《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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聖経 『 甘露の法雨 』 の読誦のお勧め (610)
日時:2016年03月02日 (水) 20時15分
名前:明鏡



『 甘露の法雨 』 を読誦 しますと、 『 甘露の法雨 』 の言葉のリズムに乗って、

生長の家の人類光明化運動に携(たずさ)わって居(お)られる所の

観世音菩薩をはじめ、霊界の諸々(もろもろ)の天使 ・ 高級霊たちのうちの

病気治しに 特に優(すぐ)れて いられる霊がやって来て、他力的に

癒してくれることになるのです。


『 人間無病の原理 』 ( 213頁 ) 谷 口 雅 春 先 生


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「 朝の時間を利用するものは 一日を生かすのである。

毎日 朝の時間を利用するものは 生涯を生かすのである。 」

『 新編 生命の實相 』 第12巻 生活篇 (7頁 ) 谷 口 雅 春 先 生


聖経千巻読誦も、404巻(3/2)となりました。

朝、『 聖経 』 と 『 真理の吟唱 』 を読誦して、心のリズムを整えることが、

毎日の習慣になりました。



講師になったら 『甘露の法雨』 講義をしなさい  (621)
日時:2016年03月03日 (木) 08時50分
名前:童子

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32

        生長の家山口教区講師会長   大 楽  英 夫


 私がみ教えを戴いたのは、16歳の時である。 誰に勧められたわけでもなく、生長の家の講演会をポスターを見て、初めて集会に行った。 そこに父がいた。 父も生長の家の話を聴きに来ていたのである。 それは現在もなお、私がずーっとお世話になっている相愛会の発会式の記念講演会であった。 眼に見えない手に導かれて、発会の当初から、私は参列する事が出来たのである。

 それから2.3日してから、仏壇に聖経 『甘露の法雨』 が置かれていた。 今まで、見た事も聞いた事もない、聖経 『甘露の法雨』 の題字を見ながら、私は限りない懐かしさをおぼえた。 しかし、私はそれを手に執って見ることをしようとしなかった。 この尊いお経を、私如き、罪汚れの多いものが、手に執っては、畏れ多いと思ったからである。 中味を全然知らないのに、何故そう思ったのか、誠に不思議な事である。

 さらに2,3日すると、また仏壇に 『生命の實相』 が置かれていた。 見ると、『甘露の法雨』 の講義の所 〈頭注版 第21巻〉 であった。 「神」 の項で、尊師が、釈迦は創造主としての神を否定し、生長の家は現象を否定したという真理を説かれた所は、今でもまざまざと魂に刻みつけられている。 宗教的真理の深さが、私に判るはずもなかったが、何という、すごいお方であろうかと驚いたものである。 爾来、私は一所懸命 『生命の實相』 を拝読した。


 23歳の時、現在の宇治別格本山で林間講習会が開かれた。 まだ、建物は何もなく、屋根のない松林の中で、詳密講習会が開かれたのである。 キリストの山上の垂訓を偲ばせるような、場面であった。 その講習会で、私は地方講師を受験した。 またしても、誰も勧める者はなかったが、連合会長と、教化主任の了承を得て、受験した。 東山半之助講師が、「大楽頑張れよ!」 と言って、背中を叩いて下さったのは、懐しい思い出である。 5ヵ月後に、生長の家地方講師補の辞令を戴いた。

 早速、伝道を始めた。 1ヶ月間、毎晩地元で、聖経 『甘露の法雨』 の講義をした。 東山半之助講師が、「講師になったら、実力をつける為に、甘露の法雨の講義をしなさい」 と言われたのを思い出して、実行したのである。

 『生命の實相』 の “甘露の法雨講義” は繰返し拝読した。 いよいよ講義を始めようとして、ノートに 『甘露の法雨』 を写経した。 最初の2,3行を写した時、何という、尊いお経であろうか。 何という、崇高なリズムであろうか。 この偉大な聖経の前に、私は呆然として、なす事を知らなかった。 しかし、若いというものは有難いもので、やがて、猛然として、勇を鼓して、聖経 『甘露の法雨』 の講義に取組んだのである。

 講義に取組んだといっても、もっぱら尊師の御講義の拝読である。 それでも、70数歳のおばあちゃんから、10代の人まで、年齢層は広く、毎晩数名の方達が集まって下さった。 最初に聖経 『甘露の法雨』 を一斉読誦し、それから講義、次に神想観実修、笑いの練習、最後に座談である。 新米の若い講師補にしては、随分むつかしい質問も出た。

 「現象なし、と言われますが、現象なしと悟った自分は、どうなるのでしょうか」

 「尊師は “現象なしと悟った自分もなしと悟って無くなるのである。 すると、現象もなくなって、360度転回して、有るものは、全て神の生命、仏の生命。 今此処に生きている生命も、神の生命として礼拝出来るのです” とお教えになっています」 と、お伝えした。

 70数歳のおばあちゃんは、ご熱心に来ておられて、生れてこの方、‘ひたい’にあった長さ2センチ位の黒子がなくなった体験を話された。

 1ヶ月間の 『甘露の法雨』 講義を終えて、しばらくした時、目が覚めて見ると私は、顔面神経麻痺にかかっていた。 有難い事に、現象なし、実相完全円満のみ教えを戴いた私は、うろたえ騒ぐ事は無かった。 仏前で聖経 『甘露の法雨』 を拝誦し、又、神想観を実修して、実相を観じた。 やがて、頬がぴくりと動いた。 ほんの一寸、針の先程動いた。 それでもとても嬉しかった。 当り前の有難さをひしひしと感じた。


 夏が来て、また、宇治で詳密講習会が開催された。 受講しようとして、汽車に乗るべく徳山駅頭に立った私は、全身に生長の家大神の御生命が馳け巡る歓喜を感じた。 2年目の宇治は、木造の建物が一つ建っていた。 全国から集まった幹部達が、ぎっしりと詰めて、汗だくになりながら、尊師の御講義を受けた。 尊師のご下問に対して、答える事の出来なかった私共は、その不勉強さに、大目玉を喰らった。 魂の目が覚めた瞬間である。

 汗だくの会場の中で、尊師は神想観をして下さった。 みんな一つになる神想観をしましょうと、尊師、輝子先生、清超先生と手をつながれ、そして清超先生は信徒と手をつながれて、尊師を通じて、神の生命が流れ、みんな一つになる神想観をして下さったのである。

  宇治から帰った時、私の顔面神経麻痺は無くなっていた。 尊師の癒しの聖霊をうけたのである。 み教えを戴きながら、浄まる事のなかった私は、身心霊ともに浄まりて、つつが無くみ教えを伝えよと、神の癒しの聖霊をうけたのである。


 『生長の家』誌  昭和63年8月号 より
 、

< 実力をつける為に > (626)
日時:2016年03月03日 (木) 11時28分
名前:明鏡



>早速、伝道を始めた。 1ヶ月間、毎晩地元で、聖経 『甘露の法雨』 の講義をした。

>東山半之助講師が、「講師になったら、実力をつける為に、甘露の法雨の講義をしなさい」 と

>言われたのを思い出して、実行したのである。


頭注版 『 生命の實相 』 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 、

『 新講 「 甘露の法雨 」 解釈 』 谷 口 雅 春 先 生  を拝読させていただきます。


徳久克己先生の『 甘露の法雨 』 講義も 拝聴させていただきます。


合掌 再拝。




万人の内に宿る“金剛寶戒” (636)
日時:2016年03月04日 (金) 09時21分
名前:童子

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d5277d2584e19d87f4e1312ec726f507

“親孝行せよ!”とは魂の内に宿る至上命令である  
        ―  聖経『甘露の法雨』講義

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 ◇真理とは何ぞや

 聖経には、神は 「真理、光明、智慧、絶対の愛」 とあります。 「真理」というのは「真(まこと)の理(ことわり)」と書かれているのであります。 神様というのは真(まこと)の理(ことわり)である、理(ことわり)というのは道理ですね。 これは天理教でも“理(り)は神じゃ”と斯ういうふうに言っております。

 「真理」というものは永遠に変らない「天地の道理」であって、例えば「22ンが4」というようなものを、真理と言うのであります。 「22ンが4」は算数上の真理、数学上の真理であります。 真理にも色々の範疇がありまして、道徳上の真理もあれば、哲学上の真理もある。 「22ンが4」は数学上の真理であります。

 では真理とは何ぞや。 それは「コトワリ」であります。 コトは日本語では「御コト」〈命/みこと〉であり、英語ではゴト〈God〉であり、ヨハネ伝第1章にある「元始にコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」とあるそのコトバであります。 「コトワリ」の「ワリ」は「割り」でありまして、神よりワカレ出でたる道理、神がコトバによって「これは斯う成る」と定められたものであります。

 真理の特徴とするものは、普遍妥当性という事であります。 普遍というのは“普”という字も“遍”という字も“あまねく”という字であります。 “遍く”というのは、「何処にでも彼処にでも到る処にある」という意味であります。 “妥当”というのは、正しく当てはまるというという事でありまして、何処にでも何時でも正しく当て嵌まる、永遠に到る処に変ることがないのが普遍妥当性のあるというのであります。

 「22ンが4」という数学上の真理は、日本でも、アメリカでも、ソ連でも、印度でも、中共でも、アフリカでも、何処へ行ってでも当て嵌まるのであります。 また、過去にさかのぼって、2千年前でも、3千年でも、地球の出来る前でも、地球が出来てから後でも、吾々が死んでから幾10万年経っても「22ンが4」という数学上の真理は変ることなく、常に2を2倍すれば「22ンが4」となるのであって、何時も変らず、時間に関らず、何処へ行っても、普遍妥当である。 即ち正しく当て嵌まるのであります。 これが真理の特徴なのでありまして、時々ふらふら変るようなものは真理ではないのであります。

 科学も真理をもとめて研究されているのですが、科学的真理だなどと世間では言われておりましても、過去の科学的学説は間違っていたというような事が発見されることが随分あるのであります。 これを称して「科学は日進月歩である」というのであります。 過去に真理と認められていたものが覆されて、又別の説が建てられたりするような場合には、過去の学説は真理の仮面を被っていただけであって、本当の真理ではなかったという訳です。 

 何時でも正しく当て嵌まるのが、これが真理の特徴でありまして、神様というものは、何処にでも当て嵌まる処の「真(まこと)の理(り)」である訳です。 神様というのは、この「真理」の本体なのです。

 ◇万人の内に宿る“金剛寶戒”

 皆様の心の内に宿っている、親孝行したいというような思い  ―  これは何処にでも何時でも当て嵌まるところの普遍妥当性のある真理であります。 

 これは皆様の内に宿る神なる生命(いのち)が、「斯くの如くあれ」と内部から叫んでいるのであって、決して封建時代の遺物であるというようなものではないのであります。 親孝行という事は民主主義のアメリカへ行っても何処へ行ってもやはり褒めらるべき徳行であり、その反対に親不孝ということは何処へ往っても排斥せらるべき不徳であるという訳であります。

 社会の変遷にしたがって道徳の規準が変化すると言われておりますが、道徳的にも一時的な暫定的に通用するものでその時代の社会のあり方に適合するための基準もありますが、どんなに社会制度が変り、国内事情が変っても、根本的に変らない基準もあります。 左側通行がよいとか、右側通行がよいとかいうようなのは前者であり、親孝行が善であるというのは後者であります。 一般に吾々の良心と言われるものが、「これを為すべし」と命ずることは永久にかわることなき道徳だということができるのであります。

 良心というものは「自己に宿る仏性」と言っても良いのであります。 仏教では「良心」のことを「金剛寶戒」と言っております。 金剛不壊すなわち永久に壊けることなき最高の宝ともいうべき戒律の本体という意味であります。 その「金剛寶戒」として吾々の中に宿っている道徳律というもの  ―  ドイツ語で謂うと Sollen〈ゾルレン〉 と言われているものですね  ―  これは日本語では「当為」と訳しておりますが、吾々の生命(いのち)の底から湧き上がって来る 「正に斯くの如く為すべし」 という“至上命令”であります。

 無論、吾々の心が迷って、親不孝でもしようと思ったら、それは出来ない事もない。 けれども自暴自棄になって色々と理屈をつけて、親不孝してみても、親不孝者には必ず内心に“悔い”がある。 何だか自分の内から、「それはいかんぞ」と言って咎めてくる‘あるもの’があるのです。 

 “良心の叫び”とでもいうようなものが出て来る。 それを胡麻化すために、酒に酔ってみたり色々悪いことをする。 肉体の快楽で胡麻化そうとする。 そうして金がなくなって借金が払えない。 切羽つまって盗みをする。 併し盗みをするという事はいけないという事を誰に教えられないでも彼は知っている。 「盗む勿れ」という事は何処へ行っても何時の時代にも通用する道徳律である。

 その道徳律に背いて盗みをすると、何処からか、自分の心の底から気が咎めて、「お前はいかんぞ」という思いが出て来る。 これが仏教でいう金剛寶戒であり、道徳上の真理であり、ドイツの哲学者カントが「実践理性」と名づけたところのものである。

 常に到る処に金剛不壊に壊けないで通用するものが「真理」である。 神様は人間の内に「神性」として、実践理性として、また「金剛寶戒」として宿っていられる。 金剛とは永遠に砕けない、宝石のような貴い戒めであり、「良心」の叫びであります。

 神は吾々の内に“良心の叫び”として“汝斯くの如く為すべし”という“至上命令”として宿っているのであります。 これを私は 『青年の書』 の第1章に 「内部理想」 という語を使って書いておいたのでありますが、吾々は、自己の内から至上命令として「汝、これを為せ」と叫ぶところの「内部理想」を本当に生き切った時に、自分の内から「でかした、でかした、お前は善く生きた。 お前は素晴しい!」という賞讃の声がするのを聞くことができるのであります。

 それは耳には聞えるかどうかは知らんけれども、吾々の魂の底からそのような“声なき叫び”が聞えて来るのです。 その「声なき叫び」を発する‘もと’が即ち「自己の内部理想」であり、「ゾルレン」であり、「至上命令」であり、「金剛寶戒」であり、「良心」であり、仏教で謂えば「仏性」であり、キリスト教で謂えば「内在のキリスト」でありまして、それこそが皆様の「本当の生命(いのち)」なのであります。

 肉体が肉体の快楽だけを求めて此の「本当の生命」に逆らうような事をすると、気が咎めるような感じがして来るのは、それは「本当の生命」の自己破壊であり、自己背反であるからであります。 吾々は、吾々の内に産みつけられたその「生命の實相(いのちのほんとのすがた)」即ち「本性」のそのままに、内在の“至上命令”そのままに生きている時に魂の“安らぎ” “安心”何ともいえない“心の平安” “安らかさ”というような感じが自然と湧いて来るのであります。

 この永遠に変らない生命(いのち)の本性が「真理」である訳であります。 此の如何なる時代にも何処へ行っても、永遠に変らない「真理」として吾々に宿っているもの、これが「神」であります。

 それで、聖経には神を 「宇宙を貫く法則」 であると示され、その次に 「真理」 と示されているのであります。











『眩しいほどの光明』 (659)
日時:2016年03月07日 (月) 09時55分
名前:童子

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/

         京仏師  松 久  朋 琳

 若い頃から本が好きで、活字になっているものは手あたり次第に読んでおりました。 様々な本が、私というちっぽけな人間を肥やしてくれたのですが、なかでも谷口雅春先生の 『甘露の法雨』 〈これを本と呼ぶには憚りがあるのですが〉 は、私に「人生とは何か?」を真摯に考える端緒を与えて下さった 《聖書》 の一つであります。

 たまたま妻を亡くし5人の子供を抱えて四苦八苦しておりましたとき 〈昭和18年頃でしたか〉、同志社の栄光館で先生の 『生命の實相』 の講習会が3日間にわたって開かれました。 例の革表紙の 『生命の實相』 はすでに熟読しておりましたので、仕事もほおり投げて通いつづけましたが、初めて谷口先生のお話をうかがった日の感動は忘れることができません。

 紫色の表紙で、お経のような折り本装丁の 『甘露の法雨』 を求めたのは、その会場であったと記憶します。 谷口先生が霊感を受けて一気に綴られたという自由詩形式の 『甘露の法雨』 には、生命の実相についての先生の深遠な宗教哲学が、実に平易に、しかも格調高いコトバによって説かれており、当時、一向に芽の出ぬ仏師として、とかく厭世的気分に陥りがちであった私に、まぶしいほどの光明を与えて下さったのでした。

   生命は実在の又の名
   実在は始めなく終りなく
   滅びなく
   死なくが故に
   生命も亦始めなく、終りなく
   亡びなく、死滅なし

 先生の 「生命というものは、神とともにある。 神そのものが生命である」 という力強い宣言に、逆境にあった私はどれほど勇気づけられたか判りません。

   神は愛なるが故に
   人間も亦愛なるなり

 私の乏しい思想の根源にあるものは、この 《愛》 に他ありません。 《萬教帰一》 を説かれる谷口先生の 『生命の實相』観 に支えられて82歳の今日まで、コリコリと〈木の仏〉を彫りつづけてこられたといえるのです。

 昨年、日本教文社さんから出していただいた 『佛の聲を彫る』 も、谷口先生はじめ、諸先達の深い心に接したお蔭とつくづく感ずる次第です。

 私が谷口先生の薫陶を受け眼を開かせていただいたように、この拙著が一人でも多くの方々に何らかの支えとなれば、と願わずにはおられません。 それが私の、谷口先生に対するご恩返し、とでも申せましょうか。



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