《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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群馬の森朝鮮人碑撤去をめぐる裁判傍聴記 (6792)
日時:2017年06月27日 (火) 00時16分
名前:童子


  群馬の森朝鮮人碑撤去をめぐる裁判傍聴記


群馬の森の朝鮮人碑撤去をめぐる裁判は6月21日、証人尋問が行われました。

午後1時45分開廷、途中15分の休憩を挟み、4時55分閉廷という長時間に及びました。

(一部聞き取りにくい部分がありましたので、若干齟齬がある可能性があります)


1) 証人・中島聡氏 (現・群馬県土整備部長)


* 碑の設置許可(平成16年3月)が出された当時は都市計画課長で、着任したときは条件付きで設置許可がされたことは知らなかった。

  【※条件 = 細部事項:宗教的・政治的行事及び管理を行わないものとする】

* 平成24年(’12年)5月15日に、朝鮮新報に4月に行われた碑前の追悼集会の記事が出るまで、集会でどのような発言があったかは知らなかった。

 その後、除幕式や 成16年~18年の追悼集会の記事を検索して読み、不適切・政治的発言があったと認識した。


* 朝鮮新報の記事がきっかけで、県内外から抗議や意見が寄せられたと担当者から聞く。 件数は覚えてない。 抗議の内容は、碑が反日的であり、碑文が事実ではないという指摘だった。 高崎駅前も含め、抗議の街宣が数回あり、内容は、碑に問題がある、碑の撤去を 求めるというもの。 抗議の原因は許可条件違反があったと考える。


* 平成26年(’14)6月、碑の撤去請願が県議会に提出され、可決された。 請願は 尊重されるべきであり、都市公園法にのっとって判断すべきだと考える。


* 平成26年(’16年)1月末に10年の更新許可期限が切れた。そのころと同年7月に 各2回ずつ、計4回、設置側の要望で意見交換を行い、同席した。 茂原副知事 (当時) も出席し、原告側は角田義一弁護団長が出席した。 7月の面談で、原告は許可条件違反を認める一方で、県有地である群馬の森の一部土地の払い下げ、設置許可期限を2~3年に短縮し、その間は碑前で集会を行わず、その後10年にするなどの提案を行ったが、同年7月22日、県は提案を却下し、不許可を決定した。


* 設置許可期限が切れてから半年後の平成26年7月22日、当時の県土整備部長が不許可処分を決定した。 この間、慎重な判断に時間をかけた。


* 原告は大沢知事とのトップ会談を要求したが、議論は出つくした上、都市公園法にのっとって判断すべきと考え、会談は行われなかった。


* 論争が予見され、起こらないように条件を付したのに、論争になってしまい、都市公園法の効用をまっとうしないと考える。


* 設置の許可権限者は高崎土木事務所長であり、許可更新の申請があった後、所長が専決処分を行った。 最終判断は県土整備部長 (当時) が行い、知事から都市公園法にのっとって判断するようにとの指示があった。


* 角田弁護団長からの 「政治的行事とはどういう意味か」 との問いに対し、中島証人は、碑文と異なる発言と述べた。 県が受けた碑をめぐる要望、抗議は、“残せ派”7 52で、“撤去派” は253だったと角田弁護士が証人に代わり述べた。 また氏は、「県が碑を撤去した場合、国際問題に発展すると警告したが、その点は考慮したか」 について、中島氏は、「考慮しなかった」 と述べた。


* 塩田裁判長から、「朝鮮新報の記事で、来賓や朝鮮総連幹部の県が不適切と考える発言、あるいは中山敏雄委員 (碑の設計監理者) の 『碑文に謝罪の言葉がない』 など、複数の発言があったと確認した後、守る会に直に確認と指導をしなかったのはなぜか」 という質問に対し、中島氏は、「設置許可更新期限が近いので、特段指導はしなかった」 と証言した。


 碑を利用して碑文と異なる主義主張をする中身が問題であり、条件が守られれば碑の性質は変わらないと考える。
_____________



中島聡証人の証言で明らかになったことは、群馬県は当初から碑が政治利用される危険性を強く認識していたことです。 だから設置許可に細部事項を付したのです。


碑を推進した角田弁護士は、今では見る影もない旧社会党の代議士で、県に圧力をかけたといわれています。 碑を撤去したら国際問題に発展する?  自分で “放火” しておきながら、どの口で言っているんでしょう。 

日本をも標的にミサイルを何度も撃ち、アジアを、世界を危機に陥れているのは南北朝鮮でしょうが。 不許可処分が下される直前に行われた当時の県土整備部長との面談は、室外にまで聞こえるほどの恫喝まがいの口ぶりだったともいわれております。


除幕式に、朝日新聞元記者の植村隆氏の韓国人義母・梁順任 (詐欺で逮捕、後に証拠不十分で無罪) が参列、別の機会には、日本を憎悪する反日活動家の辛淑玉も訪れている追悼碑が、本当に都市公園の効用をまっとうしているかどうか、国交省がまとめた都市公園法の概要をごらんください。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/150123siryou03_1.pdf



原告側の証言内容についてはあすに続きます。


原告側の証言内容 (6793)
日時:2017年06月27日 (火) 00時29分
名前:童子

 2)証人・神垣宏氏 (碑を守る会事務局長の1人。 除幕式の司会者を務めた)


* 公園施設設置許可に関する細部事項の 「宗教的・政治的行事及び管理を行わないものとする」 の “政治的行事” についての定義は県から示されなかったが、どんなものか認識したかという問いに対し、「考える余地がなかった」 と述べた。


* 設置場所を群馬の森としたのは旧陸軍の戦争遺跡であり、ふさわしいから。


* 県との交渉は1999年から開始し、2001年2月委員会で趣旨採択され、その後、当時の副知事と面談し、了解をもらう。


* 碑の形状や碑名など、県との調整の課題があったが、最大の課題は建てる会 (現・守る会) の団体名、希望碑文には “強制連行” “強制” という日本政府が認めてない言葉が入っていたことで、県は外務省と相談の上、“労務動員” に置き換えた。


* ”強制連行” は入れられなかったが、県との協議で作成された碑文を受け入れたのは、“労務動員” の中に “強制連行” も含まれると言われたから。

* 碑設置の目的は犠牲者の追悼と事実の記録、全国に知らしめること。

* 守る会の会員は500~600人。

* 朝鮮総連幹部の 「朝日国交の早期回復」 「南北の自主的統一」 「朝鮮学校だけが無償化から除外されているのは差別だ」 「民族教育の抹殺」 「日本政府の謝罪と賠償を求める」 といった発言が政治的行事に当たるという条件と関連づけて考えたことはなかった。

* 2013年末、県から、4回の追悼集会での発言に関する報告書が送られてきたが、そのときは内容について詳細に確認しなかった。

* 政治的行事の解釈は “加害” と “被害 ”のとらえ方によって異なると考える。

* 不許可処分決定を受けるまで、県から政治的発言を指摘されたことはなかった。 設置にはあしかけ4年かかった。 群馬県民の誇りや表現の自由を奪うなという思い。

* 「イデオロギーや政治性、党派性をどう理解しているか」 という問いに対し、「政治的、宗教的とは何かも考えなかったし、県に問い合わせもしなかった。 2013年10月25日に全項目合意ができると確認し、守れると考え、占有手続をした。 細部事項と追悼式でやっていることとの関係は深く考えなかったし、県に説明も求めなかった」。

* 塩田裁判長に、「碑文の内容の打ち合わせで、当初の団体名 『群馬県朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者の追悼碑をつくる会』 や希望碑文に強制連行、強制という文言が入っていることで修正が求められた。 県は外務省に問い合わせた結果、強制連行という言葉は公的用語として使われてないため、労務動員という言葉になり、建てる会は修正に応じた。 県の問題意識がどこにあるかを考えたことがあるか」 と問われ、神垣証人は、「碑が政治性を帯びるとは考えなかった。 細部事項の条件と碑とはあまり関係ないと考えたので、県に問い合わせしなかった。 追悼行事の性格に触れるとは思わなかった」 「過去の “事実” を広く知らせるために碑を建てたが、それは政治的ではないと考える」と証言。 

 また、裁判長は、「修正後の碑文は県としてギリギリのラインと理解したか」 との問いには、「条件からはずれるとますいとは考えた」 と証言。


* 除幕式では司会を務めた。 中山敏雄委員 (碑の設計監理者) の 「碑文に謝罪の言葉がない」 という発言は、式典後の別会場の集いで行われたと気づいたのは、裁判が始まってから (裁判開始から約2年後に “自白の撤回” をした)。

* 除幕式での 「強制連行を全国に知らせ、正しい歴史認識を広めよう」 という発言は碑文とは相いれないが、問題はないと考える。

* 県が“強制連行”という言葉に気をつけていたことは認識していたが、森野共同代表の 「日本はアジアを侵略し、今もアジアで孤立している」 といった発言には何ら問題ないし、一つ一つの発言を問題としてとらえない。

* 来賓が何を言ってもかまわないとは思わないが、必要なら制約を考えたい。

* 除幕式のときから “強制” という発言があったが、式典でどういう言葉を使っているかは意識していなかったし、来賓の発言はコントロールできない。

* 提出された守る会の会則は年月日が入っていない。 会設立当時につくられたのではなく、最近つくられたのではないかと被告側弁護士から指摘され、その事実を認めた。


―――――――――――――

るる述べられた2証人の証言を聞いて、双方に落ち度があり、設置不許可決定、裁判に至ったと考えます。


被告・県側は、平成24年5月15日の朝鮮新報の記事から設置許可更新不許可までの約1年半、「政治的行事」 の確認と指導を行わなかったことが問題とされました。


原告・碑を守る会は、“政治的行事” の定義や意味を確認しなかったこと、問題とされた “強制連行” や “謝罪と賠償”、“朝鮮学校の無償化” といった発言は、来賓、会の役員の発言であっても、政治的だとはつゆほども思ってなかったことです。


これは認識のずれというよりも、そもそも県有地にイデオロギー色の濃い碑が存在すること自体が論争を招いていること、碑がもともと日本政府糾弾と謝罪と賠償を求める意図で建立されたことが図らずも明らかにされました。


県側はこれまで書類による弁論のみを行ってきましたが、今回尋問に立った若い男性弁護士が原告側証人を徐々に問い詰める様子が見事で、法廷ドラマのような緊迫感があり、原告側弁護団は頭を抱えていました。



次回は7月19日(水)、午後1時45分開廷で、茂原前副知事が証人として立ちます。

 群馬の森の朝鮮人碑の撤去を求める県民の会
      会長 佐藤みずえ


群馬の森の朝鮮人碑裁判の一つのクライマックス (6794)
日時:2017年06月27日 (火) 00時39分
名前:童子


裁判のクライマックスは突然やってきた。

塩田裁判長が原告側の証人に向って、

「県が碑文に強制連行という文言が入っていることで修正を求めたのは
知っているね。 県の問題意識がどこにあるかを考えたことはないか」 と問い質したのだ。



すると原告は 「それは知っているけれど “強制連行” や “謝罪と賠償” “朝鮮学校の無償化”といった発言が政治的だとは全く考えもしなかった」 と答えた。


裁判長は再度、証人に向って

「修正後の碑文は県としてギリギリのラインと理解したか」 と聞いた。

証人は、「条件からはずれるとまずいとは考えたが、来賓のあいさつまではコントロールできない」 等と答えた。



そもそも、県側は、議会の圧倒的多数の議決を得て、粛々と法的根拠に
則って、碑を守る会と契約更新しない事を決め、撤去するよう通告した。

ところが、守る会が、それは外交問題になる! 等の、いわば、脅しや
屁理屈をこねた挙句、逆に県を提訴した。


これまでの公判では、原告側が自分達に都合の良い理屈を縷々述べて
いたのに対し、県側は口頭では一切答弁しなかった。 ここへきて初めて双方の証人が証言した。


私は、この日の裁判で、目の前で、最初にこの碑文を知った時の怒りの正体が次々と可視化されるのを見て感慨深かった。

我々の先祖への誹謗中傷に対する怒りと共に、戦後レジームを維持してきた日本人の愚直さ、それにつけこまれて来た我々の民族性、これらが正に目の前にCTスキャン映像でも見せられるように晒されたのだ。


この日の県側の証人は真面目に、日本国憲法に則って、東京裁判史観から外れないよう一生懸命仕事を完遂する役人そのものだった。 と当時に、私は、担当者が、職務に忠実であろうとする中でも、郷土を愛する日本人として、悩まれた事を確信している。戦後ずっと形成されて来た巨大な壁のような圧力団体は誰だって恐ろしいしやっかいだ。 そっと地雷にふたをして転勤を待つ手もある。


私は群馬県のお役人の、切ないほど真面目で、日本想いの心と役所の慣例の狭間で、逡巡されたであろう姿を一生忘れる事がないと思う。



一方、政治集会を行わないとした約束破りを問われている原告側が県側の弁護士質問に対して、堂々と次のような答えを展開した。


碑の前での集会で 「強制連行を全国に知らせ、正しい歴史認識を広めよう」 という発言は碑文とは相いれないが、問題はないと考える 「日本はアジアを侵略し、今もアジアで孤立している」 といった発言には何ら問題ないし、過去の “事実” を広く知らせるために碑を建てた、等々。

中でも、「政治的集会を行わないという条件違反? そんなこと考えもしなかった、なぜなら、これら (彼等の政治的主張) は、大事な事だから」 という言葉に、原告側のすべてが集約されていると思う。


証人は、日本が悪いという事を決して忘れないで、それをアジアに広める事が大事だ、と心の底から信じているのだ。 多少の違反を問題にする方がおかしいと言わんばかり。 「大事だ」 と言った時の証人はまるでガリレオのようだった。


確かに、村山談話があり、平壌宣言があり、河野談話があり、日本はずっと謝って来た。 日本人が選んだ政治家が、日本人が守ってきた憲法に従ってやってきた戦後日本。 反論すれば首が飛んだ日本。 これからも、日本は、永遠に謝り続けるのだ。 絶望的で、滑稽ですらある。


しかし、私は、原告側証人が問い詰められる間、碑を守る会側の弁護団が一様に動揺して下を向いていたように見えたのは見逃さなかった。


朝鮮新報の記事を見てから五年。 正直、こんな日が来るとは思わなかった。 裁判の行方は楽観できないが、群馬県には心から感謝している。
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009



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