の実相を礼拝する機会を大抵の人はもたないのである。そして肉眼に見える肉体的姿を自分自身だと思いまちがえ、自分自身を物質的存在だと思い込んでしまうのである。だから、自分自身を物質的存在だと思いまちがえないように、『實相』と文字に大書して、自己の〝実相〟をその文字に移入して礼拝するようにしてあるのである。》(14~15頁)

(後略)

……………………………………

「毘沙門天」さんは、今回の「通達」について

〝偶像崇拝・物質崇拝に導いていくような、迷いへの導入物にしか思えない〟

そのような言葉で締めくくっておられます。

全く同感です。

私もそれについては、深刻に受け止めていて、

〈今回の「通達」は、総裁による“宗教改革”である。「實相」額を隠し、礼拝の言葉を変え、「實相」額そのものを無くそうとする〝改悪〟なり… (12076)
日時:2020年05月31日 (日)〉

この中で、こう書いています。

………………………………

(前略)

要約すると、その問題点は3つに集約できるかと思います。

①「住吉大神」から“造化の三神”へと神様を取り替えた問題

②「七重塔」と“造化の三神”の神霊符を収めたお社を礼拝させるという偶像崇拝の問題

③「實相」額を隠し、「實相」額を無用のものとする問題

それぞれが、尊師の創始せられた「生長の家」の教えを根底から否定するものであり、まさしく“宗教改革”というべきものであります。

改革ならばまだしも、その実態たるや、これは内容から言って完全なる〝改悪〟であります。

(後略)

………………………………

「實相」額の前に、このような〝モノ〟を置いて、礼拝の文言も変えて、それで「神想観」を実修しても、残念ながら、それは〝迷い〟に曇らされてしまって、本当の「神想観」とはなり得ないと私は見ています。

尊師の御教えを護る者として、私は、信徒をこのような〝迷い〟の世界へ導かんとする今回の「通達」を決して座視することは出来ません。

一人でもいい、この声に耳を傾けて下さる方があると信じて、これからも投稿し続けてまいります。




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