| 教団に文句を言い募るのは“処を得て”いないから。“処を得て”いないのにそこにしがみつくのは?今回の「通達」は見切りをつけるラストチャンスなのでは… (12145) |
- 日時:2020年06月10日 (水) 13時15分
名前:破邪顕正
聖経「甘露の法雨」の「神」の項にこうあります。
《一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。》
“処を得て”という言葉が目に止まりました。
不平、不満、不信が募るのは、“処を得て”いないからではないでしょうか。
教団にいたときの私が、まさしくそうだったように思います。
結局、そこが私にとっては“処を得て”いない…。
ために、何でこうなんだ、どうしてこうならないんだ、そういう思いばかりが募る…。
で、思うことがままならないから、ついつい鬱屈してしまう…。
ある知人との会話で、実は、この“処を得て”が話題となりました。
彼は、サラリーマン生活の中で、鬱病を患い、長いこと、それに苦しんできた過去をもっていました。
その彼が、こう言ったのです。
〈結局、自分が病気になったのは、“処を得て”いなかったからだと思うんです。
会社を辞めたら、その後の生活はどうなる、家族はどうなる、折角建てたマイホームはどうなる…。
だから、絶対に辞めることはできない、いや、辞めてはならない…。
そう決めつけて、そこにしがみついて、とうとう、精神的に追い詰められてしまった…。
会社を辞めても、ちゃんと生きる道筋はあった…。
自分の体験から、“処を得て”いないと分かったら、さっさとそこを離れる…。
精神的に苦しんでいる人には、そう、アドバイスしたいですね。〉
この“処を得る”ことの大切さについて、頭注版『生命の實相』第37巻「幸福篇上」の「一月二十四日」のご文章が参考になります(23頁)。
《人々の苦しみとして避けるものが、神の前には尊きものであるという考え方が、敬虔なる宗教人に唱えられた時代があった。 貧乏は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。 不幸は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。 病気は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。 かかる考え方を人類の潜在意識が有していたがゆえに、人類の潜在意識は心の創化力を動員して、その尊いと思う「貧乏」を、その尊いと思う「不幸」を、その尊いと思う「病気」を、創作しつづけてきたのである。 潜在意識が欲する病気を創作することは、世界大戦時における戦争麻痺症がこれを証明している。 俗人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。 しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、白刃が殺人の用に供されようとも、白刃そのものの罪でないと同様である。 罪は「使用法を誤る」ということと、「処を得ない」ということにある。 白刃も富も、処を得て正しく使用せられるとき、天下を平定する剣となり富となる。》
今の教団に対して、ついつい非難じみたことを言い募ってしまうとしたら、それは「処を得」ていないからだと思ったらいいと思うのです。
合わないのに、合わせようとするから無理が生ずる…。
その無理がたたって、心身を蝕む…。
“処を得”たら、“争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし”となります。
これを紹介したのは、他でもありません。
「トキ」さんの、この投稿が気になったからです。
〈お返事遅れてすみません (29213) 日時:2020年06月09日 (火) 23時17分 名前:トキ
先日、教区の先輩と話していましたら、
「本部のやることは、やることなすこと、全部、失敗してきた。成功したものを見たことはない。」
と憤激をしていました。確かに、指導部の決断の内容が信じられないぐらいに失敗の連続なのです。が、それと同時に問題なのは、意思決定の過程が不透明なことです。意思決定が密室で行われ、その結果が失敗だった場合、指導者は猛烈な批判を浴びるのが当然です。が、生長の家をはじめとした宗教法人では、それが「反逆行為」になるという信じられない実情があります(後略)〉
「トキ」さんの、こういう“教団批判”は今に始まったことではありません。
そんなに教団が酷い〝信じられない〟というのであれば、さっさと見切りをつけたら…。
ついつい、そう言ってしまいたくなるのですが、しかし、「トキ」さんは、退会はしないと宣言していますから、これからも、こういう類いのことを言い募って行くのでしょう…。
「トキ」さんとしては、こういう投稿で“不満”を吐き出しては憂さを晴らし、心身の健康を損なわないようにしていこうという、これまた「トキ」さんらしい計算が働いているのかもしれません…。
そういう「トキ」さんのような生き方がいいという人は、それでいいのです。
しかし、今回の「通達」を見て、もうここには居られない…。
そう思った方も、少なからずおられるのではないでしょうか。
(それを期待して、拙稿を綴っているのですが…)
そういう方のために、果たして、この教団に留まることが“処を得”ることになるのかどうか。
そういう観点から、今一度、これからの身の振り方をお考えいただけたらと思っている次第です。
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