《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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現象なしの自覚について ― 「 新経本 」 の読誦が なぜ いけないのか、その理由(わけ) (742)
日時:2016年03月14日 (月) 15時43分
名前:明鏡



合掌 ありがとうございます。


『 生命の實相 』 頭注版 第24巻 参考篇 / 質疑篇  谷 口 雅 春 先 生


質疑篇 真理の応用および拾遺(しゅうい) より

二、現象なしの自覚について( 全文 88頁~99頁 )を謹写させていただきます。

( 読みやすくするため、改行しております。)


( ※ 山科 様、a hope 様において 他掲示板に一部分が投稿されております。)


合掌 再拝。




二、現象なしの自覚について


( 問 ) ― 病は‘ない’ことはない。病は現象としてあるので‘ある’。

それはただ実在では‘ない’のである。それを「病‘なし’」と言いきるのは言いすぎである。

現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのは まちがいである。

現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、

現象なしと言いきってしまうのは奇矯(ききょう)だと言う人があります。( 中根氏出題 )



※ 奇矯(ききょう) ・・・ 普通と かわった言葉づかい や 行ない




1. (744)
日時:2016年03月14日 (月) 16時30分
名前:明鏡



( 答 ) ― 生長の家では 「 現象は実在でない、病は実在でない 」 という言葉を

各所(かくしょ)のページで説いておりますが、また時には、非実在(ひじつざい)と書いて、

「 あらず 」 とか 「 ない 」 とかふりがなをつけたところもあります。


が、近ごろは いっそう平易(へいい)な わかり易(やす)い言葉で

直截(ちょくせつ)的簡明(かんめい)に 「 病気は ‘ ない ’」

「 現象は あるように見えても ‘ ない ’ 」 と 力強く言いきることにしているのであります。

わたしが なぜ こう言うかは 悟った人は知っていると思います。


われわれが平常(へいじょう)使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、

実相に直参(じきさん)する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、

゚ 至妙の実相 ゚に ‘ 直参せしめる ’ ためには、普通とちょっと違う 「 奇矯(ききょう)に

見えるかもしれない 」 言葉を使うのであります。


言葉は 月を指(さ)す指(ゆび)であって、言葉の表現にとらわれていては、

月を指す指の形が 太いとか細いとか議論していると同じで、いつも 月が見えないことに

なるのであります。





2. (766)
日時:2016年03月15日 (火) 21時07分
名前:明鏡



「 現象は ‘ ない ’ 」 という言葉を わたしが使うようになるには 霊感的な導きは

むろんありますが、わたしとしては 人間的にも よほど苦心(くしん)したのであります。

第一、 「 実在 」 という言葉は 哲学上の言葉でありまして、普通の人には ( 少なくとも

中学程度卒業くらいまでの哲学的素養なき人には ) 理解しがたい言葉なのであります。


「 実在 」 とは 何を意味するかということになりますと、大変むずかしいことになりまして、

『 生命の實相 』 のような大衆の光明化を目指している聖典には、こんなむずかしい言葉は

なるべく少なく使いたいと思いました。


ある信徒の方は わたしに 「 生長の家は 高遠の真理を驚くほどやさしく書いてありますが、

どうも まだ言葉が むずかしいと言う人が多いから、できるだけやさしく書いてくれ 」 という

ような注文もせられたのであります。


いろいろ考えたすえ、この 「 実在 」 という哲学上のむずかしい言葉を、わたしは

たんに 「 アル 」 または 「 本当にある 」 という言葉に代えたのであります。


これを哲学的に理屈を 捏(こ)ねて、実在で ‘ ない ’ というのと

単に 「 ‘ ない ’ 」 とは 大いに意味が違うような 言葉の穿鑿(せんさく)問題に

浮(う)き身(み)を やつすのは まちがっているのであります。


わたしの使っている言葉には いろいろ平易(へいい)化の上に苦心があるのですから、

言葉で引っかかって揚足(あげあし)をとらずに その真意(しんい)を知って 実相に

直参(じきさん)していただきたいのであります。

が、「 実在 」 と 「 アル 」 とは そんに問題にするほど違いません。

また、その逆(ぎゃく)、 「 実在でない 」 と単に 「 ナイ 」 とは そんなに違いません。


「 実在 」 という言葉は むずかしそうな言葉でありますけれども、

英語では “ Being ” すなわち 「 在(あ)ること 」 という字を使って

「 実在 」 と言うのであります。


わたしは この英語の易(やさ)しさに感心しました。 「 実在 」 と言わずに

「 アルコト 」 とは 平易で要(よう)をつくしています。

「 実在 」 が 「 アルコト 」 であれば、 「 実在でない 」 ことを 「 ゚ ない ゚ 」 と

平易に言ったら、かえって平易でわかりやすいと思います。


むろん、英語の “ Being ” を 「 実在 」 と読ませるには B を花文字にしてあります。

日本語には 花文字がありませんから、花文字を使うわけにはゆかないので、

前後の関係で 「 実在でない 」 という意味をわからすように苦心した上で

「 ない 」 という言葉を使い、また時々、花文字の代(か)わりに、その 「 ゚ ない ゚ 」 と

いう言葉の所に傍点(ぼうてん)を付したりして、それとなく解るようにしてあるのであります。



※ 花文字・・・西洋文字で 文や固有名詞の初めなどに用いる、かざった字体の大文字。





3. (769)
日時:2016年03月15日 (火) 22時21分
名前:明鏡



生長の家で、「 現象は無い、肉体は無い 」 とハッキリ 「 無い 」 と言いきることに

反対する人に 二種あります。


その一説は、色即是空(しきそくぜくう)の 「 空(くう) 」 という字は

単に 「 ない 」 という言葉と異(ちが)う、アルにはアルのであって何かアル、

それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、

その二は 「 諸法実相(しょほうじっそう) 」 という仏教上の言葉を

「 現象 即 実相(げんしょうそくじっそう) 」 と解(かい)する人であります。

ところが 仏典(ぶってん)には 「 空(くう) 」 をハッキリ 「 無し 」 と断言して

あるところもあります。


『 般若心経(はんにゃしんぎょう) 』 にも 「 五蘊皆 ゚空゚(ごうんかいくう) 」 と

書いてあって、その 「 空 」 を説明するためには、 「 色受想行識(しきじゅそう

ぎょうしき)もまた ゚ 無し ゚ 」 とか、 「 老死(ろうし) ゚ 無し ゚ 」 とか、

「 老死の尽(つ)くることも ゚ 無し ゚ 」 とか、仏教でもやはり 「 無い 」 という言葉を

持ってきて 説明するほかに仕方がないのであります。


「 老死(ろうし) 」 すなわち 老いたり死んだりすることは 現象でありますが、

『 般若心経 』 には 「 老死というものは 単に無いのではない、現象としては あるのである。

実在でないだけである 」 というように、長(なが)たらしい緩慢(かんまん)な表現の

仕方(しかた)をしてないので、端的(たんてき)に簡明直截(かんめいちょくせつ)的に

「 老死 ゚ 無し ゚ 」 と一喝(いっかつ)し、始めから人間に老死は ゚ 無い ゚ のだから、

これから悟って無くなるというようなものでないという意味をふくめて 「 ‘ 老死の尽くる

ことも無し ’ 」 と言っているのであります。


『 般若心経 』 の用語などでも 「 空(くう) 」 とは 単に無(む)とは ちがうというような

批評をせられる人から見たら、 「 老死無し 」 というのは 言葉が奇矯(ききょう)である。


老死は ‘ 実在に非ず ’ と言わなければまちがっている。

もし 「 老死無し 」 というような奇矯なことを 『 般若心経 』 に書いたら

人心(じんしん)を惑わすものであると経文(きょうもん)の結集者(けつじゅうしゃ)に

抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、その当時は 言葉に引っかかる人がなく、

用語がまずくても 経文の神髄(しんずい)をつかむ人が多くて、その経(きょう)を読んでも

気狂(きちがい)になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に至(いた)るまで

この経文(きょうもん)が改竄(かいざん)されたということを聴かないのであります。


実際に 『 生長の家 』 を読んで、 「 不完全な現象は あるように見えても ‘ ない ’ のだ 」

また 「 ただ至妙(しみょう)の実相のみが ‘ ある ’ のだ 」 と教えられても、

続々(ぞくぞく)と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのは

なぜでしょうか。

はたして 「 現象は ‘ ない ‘ 」 「 病気は ‘ ない ’ 」 「 不幸は ‘ ない ’ 」 等々 ・・・

というふうに 「 ‘ ない ’ 」 という言葉を使うことが、不適当なのであれば、

そういう よい結果が起こることはありません。





4. (779)
日時:2016年03月16日 (水) 17時16分
名前:明鏡




世間普通の人は、現象界の出来事は 皆そのまま ‘ ある ’ と思っているのです。

それで、現象の一種である病気も ‘ ある ’ と思っている。老死も ‘ ある ’ と思っている。

不幸も災難も ‘ ある ’と思っている。 ‘ ある ’ と思うがゆえに捉(とら)われ、

捉われるがゆえに病気にかかりやすく、かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、

不幸災厄の前に屈服してしまうのです。



しかしそれらの不完全な現象は、「 あるように見えても ‘ ない ’ んだぞ 」 と わたしが

掛け声をかけてあげると 病気に崩折(くずお)れていた人が 妙(みょう)に立ち上がり、

もう老衰していたと見える人が 若返って白髪まで黒くなり、不幸の前に勇気を失っていた人が

勇気を回復して 事業に邁進成功し、意地悪の姑や、放蕩の良人なども、あるように見えても

‘ ない ’ んだぞと掛け声をかけると、そんな悪い姑や良人はない、神の子たる本当に深切な姑や

良人ばかりがあると思って 姑や良人に隔意(かくい)なく事(つか)えるようになって、

今まで 地獄状態であった家庭が 光明化した実例もたくさんあります。



「 ない 」 という言葉と 「 実在でない 」 という言葉は 哲学上の論議を交(かわ)す場合には、

あるいは 厳密に区別して使わなければならぬ時も あるかもしれませぬが、

生長の家で わたしが 「 ない 」 という言葉を現象に関して使う場合は、哲学上の理屈を

こねるためではなく、老病不幸等(現象)を ‘ ある ’ と思って執着していて、

かえって迷い苦しんでいる人に、その迷い苦しみを取り去るために、応病与薬的に

投げかける喝(かつ)であって、それが 「 言葉の薬 」 として実際的に迷いを去る上に

効果を顕わして迷いが去り、老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的は とげられ、

信徒が 『 生長の家 』 や 『 生命の實相 』 を 読む目的を達せられているのであります。



たとえば、薬というものは たいてい毒性をもったものですが、病気に応じて、適当に

調合して 適量に用いると効くことがあります。現象界を ‘ ある ’ と思いすぎて執着し、

苦しんでいる人に対しては、 「 ない 」 という端的直截(たんてきちょうくせつ)な言葉が

一等よくきくのであって、 「 ない、ない 」 と幾度(いくど)繰り返しても、五官の方では

常に ‘ ある ’ように見えていて、 「 ‘ ある ’、‘ ある ’ 」 と主張してくれているのですから

五官の方での 「‘ ある ’ 」という主張と、生長の家での 薬語(やくご) 「 ゚ ない ゚ 」 とが

適当に中和して、迷いや執着を去る上に効果を奏(そう)し、事実上、実効上、病気が治り、

不幸その他がいちじるしく癒やされているのですから、生長の家で、 「 現象は ゚ 無い ゚ 」 と

いう言葉を使うのは、その用法がまちがっていると言われないのであります。



およそ薬というものは、薬それ自身に毒性があるから使ってはならないというわけのものでは

ないのであります。モルヒネは毒薬であっても、本当にそれがよく効(き)いたら人間に

適するようにして それを使えば、かえって胃腸病が治ったり 神経衰弱が治ったりすることが

あります。そうすると、モルヒネのような毒薬でも、本来毒であるか 薬であるかは 容易に

分かるものではない、使いようによっては 毒ともなれば 薬ともなるのであります。



それと同じく、 「 無 」 という言葉も下手(へた)に使えば、人を気狂(きちがい)に

するかもしれない、今まで哲学に かぶれて厭世(えんせい)自殺をしたり、

仏教の 「 空 」 をさとったと思って隠遁(いんとん)生活をする人が出たりして、

仏教は 厭世(えんせい)思想だという悪評を受けたのも 無を説き 「 空 」 を

語る言葉の薬剤が、効きすぎたり、効かなすぎたり したからであります。

上手に これを使えば、現に、生長の家のように病を治し、運命をよくするのであります。

同じヨードでも、ヨードは 普通なら細胞を破壊する激毒性がありますが、

ある操作を これに加えておくと 強壮剤(きょうそうざい)となります。



「 無 」 の言葉は 今まで 「 ある 」 と思っていた現象を 「 ない 」 と言いきるのですから、

ヨード以上に 竣効(しゅんこう)をもっている。それを適当の効果を持たすように、

文章の中に いわば コロイド状に組み込んであるのが 『 生長の家 』 であり、

『 生命の實相 』 であります。

だから 『 生長の家 』 を読んで 効くか 効かぬか、薬になるか 毒になるかは、

読んだ多数実験者の実際例によって 証明せられているのです。



※ 竣効(しゅんこう)・・・するどい効き目。

※ コロイド状・・・分子が集まって顕微鏡で見えない程度の粒(つぶ)となって、

  浮きただような状態で存するもの。




5. (783)
日時:2016年03月16日 (水) 18時08分
名前:明鏡



かくのごとく 「 無 」 の字は 竣効(しゅんこう)を有(ゆう)するので、生長の家では、

それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、

文章中に巧(たく)みに 他の言葉と混ぜて 調合(ちょうごう)してあるのであります。



‘「 無 」 の字、 「 ない 」 という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません’。

゚ 釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、 「 無 」 の字、

「 ない 」 という言葉を、文章全体の中に織り込んである その織り込み方にあるのであります。゚



この織り込み方は わたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって

書いてゆくので、誰にも真似(まね)は できないのであります。

思想は 真似はできても、言葉の調合は 真似ができないのであります。

だから、今まで お経を読んでも 聖書を読んでも 治らなかった病気でも、その同じ真理が

説いてある生長の家では、聖典を読んだり 話を聴いただけで 病気が治るのであります。



「 現象はない 」 とか 「 病気はない 」 とかいう言葉は、語法(ごほう)が 不穏当であるとか

いって 注意して下さるのは ありがたいが、毒性峻烈なヨードでも ヨード剤として特殊の

分子構造のうちに 結合せしめて ヨードを安定せしめたときには 無害有効となるがごとく、

「 無 」 の字の効果は 峻烈(しゅんれつ)であっても、わたしの書き または 話す特殊の

文章組織の中に結合せしめたときに 効力が最も卓絶(たくぜつ)した薬物となるのであります。



それで、 『 生命の實相 』 を読む人には その人の心の中に、こちらで処方した 「 無 」の

字の一定刺激を連続的に与える方が 効果がよいのであります。それで、生長の家で説いて

いる「 無 」 の字や、「 現象は ‘ ない ’ 」 という語(ことば)だけを抽出(ちゅうしゅつ)して

その 「 無 」 の内容や 効能を 理屈でいろいろ詮議(せんぎ)しても 「 無 」 の字の効果は、

わたしの執筆(しっぴつ)全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を

現わしますのですから、単に 「 無 」 の字や 「 現象は ‘ ない ’ 」 の語句だけを抽出して

語句の適否を非難することは 見当 外(はず)れです。ヨード剤でも その成分中のヨードだけを

抽出して激毒性であると言って 批評してみても、ヨード剤全体が 効果を現わせば

その薬は 優良であるではありませんか。



薬剤に併用禁忌(へいようきんき)の薬があります。たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを

含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で 「 病気は ゚ ない ゚ 、老死は ゚ ない ゚ 、不幸は ゚ ない ゚、 あるように見えても

現象は ゚ ない ゚ 」 と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙(びみょう)な

言葉の鉄剤となるのですが、その 「 ゚ ない ゚ 」 という言葉に 茶々(ちゃちゃ)を入れる批評を

読むときには、その 「 茶々 」 の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの

「 ゚ ない ゚ 」という言葉の鉄剤と結合して 吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に

「 無 」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、

わたしは これを避けたいと思っているのであります。



※ 茶々を入れる・・・じゃまをする。ひやかして妨げる。





6. (784)
日時:2016年03月16日 (水) 18時41分
名前:明鏡



近ごろ、生長の家思想の有名なると 効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を

踏襲(とうしゅう)して、包装や名称だけを加えて、一旗(ひとはた)あげてみようとし、

かつ あまり同じことを書いても 受売(うけう)りであると一見(いっけん)わかるので、

同じ意味を 異なる文章で書き表わし、 「 何々会(なになにかい) 」 等という

別異(べつい)の名称で 雑誌などを 出される方がありますが、そういう雑誌の文章は

「 無 」 の字の言葉の調合法(ちょうごうほう)がちがうので、

わたしの処方した 「 言葉の鉄剤 」 に 「 茶々(ちゃちゃ) 」 を 入れることになります。



茶々を入れられると その人の心のうちで、 「 無 」 字のバランスがこわれるので

『 生長の家 』 を 読んで 万事好転(ばんじこうてん)していた人が、その種の雑誌を

併用したために 「 無 」 字の鉄剤の吸収率が鈍(にぶ)って ‘ ふらつく ’ 人があります。



そうして その種(しゅ)の、雑誌の現象は ‘ ある ’ とか ‘ ない ’ とか論(ろん)じて

ある文章を読んだ日には、心のバランスが破れて なんとなく不安で、会社にいても

思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が

起こってきた人などもあります。



「 無 」 を説くのは 仏教でも、一燈園(いっとうえん)でも説いている。キリスト教でも

解釈の仕様によれば 「 無 」 を説いているのです。生長の家と、それらの宗教とどこが

ちがうかと言いますと、 「 無 」 字の扱い方が 「 ない 」 と易しく言いきって、

その「 ない 」 が わたしの文章全体の流れの上に 巧(たく)みに効果的に 織り混ぜられていて、

古今(ここん)に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、

病を 即座に なおすほどに 心の解放を与え、 「 無 」 を説くとも 隠遁(いんとん)的にならず、

厭世(えんせい)的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。



むつかしい複雑な 「 無 」 の理論を お読みになりたければ 仏典には いくらでも複雑なものが

ありますから、 『 大乗起信論 』 でも、 『 大般若経 』 でも お読みになるとよいと思います。

この問題については 「 善き樹(き)は よき果実(み)を結ぶ、果実(かじつ)を見て

その樹の良否を知れ 」 というキリストの言葉で お答えしたいと思います。

理屈で その樹は 悪い果(み)を結ぶはずだという理論が通りましても、実際その樹が

善き果(み)を結ぶ場合には 理論の方に まだ気づかれない欠陥があるのです。



理論で 宗教で病気が治るはずがないと 結論されても、実際に治る以上は

その理論の気のつかないところに 真理があるのです。真理というものは 多数決の理屈で

定まるものではありません。そういう論議を読むのに費(つい)やす時間がありますならば、

言葉をよく調合せしめたる ― 「 無 」 字を巧みに調剤してある 聖典 『 生命の實相 』 を

幾度でも繰り返し読んで、少しでも いっそう深く悟りに入(い)られるよう希望致します。



                  < 了 >







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