《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「かつて教団の禄を食んでいながら、今や掌を返すが如く教団批判をする人がいるが、そういう人は信用ならん」という意見に思うこと (9706)
日時:2018年07月09日 (月) 15時01分
名前:破邪顕正


表題にあるような意見を散見することがあります。

こういうことを言う人は、かつて教団職員であったものは、どんなに教団が変質しようとも、一切、それに言及してはならないとでも言うのでしょうか。

かつて、総裁に頭を下げた、総裁をヨイショした…。

そういう過去が一度でもあったら、総裁について何かモノを言う資格はない…。

そういう決め付けをしているように思えてなりません。

結局、それは、敢えて言わせていただけば、総裁擁護に手を貸す以外の何ものでもないと私は思います。

だって、それはそのまま教団の論理そのものでしかないのですから。

現に、教団のお世話になって、退職後、教団批判に転ずるのは恩知らずだとか裏切り者だとか、どれだけ言われてきたことか。

そういうことを教団から言われることは百も承知の上で、敢えて、教団が尊師の御教えと違っていれば、それを堂々と指摘していく…。

そちらの方が余程、勇気と覚悟がいることではないでしょうか。

表題のことを言う人は、私に言わせれば、それをもってこちらの口を封じたいだけのこと。

教団批判をされては何かと困る、だから何とかそれを食い止めたい…。

そういう底意があるからこそなのではないかと思えてなりません。

教団の実状を知らされ、それを知った信徒が教団離れに走る。

そういう事態がこれ以上、進まないようにという思いが、どこかにあるからこそ、表題のようなことを敢えて持ち出して、教団を問題視する人の信用失墜を狙っているのではないでしょうか。

谷口雅春先生の創始せられた「生長の家」に戻そうと本気で思うのであれば、過去にどういう言動があったにせよ、今の教団に対して、異議申し立てる人が増えることの方をこそ喜ぶべきなのではないでしょうか。

過去を云々するより、今、どういう立ち位置にあって発言しているか、そちらの方こそがより重要視されるべきであると私は思います。

で、表題のことを言う人は、ぜひ、光明思想社から出版されているブックレット『「生長の家」とは何か』の54頁をお読みいただきたいと思います。

これは、頭注版『生命の實相』第23巻149~151頁にあるご文章からの紹介です。

ある禅宗の坊さんが、向こう岸にわたれず難儀しているご婦人を負んぶして川を渡った。

で、渡った後、道伴れの者が、禅宗の坊さんともあろうものが、美しい若い女を負んぶするとはけしからんと詰問するわけです。

で、その坊さんがこう言うわけです。

《「お前はまだ女を背負っているのか、俺はもうとっくに下してしまっているのに」…

それで、その伴れの男がハッと気がついた。

伴れの人は実際には若い女を肉体では背負わなかったけれども、心の中でいつまでもその女のことを考えていた、つまり心の中でいつまでも女を背負っていたことになっているのです。》

何を申し上げたいか。

過去にこういうことを言った。

こういう態度をとった。

いちいち、そういうことを取り上げて、谷口雅宣総裁や現教団を批判する資格はないという人は、どうしてそんなに「過去」にしがみつくのですか。

いつまで「過去」を背負い続けているのですか。

大事なのは、今、この状況下にあって、谷口雅宣総裁が、現教団が本当に谷口雅春先生の御教えを広めようとしているのか。

尊師のお志に報いようとしているのか。

それをこそ、しっかと見つめること。

そして、その結果、谷口雅宣総裁も現教団も、尊師に背反していると見きったならば、当然、その問題点を知らしめるべく尽力すること。

それに尽きるのではないでしょうか?

私は、そのように思うものであります。



おや (9707)
日時:2018年07月09日 (月) 16時39分
名前:ひとこと

 

そういう君は

   教団とマサノブをいつまで背負っているんだい


ひとこと様へ。 (9708)
日時:2018年07月09日 (月) 18時01分
名前:そーれ!!


素晴らしいコメントだと思います。

私も実は悩んでいます。○口家のことで。

で、ひとこと様は、背負った荷物はすっかり

降ろされたのでしょうか。

お仲間はお元気ですか。

〇宣さんには挑まないのですか。

私はその事が、悔しいのです。

熟成 (9714)
日時:2018年07月09日 (月) 23時59分
名前:中仙堂

大聖師谷口雅春先生は
昔、大本教で重要なお立場にお出で有られました。
そして、脱退為さいました。 
体は縛られて居ても、
信仰心に目覚めたものの魂は
自由です。

「ひとこと」さんへ (9724)
日時:2018年07月10日 (火) 10時27分
名前:破邪顕正

 
拙稿に関心をもち投稿いただきましたこと、感謝申し上げます。

>そういう君は教団とマサノブをいつまで背負っているんだい

どうも、私の表現が拙かったようですね。

こういう受け止めをされようとは夢にも思っておりませんでした。

改めて、私が言いたかったことを申し上げます。

禅宗の坊さんがされたことは、そこに困っている人があれば、如何に、女人に触れてはならずとの戒律があろうとも、救うのが仏の道である。

戒律に拘って、救おうとしないのは、そもそも仏の道ではない。

そういうことではないでしょうか。

そう思ったからこそ、「過去」に拘って、今、なすべきことをなさないのは尊師の教えにも反するのではないのかと思ったのです。

今、現に、目の前に、尊師の教えが眩まされようとして実態があるわけです。

それなのに、「過去」がこうだったからと言って、その実態に目をつぶるのは許されないことではないのか。

折角、その実態を問題視していこうと指摘しているのに、その人の「過去」を論って、その人の勇気、覚悟に水を差すようなことをするのは如何なものか。

谷口雅宣総裁、現教団に問題ありと指摘してくれる人は、「過去」がどうであったにせよ、喜んで受け入れるべきではないのか。

そういうことを申し上げたかったわけです。

で、「ひとこと」さんに逆に伺いたいこと。

〝そういう「ひとこと」さんは教団とマサノブの現状をどう思っているのですか?〟

それに尽きます。

そのまま何の関心も払わず、座視し続けていくのですか?

それで、尊師の御教えは護られ、伝えられていくと思っているのですか?

どうお考えなのか。

逆に興味を覚えた次第です。



ひとことさんへ (9725)
日時:2018年07月10日 (火) 18時45分
名前:石橋たたき次郎

見解をお示し下さい。




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