全く異質な発想であります。 (8569) |
- 日時:2017年12月27日 (水) 06時02分
名前:中仙堂
訓古的に仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にし、従って肝腎の問題であるべきその書に、本当に「久遠を流るるいのち」が生きているかどうかを忘れてしまう傾向があるのは遺憾である。「仏典を論ずる」ためには、サンスクリット語や、パーリー語やー西域地方の古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。略…しかしそれはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々廻りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことはできないのである。本当の「さとり」の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して「久遠を流るる命としての釈迦」そのもののうちに飛び込まなければならないのである。(生命の實相第二十七巻)
日常生活の中で人と語る、又はウエブにて、信仰問題を論じる事が有ります。
そんな時に頼れるものの一つに、拙い宗教的知識や人生体験が有るが、そんなものではとても越え難い大問題も人生には待ち伏せて居るもので有ります。
真に難局を越え得るのは姑息な智識の断片では無く。如何に日常の信仰生活での切磋琢磨の賜物が無ければ用に堪えないものかも知れません。
「久遠を流るる命としての釈迦」とは「久遠を流るる命としての自分自身」を見つめる確かな目(心の目でしょうか)なのでしょうか。 当然「久遠を流るる命としての釈迦」を認識しようにも「今の教え」なるもの、時代により宗教の眞理は説き方が変わる。 と云う発想は余りにも稚拙で、「久遠を流るる命」からすれば、似て非なるものでは無く、全く異質な発想であります。
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