| 唯物的世界観と唯心的世界観 (6813) |
- 日時:2017年06月29日 (木) 00時16分
名前:伝書鳩
新編 『生命の實相』 第23巻 倫理篇
永遠価値の生活学(上)
谷口雅春著
功利的な「考え方」や、その時代やその地域による「考え方」によって「善」が決まるのであれば、我々の道徳観念はきわめて底の浅い、普遍性に欠けるものとならざるを得ない。
このような相対的な道徳ではなく、普遍的で絶対的な「道徳」に基づく「善」は、この世界に存在しないのであろうか。
この問いに谷口雅春先生は次のような、明確で断固たる解答を述べられる。
「『善とは何?』『悪とは何?』これを『生長の家』の倫理学で解説しますと何でもないのであります。『生長の家』で申しますと、善というものは固定した『律』(篇註。掟。定め)ではないのであります。
善の確立する根本原理は、唯一の『善』は神のみである。といふことであります」 (中略)
8頁引用
古来から人間の世界には、唯物的世界観と唯心的世界観とがあります。
唯物的世界観というのは、この世界がバラバラな互いに何の連絡もない、物質と物質の偶然的集合によって成り立っている存在であって、そこに吾吾を進歩に導いて行くい一糸乱れぬ目的意識とか統一的知性とかを認めない世界観であります。
だからその世界に生活している人間も、要するに偶然にに生まれて、偶然に色々の事件に出会し(出くわし)、苦しみ悩み、そしてまた偶然に破壊されて、何の意味もなく滅んで行くと考えるのであります。
だからこの観方によりますと、人生に意義などはない、永遠価値などというものはない、従って「永遠価値の生活」などというものはない、ということになり、人生が暗澹(あんたん)として、生きる希望がなくなり、生きるにしても無目的な、生き甲斐の無い、暗中模索的(あんちゅうもさくてき)な生活となってくるのであります。
自暴自棄的なデカダン生活はここから生まれるのであります.
*現教団の考え方や生き方がかく在り方ですね*
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