「唯物論者」は新左翼のトップの方が…… (1913) |
- 日時:2016年06月11日 (土) 02時14分
名前:故郷
変わるものと変わらざるものー「私の谷口雅春先生憲法論」
初めて書き込みさせて頂きます。意見です。この場にふさわしいかどうか分かりませんが。今の教団トップの言動が悲しくて情けなくて……眠れず、これまで何度となく直接手紙を書こうと思いつつ……、書きたくても書けなかった分、漸く晴れて第1弾として書かせて頂きます。長文お赦しください。
【谷口雅春先生から教わったこと】 谷口雅春先生は、「人間は目に見える存在ではないんですよ! 肉体ではないんですよ! 五感の感覚で捉えられるものではないんですよ! 目に見えるもの、肉体、五感の感覚で捉えられるものは、あるように見えても移り変わり無くなってしまうあやふやな存在なんですよ! そんな有るや無いや有ヤ無ヤな存在に心を奪われることなく、目に見える存在の奥に永遠に変わらざる人間の本質ー実相があるんですよ! その生命の實相に目覚めて下さい!!」 と立教以来肉体生命の尽きるまで、叫び続けてお教え下さいました。 「お釈迦様もイエス・キリストもそのことを叫び続けておられるんですよ!」 とお教え下さいました。
【憲法問題は、国際情勢対応の「手段」だったのか?】 今の教団では、二言目には「冷戦時代」の時代は終わった、だから帝国憲法復元改正は、“時代錯誤の原理主義”と言われます。(何故そう言われるか、誰がそう言わせているのかは敢えて書きません。)
確かに、国際政治状況は現象世界ですから移り変わるものです。変わるのは当然です。 しかし、谷口雅春先生が『諸悪の因・現憲法』を書かれ、『私の日本憲法論』を心読した人であれば、谷口雅春先生が、「ソ連の軍事脅威に対して戦前のように軍隊を持ってソ連に対抗せよ」と説かれたのではないことは、明らかです。
もし雅春先生がそのように説かれたのならば、確かに今の教団講師が言うように、「冷戦時代」が終わったら現行憲法の問題点を説く必要はなくなるでしょう。
しかし、雅春先生は、時代状況の中で説いておられますが、移り変わる時代状況やその場その場の状況(現象)を「題材」として、「宇宙の変わらざる真理(実相)」を説かれて来たのです。いのちがけで叫び続けて来られたのです。
【『私の日本憲法論』に触れて学んだもの】 生長の家の家庭で生まれ育ち、生長の家の教えや聖経をそらんじて知識的に覚えていて「生長の家は、年取ったり、人生に行き詰まったら読めばいい」と思っていた私が、根本的に「生長の家」に対する観方が変わったのは、『私の日本憲法論』に触れたからでした。
当時私は、「人間神の子? 『悪い人はいない』ということだろ? そんなことぐらい知ってるよ。それがどうした?」と思っていました。だから『私の日本憲法論』を「『憲法』についてのご自分の考えを書かれているんだな。何を書いておられるのかな?」と思って読み始めました。
ところが、その『私の日本憲法論』に書かれていたことは衝撃的内容でした。「“人間”が生命体であるように、“国”も生命体なんですよ。」という壮大な内容でした。
「“人間生命”が神の子でかけがえない尊い存在である、という自覚(情)が、必然的に“国の生命”においても神の国であり、かけがえなく尊い国であって欲しい、という想い(情)を持たせるに至り、そして出来た国が“我が国”である。」というものでした。
国が“生命体”だなんて、考えたこともありませんでした。
目に見えない“美しい生命体”としての“我が国”が、単なる目に見える「主権・国民・領土」という無機物のように取り扱われていることに対する、雅春先生の“叫び”を私は聞きました。
それは、目に見える現象にとらわれることなく、その奥にある目に見えない“実相”を観よ! と叫んでおられる気がしました。
【「占領行政基本法」(日本国憲法)の問題点と私の感じ取ったもの】 “我が国”の根本法規である憲法として、現行「憲法」(占領行政基本法)は、 “生命体”として美しく表現するのではなく、
(1) 国・政府と国民を対立させて (2) 諸国民と日本国民を対立させて (3) 軍隊と国民を対立させて (4) 自分は何者でもない窓の外の「第三者」(評論家) として
人の心をバラバラにして、対立・闘争させ、国を分解に誘導するように仕組まれた唯物論的な “占領行政基本法”である。“占領行政基本法”は占領終了と同時に一刻も早く“占領行政基本法”として終了させ、 美しい大調和の心に貫かれた自らの憲法にし、大調和の世界を“国”においても現実化しましょう! というのが、私の感じ取った雅春先生の『私の日本憲法論』です。 雅春先生は、“占領行政基本法”(憲法)を“題材”とされていますが、雅春先生は“変わらざる真理”を説かれているのです。
【「唐松模様」の“ものの観方”】 ー 唯神実相論か?/唯物論(物心二元論)か? ー 「唐松模様」では、「“東西冷戦”の時代と、それ以後の変化……が宗教運動の方向を変えた」と書かれています。「運動」は現象世界のことです。移り変わる世界のことです。
しかし、「宗教的真理」は時間を超え空間を超えて人類に共通するもので、国際情勢が変わっても、それを題材として説かれた真理は永遠のものです。
また、「唐松模様」著者は、生長の家が、 「“大日本帝国憲法復元改正”を最終的な目標として、生長の家政治連合 (生政連)を結成(1964年)し、政治活動を展開した。しかし、この運動は、 生長の家の代表をできるだけ多く政治の舞台に送り出すのが目的」だった。
という認識を持っておられるようです。しかし、果たしてそうでしょうか? ここに決定的な“ものの観方”の違い(生長の家のものの観方か、唯物論(物心二元論)的ものの観方か)があるように思われます。
要するに、左翼の唯物論者のように「形の世界」(現象世界)に価値を置いてその悪や矛盾を憎む人は「“大日本帝国憲法復元改正”を最終的な目標」とし、「生長の家の代表をできるだけ多く政治の舞台に送り出すのが目的」としたと観るでしょう。
“目に見える世界”しか“見ない”“見えない”のですから。
しかし、雅春先生が目的とされていたことは、
(目に見えない世界ですが)「大調和する国日本」が既に実在し、そこに生かされている ことに感謝し、その感謝に報いる熱情でその実相世界を現象世界にも実現し、 「世界平和」を実現することが
目的ではなかったでしょうか?
そのための「“占領基本法”の早期終結」とそれを実現するため
「大和の心」を実現する議員により政界を“浄化”すること
を目標としていたのてはなかったでしょうか?
【「唐松模様」著者の言葉が心を打たない訳】
「唐松模様」に書かれていることは、
目に見える移りゆく世界(現象世界)を題材として目に見えない 変わらざる真理(実相世界)を説かれているの
ではなく、残念ながら、
目に見える移りゆく世界(現象世界)の悪を暴き、現象の“善”を説かれている
ので、
“生長の家の信徒”の心を打たないのではないでしょうか? “何か、雅春先生の説かれた教えと違う”との違和感を禁じ得ないのではないでしょうか?
「唐松模様」著者の方は、雅春先生の御文章を「心読」し、生長の家の基本である「唯神実相論」を感得されてから書かれた方がいいと思います。
また、利害関係者に引きずられない“信念”と志を培って頂けたらと思います。 生長の家のトップは、「唯神実相哲学」に基づき御教えを説かれる方であって、「唯物論者」や「物心二言論者」が立たれる立場ではありません。
「唯物論者」や「物心二言論者」は、共産党や「新左翼」のトップにでもなられるのがふさわしいのではないでしょうか? それが“処を得て争うものな”い大調和の世界を実現することになると思います。
|
|