《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦  (6711)
日時:2017年06月20日 (火) 10時39分
名前:平賀玄米

 
          第七章 神癒科学の理論及び応用

人間は霊を有っています。霊を有つが故に霊的本源なる神への憧憬を有ち、やがて、何が神の意志であるかを知るべく希求せずにはいられなくなるのであります。この神の意志を知覚する心的段階をば信仰と呼ぶのであります。

マックス・ミューラーは彼の『言葉の科学』という本の中で、次の様に定義を下しています。「信仰、私はこれ以上良い名前を見つけ出せないからかく言うのだが、信仰は吾々が無限即ち吾々の感覚識域や理性の会得範囲を超絶したものを把握する『知』の感覚である。感覚の奥に隠れている無限者は、理性では否定されるが、信仰によって認識されるのである」と。

このことは、イエスの科学にとっても眞實であります。ディヴァインサイエンスはまことにイエスの教えの応用科学であります。イエスは常に自分の行った偉大なる凡ての業績(みわざ)をば神の働きだったと認識していました。現在日本には多くの既成宗教が気息奄々としているが、その理由は「理性では否定されるが信仰によって認識される」ところの或る神秘なものに触れ得ないからであります。

即ちキリストの所謂「天の父、我れにいまして成さしめ給う」と云う自覚の上に基礎を置いていないために、奇跡を伴わず、病気一つ治し得ず、却って治病の奇跡を伴う新興宗教が出現すると、迷信とか類似宗教とか言って排斥するのであります。

本章は前章を受けて、尚深く、モルガン氏とホームズ博士の新興宗教ディヴァインサイエンスにつき、その奇跡の生ずる原理と、その実際の方法につき詳述せんことを試みたものであります。

ディヴァインサイエンスと云う名称は必ずしも、ヘンリー・ヴィクター・モルガン氏の専用ではないのです。それはエディ夫人が創始したクリスチャンサイエンスがその教派の専用の名称ではないようにです。この事は、ヘンリーモルガン氏が「エディ夫人がディヴァインサイエンスを講演して云々、・・・」と批評している一文にも明かであることは前章にも指摘した通りであります。

フェンウィック・リンドセイ・ホルムス博士はその著『愛と法則』の中で、「ディヴァインサイエンスなる語は生活の前進運動と調和する思考の方法を意味する」と定義しています。
そしてホルムス博士の精神科学運動をも、同時に「ディヴァインサイエンスであると著書の諸方で述べているのであります。私の通観したところでは、ディヴァインサイエンスが、ヘーゲルの思想とクインビーの治療法とを源流として発生したクリスチャンサイエンスと異なる所は、ヘンリーモルガン氏も言っている様に、クリスチャンサイエンスは「物質は無い」「病気は無い」とハッキリ明言しているのに反して、ディヴァインサイエンスは「物質は無い」と、生活に体験として現れているところのものを否定してしまうことは不合理であるとしているところにあります。

ホルムス博士はこう言っております。「凡そ生命は運動である。運動には干潮も有れば満潮もある。退歩も有れば進歩もある。病気それ自身も、健康と同様に生命の運動である。しかしディヴァインサイエンスの実践者は主として生命の力を改善の方向にのみ刺激せんとすることに関心を有っているのである」と。(「愛の法則」42頁)  

ここに明らかに「病気は無い。それは間違いである。」とクリスチャンサイエンスが病気の完全否定を行っているのに対して、「病気それ自身も健康と同様に生命の運動である」と病気の存在を或る程度に肯定していることに注目しなければならないのであります。(生長の家では症状は「治す働き」又は「本来無い病気の自壊過程」と言うのであって、「病気無し」のクリスチャンサイエンスの思想と、「病気は生命の運動だ」と云うディヴァインサイエンスの思想を調和しているのであります。)

つづく

          <平成29年6月20日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6739)
日時:2017年06月21日 (水) 22時39分
名前:平賀玄米


それでは「生命の運動」とは何であるかと言うと「それは秩序の智慧(intelligence)の活動である」と言うのであります。秩序の智慧のないところには生命はない。どんな低い生命体に吾々が降りて行こうとも、たとえば生命の最も低い顕現である鉱物の結晶体の形成に於いてすらも、秩序の智慧と云うものが認められるのであります。

病気とは吾々に言わせれば生命の一部秩序の崩壊であります。(死は生命の全部秩序の崩壊であるとも言えるでもありましょう)その一部秩序の崩壊は、肉体的感覚に於いては、最初は見ることが出来ないのであります。しかし肉体内部の生命力は既にそれを感知していまして、それが如何に微小な「一部秩序の崩壊」でありましょうとも、それを癒そうという反動作用(自然療能作用)を起こすのであります。発熱であるとか、白血球、赤血球を局部に集中するために起こる発毒、腫脹であるとか。

毒素を発散、吐出、又は汚出する為に生ずる発疹、嘔吐、下痢の如きはすべてそれであります。又疼痛は秩序破壊の部位を全組織に通告する信号であり、この信号によって人体の全組織がその対応の準備をするのであります。これらの疼痛、発熱、腫脹、発赤、発疹、嘔吐、下痢等は人体の一部「秩序破壊」を回復する為の生命力の作用のあらわれでありますから、これを「病気」そのものと名称づける事は、正しい意味に於いては、不合理だと言わなければならないのであります。

こういう自然療能の諸現象を「病気」と名称づけるが故に「病気は無い」と云う事を不合理だと考えるに至るのでありますけれども、それらの疼痛、腫脹、発赤、発疹、嘔吐、下痢等は「病気ではない」のですから、それは自然療能作用でありますから、いくらこれらの諸現象があらわれても、「病気は無い」と云うことは不合理ではないのであります。

それでは、「病気は何処にあるか」と言いますと、最初の肉体的感覚に見えない「病気」は、その文字の如く「気を病む」(Dis-ease安心のないこと、精神的不安)にあるのであります。この点は日本語の構成も、英語の構成も同様であります。先ず心に不安(平かならざるもの)が生じて、それが具象化して、それが潜在的病気となります。だから病気は先ず「心」にあり、既に前記発熱等の「症状」となってあらわれたものは、それを治すハタラキであります。

凡そ生命と云うものは、無形の知性あるエネルギー(即ち心的叡智的存在)であって、それは常に精神的なる要素を積み上げて愈々巨大なる精神的巨塊を形成して行こうとしつつあるものであります。それをなずのは記憶及び印象の集成、その重複による生命運動傾向の指導性の増大によりまして、生命体は或る一定の方向に自発的又は惰力的に運動し行こうとします。

人類の生命は、個人個人は別々の存在の様でありますが、各人が一様に眼が横に二つあり、耳が両側に二つあり、鼻梁が縦に一本通り、口が横に一つあいているのが共通である様に、人類生命が全体として獲得したる「生命の自発的又は惰力的運動傾向」には共通なるものがあるのであります。これを、ホルムス博士は「人類共通の意識」と呼んでいるのであります。

つづく

<平成29年6月21日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6749)
日時:2017年06月22日 (木) 20時11分
名前:平賀玄米


ホルムス博士の言うところによりますと、この「人類共通の意識」は非個性的なものでありますから、個人精神の如く、その印象を分別して自由選択する性質を持っていないので何らの向上向下の弁別なく、全体としての傾向に押し流されやすいのです。(これは仏教の「業の流転の思想によく似ています)そこで、どんな良い印象でも、幸福でも、災害の精神的雰囲気でもそのまま拒絶することなしに、それを受けて内部に蓄積し、機会を得て具象化しょうとしています。

だから人生のうちには災害も、病気も、不幸も、人間生活のあらかじめなる構図の中に混じっていると認めざる得ないような状態を呈しているのであります。だから人間は、この人類全体の共通意識に、支配されている限りは眞に個人の尊厳・自由・解放を獲得していると言うことは出来ない。

それは完全なる自由独立の「個人」ではなくして人類の通念に支配されている“race man”である。だからかかる人は「そら寒波が襲来したので風邪を引くぞ」と一般の人が言えば、自分も風邪を引く。南洋のマラリア流行地へ往ったと言ったら、自分もマラリアに罹る。発疹チブスが流行すると言えば自分も亦、発疹チブスに罹るのであります。

これでは何処に個人の自由があり、個人の独立性があるのであろうか。眞の個人の自由と独立との民主主義は、「制度」の変革ばかりでは得られないのであって、これらの人類の不幸の共通意識から解放せられなければならないのであります。

更にレースマン(人類の共通意識に支配されている人間)の特徴は人類の共通本能に支配された奴隷であるということである。有名なる生物学者ルコント・ド・ヌウイはその新著『人間の運命』の中で、人間に告ぐる言葉として次の様に述べているのです。

「これまで、汝は生存と繁殖のみを事として来た。汝はその本能に従い、殺したり、食物や配偶を盗んだりしながら平和に眠りに就く事が出来た。だが、今日以後、汝はそのような本能と戦わねばならぬ。・・・・汝の主目的はもはや生き且つ食うことではない。高貴な目的のためには、汝は飢餓と死にも耐えるであろう。そして、汝は高貴でなければならぬ――それこそ汝の内に生じた新しきものの意志であるから。」

この「汝の内に生じた新しきもの」とは真にも、人類の通念に支配されることなき、人類共通の本能にも支配されざる、人類共通の悪業の流転にも、悪しき病気や災害の暗示にも支配せられざる、
自己自身が自己の運命の支配者たる完全自由、完全独立の人間であるのであります。かかる完全自由、完全独立の人間は如何にして得られるか。それに回答を与えんとするのがディヴァインサイエンスであります。

つづく

<平成29年6月22日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6755)
日時:2017年06月23日 (金) 12時23分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスは何を信ずるか?簡単に言えば、法則の支配を信ずるのです。ディヴァインサイエンスでは物事が起こった場合、それは偶然に起こったなどとは言いません。物事は過ぎ行く当然の過程として起ると申します。結果は常に原因に従っておこ起り、播いただけのものを刈り穫るのであると宣言します。

又精神界にも自然法則が存在し、自然界にも精神法則が存在する事を教えます。即ち生長する植物を支配している法則は生長する魂の法則をも例示しています。人間の心は主の花園であり、吾々が心の中に植物の種を播けばその植物に従って現実界に色々の花咲き実を結ぶと言うのであります。さればこそ吾々は自己の心の花園に蒔く種子を自由意志によって選定し自分が自分の運命の主人公になれるのであります。

人間は播いた種は刈り取らなければならない。その事は因果応報の悪い意味にもとれますが、人生の勝利を指す根本原理だとも言えます。ディヴァインサイエンスは人間を冷酷なる法則の囹圄(れいご)の中に閉じ込めて、「お前は運命の奴隷である、お前自身の生命を支配する何らの力も、お前にはないのである。」などとは申しません。又人間は個人として夫々別々なものだなどという馬鹿らしい事も主張しないのです。

人間の肉体に他から独立した細胞があり得ないように、全く孤立した人間と云うものは存在しないし、又存在し得る訳がありません。各個体は人間性という大きな体の一部分であり、我々はその一員であり、相互依存的存在であるのです。彼の妻を鞭打つインデアンが一人いるだけでも、そのために全世界は苦しまねばならないとカーライルは言いました。凡ての人間を倶に結合せしめている不可視にして、いのちを持った精神系統が存在すると言うのがディヴァインサイエンスの信念です。

しかし各個人は単なる自働機械ではありません。彼は凡ての思考の波の上に受動的に横たわっているべきでもなく、その波によって動かされるだけのものでもない。人間には選択の能力が与えられています。彼は決して環境から逃げ出すことは出来ないと同時に、彼の意志を意識的に働かす事によって、新しい環境に自らを高める事が出来るのです。

彼は自らの好む想念の振動に自分自身を調節し得るのです。バイブルに「今、お前は自分の仕えたいと思う主人を選びなさい」と言っているのは、人間は何時でも奮起して新しい環境に入る事が出来るのだと云う事を示しているのです。

つづく

<平成29年6月23日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6762)
日時:2017年06月24日 (土) 14時29分
名前:平賀玄米


普通の生活をしていて途中で自分の信念が変わり信仰が変化し精神革命が起った経験を持っている者なら誰でも、彼がその頃心を魅かれ始めた新しい考え方がどこにも此処にも――日々の新聞雑誌の中にも――今迄よりもズッと沢山眼につくようになるという事に気が付くでありましょう。
例えば自己が始めて光明思想で精神革命が起った時、あの人も光明思想だ、この人も同じ考えだからあんなに栄えているんだとわかるようにです。

彼は新しい生命の流れに自分を置いたのです。そして空吹く風でさえ、彼の新しい人生観について何らかの消息を物語るかに思われるのです。彼は逢う人すべてが、彼の新しい考え方に興味を持っている様に思われ、思いもかけない人たちが、今まで彼らが決して持って来てくれようとは想像だもしなかった消息も知らせてくれたりする様になるのであります。

彼はただ新しい思想の流れに自分の生命をのせたのですが、それが次々と類は友を招ぶことになるのであります。持てるところの者、及び持てるところのものを活用する者には尚一層多く与えられると云うことは眞理であります。

自分の生命がかくの如く同波長の生命群によって圍繞(いにょう)されているのであると云う事を知ったならば、もう心配はいりません。彼が異なる意識圏まで高まる時、その同一意識圏に立って考えている世界中の人々は目に見えない心の電波に乗せて彼に色々の通信を送ってくれるし、又、彼に属するところのどんな思想の一つでも、たとい花崗岩の壁を周(めぐ)らしていようとも遮られることはないのです。

凡ての人々に善き事を、ただ好き事のみを希む者は、好き事をのぞむ凡ての者と直結されるのです。彼自身の考えは幾時代も累積した同じ光明思想によって更に強化されます。イエスは、「天地は過ぎゆかん。されど吾が言葉は失せず」と言われました。キリスト我に在すの意識にまで高まった者はイエスの言える言葉の眞理を知る事が出来るのであります。

吾々は「まごころ」と祈りによって宇宙霊の心を知り吾々が知る必要のある凡ゆる時代の凡ての叡智を身辺に引寄せる事が出来るとディヴァインサイエンスは言います。そこに吾々個々人の人間にとっての導きが存在し、吾々は謙虚に耳を傾けてその正しき言葉を聞く事が出来るのであります。

つづく

<平成29年6月24日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6780)
日時:2017年06月25日 (日) 22時23分
名前:平賀玄米


黙想の力が偉大なる事を賢者は知っています。それによって吾々は凡ての聖者、詩人、芸術家、哲学者の魂の意識に透入し、彼の霊感の泉を探る事が出来るのであります。熱心な絶えず求めて止まない魂は、常に同じ線に沿って考えている他の凡ての魂と同調しているのであります。

ある発明家や思索家が部屋に閉じ籠って何か新しい考案がみつかりはしないかと探求しているとします。彼は辛抱強く独り秘密に仕事をしている様ですが、遂には世界の他の隅に於いて同じ問題を研究している他の人々がいることを発見するに到るのであります。ダーウィンとウォーレスはお互い同士は知らずにいながらも、同じ進化論の労作を続け、同じ事実を分析し、殆んど同時に同一の結論に到達したのでした。

生命の大海は一つに繋がっているいるのですから、一人の真摯な思索家の思いは、また他の同様に真摯な思索家の心に、彼が遠く離れていても通ずるのであります。ハードマン博士がメンタルサイエンスを思索していた時に谷口雅春が「生長の家」の眞理を思索しており両者が一致していた如きであります。生命の大海は一つに続くと云っても、競争意識をもって他人の考え方を探ってやろうと黙想するのは良い事ではありません。

至高なる者の奥殿に入り得る者は奉仕を実行する心構えを持っていなければなりません。彼は良きものを求めて心を開き、普遍なる目的の為に普遍なる力を求めなければなりません。自分が密室で思索した事柄が他人の真摯な魂の深奥に触れ、人類共通の幸福に捧げ得る事を心から喜ぶようでなければなりません。利己的な考えでは愛を呼ぶ生命の源泉とつながる事は出来ません。利己的な考え方をしていて喜びに満ちた全身ハチ切れる様な健康を引寄せる事は出来ません。

この眞理の例証としてモルガン氏は或る非常に富裕な婦人を光明思念で治癒した時の事を書いております。彼女は非常に広量で、屡々普通以上の料金を払いましたが、併し、「彼女は私の時間を独占しようとしました。」モルガン氏は彼女の考え方の中にかかる欠点のある事を発見しましたので、ある日彼女に治療の黙想を行う前にこう言ったのです。

「この黙想の時間には、世界中の同じ悩みに悩んでいる人々は皆この治療の恩沢に浴しているのであると感じる様にして下さい。」彼女は直ちにこう答えたの云うことです。「私は何も世界中の人を治療して頂こうと思ってお金を払っているのじゃありません。」言うまでもなく、彼女が抱いていたこの様な自我中心の心の持ち方は、いのちの玉座から流れ出る宇宙の泉流から彼女を確実に隔て去ってしまっていたのだ――とモルガン氏は言っています。

吾々が人々を自分の方に引寄せ莫大な個人的財産を獲得し得る心の力を持っている事実は、イルーミナチの創始した自然神教・共和主義の秘密結社――の人々にはよく知られた事実であります。が、
その代価とは、その人が神経の憂鬱に罹り、永続的悲しみを残すとされております。日本にもこの種の金儲けのために願をかける宗教がありますが、金は儲かるが家庭が面白く行かなくなるとか、家族の病気を引起すとか色々の随伴的禍いを伴うのであります。しかるに唯一の神なる主の恵みは、吾々をいくら富ましめても尚を何らの悲嘆をも伴わないところの至妙なるものなのであります。

つづく

<平成29年6月25日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6787)
日時:2017年06月26日 (月) 17時47分
名前:平賀玄米


普遍なる神は、平等に一切人類を愛していられるのですから、利己的目的のために宇宙普遍の神力を求むる事はまるで精神的自殺にも等しい事であります。凡ての人が同時に共有し、凡ての人が同時にその恩沢に浴し得る物、又は自分が得ても他から奪う事にならない、却って他を富ますもののみが、個人的に求め欲してもよいものなのであります。

「生かして使う」ことが生命の法則であり、世界中によき物が多ければ多いだけ、それだけ多くの人に喜んでもらえるのだと思うならば、あなたは有限の感じから脱却して、生かして使いさえすれば、無限の生命界から「無限供給」が自然に与えられるのであります。

何かが無くなると困るという「欠乏」の感じから、働かすべきものを働かせず貯え込んで置く事はディヴァインサイエンスではよくないとしています。若しこんな気持ちで暮らしているならば、あなたの物質的富は増すかもしれませんが、貴方の魂は委縮してしまい、何百万という富を擁しながらも貧弱な家に住まう様な人になる事でありしょう。

活用の法則こそ常に最高の法則であります。災難の日のために用意しないで、幸福の日を時々、刻々、今建設すべきであります。老年の用意をすれば老年が引寄せられ、雨の日の用意をすれば雨の日が呼び寄せられ、好運を今、心に描けば好運が巡り来るものです。

多くの人は健康を引寄せる事を求めていながら、病気にかからぬようと自己暗示をしています。
ある婦人はモルガン氏にこんな事を告げたと云うことです。三ヶ月間彼女は白髪にならないように自己暗示をしましたが、とうとう三ヶ月目に自分の髪の毛が殆んど白髪(しらが)になってしまったので、同一想念のものが牽引する法則なんて何もないと言いました。併し、たしかに牽引の法則は存在するのです。彼女は自己暗示をしている間中、常に白髪を想念して自己の潜在意識に白髪を描いていたのです。

「この病気が治りますように」と念じながら、病気が益々悪くなる人がありますが、この種の人は、思念毎に「この病気」と病気の姿を心に強く描いているのです。完全なる姿を描くことのみが有効なのです。吾々は常に想念を最高の理想にまで高揚しなくてはなりません。

牽引の法則を理解し応用して吾々の生活を神の如き高さに到達せしめるためには、好きものを受け入れる意識に達するのみならず、好きものを放射する意識にまで達しなければなりません。
  
                       
つづく

<平成29年6月26日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6799)
日時:2017年06月27日 (火) 23時24分
名前:平賀玄米


イエスが弟子達に神を真似よと教え給うた時、彼は予め弟子達に、神は常に与え給う――雨を善人にも悪人にも降らす如く――という事実によく注意せしめ給うたのでありました。イエスが「与えよ、さらば与えられん」と言い給うたのは、単なる宗教的な言葉ではなく、精神科学の理解に基いたものだったのです。

エマースンは言っています、「世の凡てのものは、愛する者を愛する。」そして、同様に「世の凡ての者は与える者に与える」と云うのがディヴァインサイエンスの信条です。『生長の家』の創刊号には、「与えるものは与えられる、益々多くを人に与えよ」と云う詩がその巻頭に載っていました。

成功する最も確実な方法は、他人の成功を助ける事であります。もしあなたが自ら栄えんと欲せば顧客に対して彼らが富む様に、栄える様に神想観(瞑想)することです。そうすれば事業は繁栄発展して行くでありましょう。貴方が他人に対して送念する考えは、常にあなた自身にかえって来るのであります。

宇宙はあなたの想念に呼応します。貴方が眞に儲けたところのものはそれを失う事は決してありません。エマースンはこう言っています、「事物それ自身には本性及び魂があって凡ての取引は保証した通りに遂行されるものである。」と。即ち、眼には眼を、歯には歯を以って報いられると云う意であります。だからヘンリーモルガン氏が毎朝光明思念する時に用いた言葉は次のような言葉であったと言います。他に光明念波を送りながら自分が幸福になるのであります。


      モルガン氏の光明思念の一例
私の魂は宇宙霊の一部であり、宇宙の凡ゆる魂について何事も知っているのである。
私は神の智慧に頼り、私の内なる父の聲を信ずる。
私はキリストの有ち給いし全てのものを我も亦有つ可能を心に知るのである。
私が光明思念を行う時には私は苦痛のあるところに何処にでも出現する、

私は汝のキリストとして全ての人々に対して癒しの言葉を注ぎかけるのである。
私は自由に与える。何故なら与える事がいのちの法則であり、水を与える者は
水を与えられるという事を知っているからである。
私は健康の霊の聲が凡ての人の子にこう言っているのを聞く――「あぁ、凡ての渇ける者よ、
吾が泉に来たれ、貧しき者よ、来たれ、来たりて葡萄酒と乳を飲め、吾は値を取らず酬いを求めず。」

私は人の子に、「父」の饗宴に與(あずか)らしるための遍(あま)ねき招きの心の波を送る。
私の言葉は霊である、いのちである。私は凡ての人の子に対し“いけることば”を話す。
そして私は彼らの内奥の意識に呼びかける。あなたは平和である。あなたは力である。
あなたは豊富である。父の持ち給える凡てのものは永久に永遠にあなたのものである。

つづく

<平成29年6月27日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6804)
日時:2017年06月28日 (水) 13時01分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスは言います――「諸君が若し、有難く思わない主人に仕えているなら、主人の求むる以上のものをもって仕えよ。然らばその主人は有難いものとなって来るでしょう。神に負債を与えなさい。神はそれを皆支払って下さるでしょう。支払いが永引けば永引くだけ、それだけ複利が複利を生み、有利となるのがこの大蔵省の歩合であり習慣である」と。

かくてディヴァインサイエンスの思想は闘争を中心にする軍国主義や共産主義とは全く違うのであります。併しこれが眞理であり、心の法則であります。心の法則を使う事によって諸君は自分で自分の世界を築き上げ、あなた自らの考えに従って事物を引寄せ、かくて勝れた者たちの仲間に入って行くのであります。イエスは弟子達に、「先ず神の国を求めよ、凡てのものは加えらるべし」教え給うたのであって、「先ず闘争して戦いとれ」とは言われなかったのであります。これが最高の科学であり、精神の科学であります。

宇宙はその本質は想念で出来ており、こちらの想念に呼応するのであります。事物の中心に或る「魂」が存在し、それに凡ての人が連なって一体を成し一波万波相応じているのです。

宇宙はエマースンの言ったように神の身体であり、そこに超越霊(over soul)と云うものが存在し、それに凡ての部分、分子が共に関連しているのであります。この事実を人の心に深く認識せしめなくてはなりません。

人間の幸福は実在者の心にとって貴重なるものであるという事、宇宙の大霊は人間を表現の道具として必要としているのであって、人間の心を「力の錬金剤」の中に浸して純化しつつあるのだと云う事を悟らなくてはなりません。

かくして始めて「人間の心行が人間のいのちを護るものとなる」のであります。人間は純化されて勇気と信頼とを放散するのであります。

「神吾を必要とし給う。吾は実在なり。吾に必要なるものは凡て世界の根源から供給されているのである。」それが心の態度として確乎不動のものとなるまで、かく「霊」の底から、「實相」の底から唱えなさいとモルガン氏は勧めています。

かくして吾々は運動再建の正しき建築物の確乎たる基礎を築き上げるのであります。自分が無限者と正しい関係に於いてある者は、決して欠乏を知りません。自ら播いたものを刈り取るのだと知っている者は、「豊富」の種を播きます。彼の繁栄は、河が氾濫するが如くに満ち溢れるでありましょう。彼が繁栄すれば凡ての者はその恩沢を被ります。何故なら、彼は与えても減らないと云う事を知っている。従って彼の手に入って来るものをどんどん他へ譲り渡すに違いないからであります。

つづく

<平成29年6月28日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6816)
日時:2017年06月29日 (木) 21時53分
名前:平賀玄米


あなたを魅きつけるもの、あなたが望み欲するものは、既にあなたの手中にあると考えてよろしい。あなたの切なる願いは、あなたが呼び寄せたいと思っているものによって起こされます。この法則をイエスはこう言っています、「汝祈るとき何にても汝の求むるものあらばそれを既に受けたりと信ぜよ、然らば与えられん」

この法則は鉄屑と磁石の実験で例証されます。磁石が近づくと鉄は異様なる不安と衝動との接近を感じます。鉄屑は呼び声を感じそれに応えるのであります。勿論これは譬えであって例としては不完全です。何故なら物質界の事物は人間の精神的在り方の完全なる例証にはならないからです。
しかし神の法則に於いては、人が魂(こころ)から願望する凡ての無我なる願いは、時には闊達な道を通り、時には曲りくねった道を通って来るにしても、兎も角も必ず實現するものであります。

ジョーン・バール―スは

    静かに、私は手をつかねて待つ、
    風を、高潮を、波濤を、案ずる事もなく、
    私はもはや、時や運命に向かって怒号しない、
    何故か、見よ、
    私自身が私に顕れるであろうから。
 
と歌っています。これは中々好い詩であると思います。

イエスキリストは著しく実際的でありました。彼は五官の人間は霊験を必要とする感情の持ち主である事、そして求めてやまぬ人間の魂は単なる理論だけでは満足しないと云う事を知っていました。彼の行った偉大なる奇跡は、議論よりも尚雄弁に当時の民心を信服せしめたのであります。

彼の不可視の世界に対する理解が、彼を可視的世界の主人公とならしめたのであります。パブディズマのヨハネが「汝はキリストなりや、或は他に待つべきか」と問うた時、聖書によれば、イエスは答えて曰く、「行きて、汝の聞きかつ見たるこれらの事を再び示せ。盲(めしい)は光を得、跛者(あしなえ)は歩み、癩病人は潔められ、聾者(みみしい)は聞き、死人は甦えらされ、貧しき者は福音を聞かされる。」(マタイ伝第11章)

またイエスは「樹はその果実にて知らるべし」と宣(のたま)いました。そして、当時の懸題であった「吾らは如何にして誠の信仰ある者を識り得るか」という問いに対してこう答えられたのであります。「我が為したる業を汝らも能うべし。」奇跡は、独占的手品ではなかったのであります。

つづく

<平成29年6月29日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6836)
日時:2017年07月01日 (土) 23時43分
名前:平賀玄米


イエスは弟子達を遣わして福音を述べ伝え、病を癒させようとなさいました。そして信ずる人々にあらわれる色々の“しるし”の起こるなかで、特にこう言い給うたのであります。「信ずる者の病者に手を按くとき即ち癒えん。」実際、按手して神想観して現代の多くの人々は癒されています。

これはディヴァインサイエンスも生長の家も同じであります。生長の家では按手さえもやめてしまいました。「爾の内にキリストは宿っている」と言います。そしてそれを自覚する者は癒えるのであります。

幾世紀もの間、イエスの心に在りし生ける力をもつ宗教の“偉大なる理念”――「爾に宿るキリスト」――は、殆んど世界から見失われていた感があります。それを復活したのがディヴァインサイエンスです。彼の目指した宗教は、罪を病を窮乏をこの世から拭い去る力を有っていたのでありますが、それは何時の間にか無力の神学の概念と置き換えられ、その人の信仰の正しさはもはやイエスの為したる如き業をなし得る能力によって判断されずして、神聖受胎・三位一体を如何に上手に説明するかなどという抽象理論によって判断されるようになり、ここに活きた宗教は眠らされ、概念の宗教が始まったのです。

神学者達はかくてイエスの偉大なる理念から離れ、もはや主の為したる如き御業を再現する事が出来なくなったにも拘らず、而も「神」の働き給う力の奥殿に立ち帰ろうとせずして、自己の宗教の無力さを弁護する工夫をし始めたのでした。彼らはかく言いました。「癒しは使徒時代に属する特殊の出来事であって、その他の時代のものではないのだ」と。

彼らは山上の垂訓や引力の法則についても同様の事を言うでありましょう。彼らは、かつて真実であったものは永久に真実でなければならぬという事実を見落としたのです。「信じて祈る者は病いを癒すことを得」という事は、ユークリッドの公理と同じく科学的な命題であり、同じ眞理の基礎の上に立っているのであります。それは証明し得る眞理なのであります。

宗教は科学ではない、科学的法則は通用しないと言う人がありますが、宗教には精神科学の法則が通用するのであります。その法則に随えば、今もイエスの時代と同じ事が出来る筈であります。

つづく

<平成29年7月1日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6840)
日時:2017年07月02日 (日) 21時51分
名前:平賀玄米


モルガン氏はこれについて巧みな譬喩を用いています。「もしあなたが子供に薬わんの中に水を入れてそれをストーブにかける様に言いつけ、さてこう申します、「次の様な事が起こるよ、いいかい。間もなく、水の温度が変化して、蒸気となって、吹きこぼれ始めるんだ。」その後、子供が実験してみてこう言うとします、「お父さん、間違ってるよ、水はお父さんの子供の時にはそんな風に変化したかもしれないが、今じゃそんな風にはならないよ。」

貴方はこれに対してどう処置しますか。何らかの具合で薬わんが火の上に正しくかかっていなかったのだとは思いませんか?自然界に於けると同様の事が精神界についても言えるのです。現在治癒はもはや理論ではなくして証拠ある事実なのであります。」と。吾らは薬かんを火の上に正しくかけると同じように、自分の信仰を神の無限の力の上に正しくかければ好いではありませんか。

現在クリスチャンサイエンスや、ディヴァインサイエンスやニューソートや生長の家の体験談発表会では、神のすべてにわたる遍ねき救いは最小なるものから最大ななるものに至るまで凡ゆる人間の魂の深き願いを成し遂げて下さるものなる事を、多数の熱心な男女が証拠立てているのです。

次に掲ぐるのはモルガン氏が或る不治の眼病を患った学校の教師から受け取った信仰体験礼状であります。
  
  「敬愛するモルガン先生。
   私は今、取り急ぎ先生並びに御奥様に、私の眼が癒された事をお知らせ申し上げます。
   私は今、幸福に浸りつつ授業にいそしんでいます。
   先生の光のお言葉をお聞きして以来、母も私も人生が一変しました。
   私達はこの喜びを万人に伝え共に喜びたく思っております。」

眞理の光の言葉が人々の心の中に入って行くことによって、人生に与えられる歓喜の情、新しい人生の意義と内容こそ、眞の癒しなのであり、肉体はその単なる表象(かげ)にしか過ぎません。

イエスによって物理的条件を超越して成し遂げられたかの霊的奇跡が如何に偉大であろうとも、もしそれがイエスの存命中に限られている奇跡であるならば、彼の伝道は失敗であったと言わねばならぬでありましょう。イエスに癒された人は今一人も生きておりません。

つまり、イエスが地上の伝道を閉じて以来百年間も生きていた人もいないのであります。しかし彼らの魂の意識の中に植え付けられた偉大なる理念は今に至るも生き続け、果を結び、今もそれが活用出来るのであります。

世界を救うべきキリストの眞の復活とは、ディヴァインサイエンスに言わすれば、イエスキリストの持ち給うたと同じ心が今日の男女に再現して来るという事なのであります。

若し我々がイエスと同じ「心」になり、同じ「原則」に従うならば、キリストと同様の結果が生じて来なくてはならず、又、実際に生ずるものであると云うことであります。ディヴァインサイエンスに於いて如何なる結果が得られるかは、丁度自然科学の実験に於ける成果の如き公算があるのであります。

つづく

<平成29年7月2日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6866)
日時:2017年07月04日 (火) 14時36分
名前:平賀玄米


若し吾々が望ましい結果を得る事が出来なかったなら、ディヴァインサイエンスなんて何にもならない、などと言わないで、吾々が果して凡ての条件を満足せしめる如く行為したかどうか考えてみなくてはなりません。発作的な努力によって性急な結果を望まないで、吾々は果して「高き者からの力を付与される聖境に達し得た」かどうか見極めなければなりません。

「超越實在の世界――そこでは物質や物質の法則が如何なる状態で存するかを吾々は意識し得ないが――かかる超越的体験界に吾々が意識を没入せしめ得る時、吾々が主の祈りを霊と一体となり、眞理と一体となって祈る事が出来る時、又吾々が神の意志(みこころ)は天に於いてなるが如く地に於いても成し能うという事を悟るとき、そして神は霊であり、霊は遍在であると云う信仰の光の下に病的観念の存在の余地が無くなる時、その時こそ、吾々の言葉が罪と病と死とを克服する力を有つのである」とモルガン氏は言っています。

ここに聖癒の理論の根本があるのです。ここでは「霊のみの世界」「病無し」の世界を根本的と見ているので、ディヴァインサイエンスは結局クリスチャンサイエンスに近づいているのです。

クリスチャンサイエンスのエディ夫人は言っています、「無限者は病を認めないという事を私が最も純粋に観じ最も鋭敏に感じた時、私は神と離れがたく一体となり、かくて私は頚静脈にまでも侵蝕していた癌を即座に癒すことが出来たのです」と。

唯、神のみの世界、霊のみの世界、従って病なき世界、侵蝕された如き肉体存在はあり得ない世界――この様な實相世界をハッキリと精神統一で見た時、この種の神秘に最も素晴らしい成果があらわれるのは事実であります。

イエスが、「先ず神の国を求めよ」と教え給うたのはこの意味であったと思われます。神のみの世界を見、我が全能の神と一体であると云う内的自覚が得られてこそ、吾々の欲するものは何にても
求める事が出来、そして我々にとって何一つ不可能な事はなくなるのであります。

つづく

   <平成29年7月4日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6894)
日時:2017年07月06日 (木) 16時43分
名前:平賀玄米


◇見えるものは一時的であるが見えざるものこそ永遠である。――パウロ

オーマル・カヤムは、神の隠れたる存在が不可思議的に全存在を貫いていると言っています。
そしてパウロはこう言っています。「世界は神の言葉で形造られている、従って、見えるものはその現れている通りの物で造られているのではない、それを、吾々は信仰によって悟ることが出来る。」

カーライルは言っています。「凡て見えるものは象徴である。汝が見るものはそれ自身のためにそこにあるのではない、即ち、厳密に言えばそれはそこには全く存在しない。物質はただ精神的にのみ存在し、或る観念を表し、それを具象化するという意味に於いて存在している。」

エマースンは『二つの河』という美しい詩に於いて、現象の河を通して流れている實相の河を歌っています。そしてヘブライのダビデはかく曰う。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者の住み給う聖所を喜ばしむ。神はその眞奥にいませば都は動かじ。」(詩篇46篇4-5)

ディヴァインサイエンスは自然界に遍満する霊妙なる実質の存在を証拠立てているところの多くの時代の先覚者の言葉を引用してそれを立証せんとしており、同時に近代科学のエーテル波動説や、量子物理学を採用して、信仰が現実化する奇跡を証明しようとしているのであります。

近代科学の振動の研究によれば、山は密集せる固体ではなくして、その固い花崗岩の岸壁を通過して電気振動を透達し得るものであるという事を証明しました。だから固いと見えるものも決して固体的に固いと見える通りに固いものではないと判ったのです。すべては波動のあらわれであるという物理学は創造物の背後には不可視的“原因”「生命の波動」(コトバ)があるとかたく信じている神秘主義者にとって有益な根拠を与えたのであります。

イエスの弟子達が、ある悪鬼に憑かれたる若い男を癒す事が出来なかった時、(その男は後程イエスによって回復させれたのであるが)その時弟子達は、「どうして吾々は癒す事が出来なかったのでしょう」とイエスに問うと、イエスは「汝らの信ぜざるが故なり」と答え給うたと聖書にあります。

諸君の病気の癒えざるもまた「汝らの信ぜざるが故なり」であります。
凡てのものをあらわす原因となり、そして存在する凡てのものを与えいのちを支える「力」であるところの見えざるいのちの河を如何に信じて把握するかに問題はかかっているのであります。病人を癒す事に失敗した弟子達はその方法を知らなかったのであります。

ディヴァインサイエンスは個々の人々の心をその有限的限界から一転して、凡ゆる所に遍在する力であり、宇宙の見えざる神経組織であり、凡ての自然界の中にそしてそれを貫いて働いてまします普遍神へ結びつける方法を教える精神科学であります。かくてディヴァインサイエンスはこの「力」に結びつく時、凡ゆるものが可能であると宣言します!

つづく

<平成29年7月6日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6901)
日時:2017年07月07日 (金) 14時25分
名前:平賀玄米


この教えによれば、凡ゆる人間はこの力の流れの意識の中心となり受信機となり配電盤たり得るのであります。先ずその普遍的力の存在を信ぜよ。その力を信ずる者は、静座黙想していると、遂にはこの流れが魂の意識にまで溢れ漲り、もはや“神が此処にいる”と考える以外には何も考える事が出来なくなる。そして魂を所謂「無我感応」の状態に置くことが出来るようになるのであります。

この神の普遍的力は凡ゆる場所、凡ゆる時に存在しています。イエスは、「神はこれらの石をしてアブラハムの子たらしめん」と言っています。何故ならすべての石は神のいのち(エーテルの波動であり、量子の秩序的振動である)に喜び震えつつある存在であり、内なる言葉に従って如何様にでもなるものであるからであります。

あなたがこの普遍絶対なる神の力を認める時、深く信じて認むる時、あなたは死より生へと甦るのであります。「それが新約の“キリスト”であり旧約のエホバの霊であり、吠陀(ベーダ)――婆羅門教の経典」でいう梵天である」と言ってモルガン氏は偏狭なキリスト教的臭味を捨てて万教帰一的な立場に立っているのであります。

如何なる人でも、この普遍的な生命の流れに身を浸せば「新しき人間」に生まれ変わるのであります。ある人が他のものと異なっているのは、ただ彼が自分に流れ入る生命の河を認識するか、受け容れるかの点に於いてであります。この河の囁きこそ曙を告げる「囁き」であります。

この生命の河の囁きが吾々の感覚意識を照らす時、それは霊感と呼ばれるのであります。それは凡てを知るところの智慧であります。誰でも智慧を求むる時この「力」を認識し心からこの力を信じて求むるならば、思いがけぬ時に、平坦な経路によるか、紆余曲折の経路によるか、いずれにせよその答えはやって来るのであります。それは凡てを支配します。

信ずる者は決して倒るることはないのです。行住坐臥この力を識る者は決して敗北を知りません。その人は事物の自然の流れを把握し、神の霊によって導かれます。魂の切なる願いは祈りとなり、祈るところにすべての事物は成就するのであります。

祈るという事は、宇宙の外なる神が来たり給うて吾に干渉し給うことではないのです。又吾に代わって自然の法則を破毀し給う事でもありません。祈りは魂の黙想であります。それは静かに五感を去って、自己に宿る神の「内奥の聲」を聴く事です。心を澄まして、自己に宿る神の聲を聴く時、それは吾が願いであり、既に神が吾らの為に成就し給いし創造の聲であります。

つづく

       <平成29年7月7日 謹写> ありがとうございます、合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6944)
日時:2017年07月11日 (火) 20時57分
名前:平賀玄米


もし吾々がこの流れを吾が内に導き入れ、その浄めの力を吾が身内に感ぜしめさえすれば、ふるき讃美歌にもある様に、それは「吾らを洗い浄め、かくて吾らは雪よりも白くなり」そこに本来の實相があらわれ、一切が成就せる天国浄土を眼のあたりに見るのであります。

ヘンリーモルガン氏は静座黙想していのちの河を瞑想し、静かにリズミカルに次の如く詩篇の一節を唱えることを勧めています。

「河あり、その流れは神の都をよろこばしめ、
至上者の住み給う聖所をよろこばしむ。
神はその真央に坐せば都は動かじ」

繰返し繰返し、この言葉を唱えると力が現れて来ます。一層人体に適切に言えば「神の玉座より流れ出でたる生命の河の水わが全身に流れ入って四百兆の細胞をよろこばしむ」と念ずるのです。即ち静座黙想して眞理の河が神の玉座より流れ出で来たる有様を観じ、その水が自分を浸し流し、自分の魂を浄め肉体を癒し障いを凡て洗い流すと感ずるのです。

あなたが疲れているならば、すべての疲労は神の水によって洗い流されていると観じ、眞理の河の生かす力があなたに流れ入ると観ずるのです。これは新しく、且つ有効なる神想観と言えるでしょう。もしあなたに長引いている病気があるならば、この生命の河の水が滔々と流れてその頑強に根ざした禍根を掘り出していると観じなさい。

そして静かに次の如く繰返し念ずるのです。「わが天なる父の植え給わざる樹は凡てほり起こさるべし。」モルガン氏は、「如何なる病気もこの思念に抗して長く存続することは出来ない」と言っています。

若しあなたが病気を癒してくれと頼まれるならばあなたは、この流れの波をその人に送り出すのであると感じ、いのちの河がその患者に到達するのであると観じ、この流れの力によって清められている癒されていると観ずれば好いのであります。

モルガン氏はかつて手術を受けた事のある患者の霊的治療を行った体験として次の如く言っています。「その患者は腸を切開手術してもらって癒らないでいるのであった。私は黙想して、神の玉座より生命(いのち)の流れが流れ出し、傷を浄め癒していると思念しました。私がかくてこの思念を終わった時、患者が言いました。「綺麗な水が私の腸の上に流れかかって来る様な気がしました。」こうして吾々は癒しの勝利を勝ち得ました。」と。これは神想観による他人治癒の一例であります。

つづく。

       <平成29年7月11日 謹写> ありがとうございます、合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6974)
日時:2017年07月13日 (木) 23時51分
名前:平賀玄米


このいのちの河は吾々が呼吸している大気の中に充満しています。ヘブライ人(ユダヤ人)はそれをいのちの息と言い、ヒンヅー人はプラナと呼んでいます。それは大気中に漲るいのちであり、吾々は呼吸する毎に神のいのちを呼吸しているのであると識り、毎日のある時間にはこの眞理を意識の奥底にまで認識させるために静座黙念する時間を設ける事がまことに望ましいのであります。その効果は実に素晴らしい。「看よ、吾は戸に立ちて叩く」と眞理の霊は宣います。吾々は眞理を認識して戸を開きそれを迎え入れさえすれば好いのであります。

この河のいのちは吾らが食する凡ての糧に、又吾らの飲む水に遍く遍満しています。吾々は常に、世界の創造られる前より本質的に吾々の為に蓄えられている神のいのちを分与されています。

それ故吾々が何を食べようと飲もうと又何事をなそうとも、凡ては神の栄光に帰せしめなければならないのです。神のいのちの遍満せることについてかく変わらざる確乎とした観念を把持する時、それは自己思念にしても他人思念にしても霊的に素晴らしい神癒効果をあらわすのであります。

モルガン氏は言う「あなたのパンをこの生命(いのち)の水流(ながれ)の上に投げ出せ。このパンこそあなたの想念内容である。この生命の水流の上に愛と祝福の想念を送り出せ。されば、あなたの生きている時代にあなたの与えた影響は、まだ見た事もない幾百万の人々の心に喜びを与える。

そしてあなたが霊界に旅立った後にでも、この神の流れはあなたの愛の創造的思念をその流れに運んで、まじめな思索家達は、彼らの熱心なる願いがあなたの魂の意識を自分に引寄せたのである事を知らないでいて、何となく不思議にもよろこばしい気分になって来ることを感ずるであろう」と。
光明の思念は吾らが死んだ後までも宇宙のレコードの何処かに存続して多くの人々を救う事が出来るのであります。

つづく

       <平成29年7月13日 謹写> ありがとうございます、合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (6992)
日時:2017年07月15日 (土) 12時03分
名前:平賀玄米


モルガン氏は或る日夢をみた。その夢は奇妙な複雑な象徴的夢でした。氏の教会の応接間に、最も吟味された材料で、氏は美しい一つの部屋を建てたのでした。それを建てる時に氏は、別にはっきりした目当ては持っていなかった。モルガン氏が自分の労作の前に立って感嘆した時、ただ氏は完成の美を意識したに過ぎませんでした。技術者としての職人の誇りを氏は感じたのでした。

モルガン夫人が同じ夢に出て来て、氏にこう言いました。
「何故あなたはこの美しいお部屋をお建てになったんですか?何の為ですの?」
そこでモルガン氏は目的を考え出さねばならなかった。氏はこう答えたのでした。
「何だって、お前、この部屋は、彫像の間さ。人類の不幸を癒す治療室にする部屋だよ。」

「魔法の部屋ですのね。」と夫人は言った。
「そうだ。誰でも、最も持ちたいもの、したい事、或はかくありたいと云う想像を心に抱いてこの扉を開けて入ってくるならば、この彫像の間の中に彼の望んだ通りの物を見出すんだよ。」
間もなく、あちらからもこちらからも人々が、この魔法の部屋に入ろうとしてやって来ました。
そして彼らの欲しいものは何でも獲ち得る事が出来るのでした。それは素晴らしい夢でした。

多くの者は富を望みました。そして荷い切れない様な黄金の重圧によろめきながら出て行きました。それはただ彼らを以前よりも一層不幸に落し入れるに役立つのみでした。
他の者は名声を望みました。そして彼らは腕一杯に五色に輝く石鹸の泡ぶくを抱きながら出て来るのでした。

「何と、綺麗じゃないか」と多くの人々は叫びました。
兎も角も、あの泡ぶくは万人の注視と讃嘆の聲を浴びたのです。しかし、間もなく一人のむやみと一杯にあぶくを背負い込んでいた筈の男が叫んだ。
「何故誰も俺に注意しないんだ?」これは何と面白い象徴ではありませんか。五彩に輝いても泡沫(あぶく)は泡沫に過ぎないのです。

最後に、一人の年とった婦人がやって来て、弱々しい震え声で言いました、
「入ってもよろしいでしょうかね?この部屋に・・・」
「さぁ、どうぞ」とモルガン氏は答えました。「入って下さいよ。もしあなたが、何が欲しいか分かっていなさるならね。」

彼女はためらわずにこう答えました。
「私はね、神様が私にかくあれよと仰るような女になりたいんです。そして私の肉体に神様の御栄えを反映させたいんでございます。」彼女はこうして彫像の間に入る事を許されました。


しばらくして彼女は変貌して出て来ました。彼女の姿は神の栄光で輝いていました。言葉が再び肉体として具現したのです。地の幻影は消え失せて、神の栄光が顕現していました。

朝が来ました。モルガン氏は目を覚まして、自分の見た夢の事を思い出し、彫像の間について書かれてある句はないかと、バイブルをひもといたのです。自然に開いてきたページはエゼキエル書の
第八章節でした。そこには「各人その偶像の間におこなう・・・」と書いてありましった。

そしてモルガン氏は氏の象徴的夢の謎が解けたのです。凡てのひとは「彫像の間」を持っているのだと云う事がわかったのです。即ち、凡てのものは先ずこの「心」なる不可思議なる彫像の部屋に於いて形造られるのである事、そしてこの創造的な「彫像の間」を科学的に理解することこそ人間が、運命を支配する方法である事を知ったのです。

この彫像の間こそダビデが詩篇に歌える「かくれたる処」と言っているところのものであり、エゼキエルの「偶像の間」であり、「甘露の法雨」の「神の国は汝の心の内にあり」の「内」なのであります。

つづく

        <平成29年7月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7092)
日時:2017年07月23日 (日) 15時00分
名前:平賀玄米


イエスはこの彫像の間の意義を認識し、吾々の心の中に懐く内部的心象(イメージ)を特に重大視した。ある行為をなす人と「心」の中にその行為の想念を懐く人との間には、イエスは本質的相違を認めなかったのです。だから彼は「女を見て色情を起こす者は既に姦淫せるなり」と申しました。

人間の救われは、実に、心の中に正しき心象を懐く事に始まるのであります。
『コリント後書』の第三章十八節に於いてパウロは凡ての人々に対し罪と病いとを克服する為の科学的公式を与えています。――
「我等はみな鏡に映る如く主の栄光を見、主と同じ像に化するなり」と。
この句を科学的心理学的に言いかえると、「あなたはあなたの想念する通りの者となる」と云う事であります。

ディヴァインサイエンスの実行家はこの驚嘆すべき心の「彫像の部屋」を神聖に清浄に保っていなければならないのです。神の栄光を反映せざる何物もこの部屋に入って来ない様に注意しなければ
ならないのです。

つづく
        <平成29年7月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7109)
日時:2017年07月24日 (月) 21時52分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスの心貧しき信奉者は病み悩める人々をこの彫像の間に連れ来たる事が出来るのです。かく諸君が自分の心の「彫像の間」から罪と病いが力を有するとの観念を浄化し去るとき、即ち唯一の実在者としてそこにキリストを即位せしめるとき、キリストの力が諸君の力となり、驚嘆すべき奇跡を実演する事が出来るのであります。

換言すれば、諸君が自己の心にキリストの存在を高調するとき、諸君はキリストの力を賦与されるのであります。それのみならず、類は友を呼ぶの法則によって、あなたの彫像の間に入りたいと思っている心貧しき、光栄ある人々をも引寄せるのであります。

夢の中で一婦人はこういいました、「私は神様が私にかくあれよと仰る様な女になりたいのです。私は私の肉体に神様の御栄を反映させたいのです。」と。神の御心を自分の内に流し込むことが、神の国を顕現する最良の方法なのです。

イエスは、天国は汝らの中にありと教え給いました。正しく奇跡の行われる部屋は諸君の心の中にあるのです。奇跡は神と一体なる意識によって生み出される変貌と言うべきものであります。

>「イエスキリストの御心を汝の心となさしめよ。」これがディヴァインサイエンスの示標であります。
かくて内なる完成が外にも成就され、そしてその時あなたは、「神の栄光を肉体に反映させ」神の如く輝く健康と豊かさとを実現することが出来るのであります。

眞理のみ存在であります。カーライルは仮相とは「無いもの」であると主張します。この場合の仮相とはキリスト教学者のいう意味での「神の言」ならざるものという意味であります。そして眞理とは「神のコトバ」或は「神のコトバの実現]であります。それは善のみであります。

もし吾々が意識の中に、「眞理は存在する」或は「眞理は存在し得る全てである」という純粋理性の公理を受け入れるならば、悪も存在するという如き二元論の奴隷的束縛や、神に対抗する悪魔に力を与える誤びようから脱する事が出来るのであります。

つづく

        <平成29年7月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7123)
日時:2017年07月25日 (火) 17時29分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスは因果の絆を認めます。モルガン氏は「存在しないものを言い表す言葉、即ち限定とか変化とか、法則や因果の綱とかいう言葉を理解して安全脱去の非常口を開いておかない限り、人生の道は疑惑と紛糾に閉じ込められ、虚妄の絆と足枷に縛られ、何時の時にも、どの処にも、眞理巡礼者の上に蔽いかぶさる因縁因果の綱の目から脱することは出来ない」と言っております。

しかしこの、「悪は無い」「因果の絆は無い」と言うときの「無い」という言葉は閃光が闇をつんざく如く途を切り開き、束縛と法則と欲望を解き放ち、疑団を氷解せしめ、根深き不可能性の固執を切り放ち、環境を融解し、光芒ひらめくが如く一切の悪しき影を消滅せしめ、一角獣の角の如く仮相のジャングルを衝いて突進します。それは眞理の霊験であります「なし能うという意志」の閃きであります。

眞理が凡てなる事を悟っていたイエスは、若しいやしくも神が存在するとせば、その「神」は眞理であり、完全なる「眞理」であり、「眞理」以外の何物でもないという事を知っていたのです。

イエスは自らの魂の底深く實在についての意識を悟って以来、彼は純粋理性の判断によって眞理が凡てであり、彼自身がいやしくも存在する以上、彼自身は必然的に眞理であらねばならぬという事を感得せざるを得なかったのだと思われます。だからイエスが「我は眞理なり」と言い給うた時には、決して彼自身だけの事を特別に言われたわけではない。

彼は彼と同じように自覚したすべての人間について言い給うたのであって、彼の観方は普遍的であったのです。イエスは凡ての時代に於ける凡ての人々の代弁者として「吾れは眞理なり」と言い給うたのだとディヴァインサイエンスは説くのであります


つづく

        <平成29年7月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7183)
日時:2017年07月28日 (金) 05時59分
名前:平賀玄米


「純粋理性の公理、即ち、『眞理が凡てである』と云うことの理解がキリスト教説の眞理に到達する主なる鍵なのである」とモルガン氏は言っております。存在するものは眞理以外の何物でもない、彼の如何なる部分も眞理以外の何物でもないという事を謙虚に悟る人は、無限の神と不滅の自覚へ到達するのであります。

この自覚からイエスはかく言い給うた、「天に於いても地に於いても凡ての力は神の子に与えられている」と。誰でも、「太陽はみんな私のものだ」と言っても他人から何も奪う事にならないのと同様に、凡ての者は「天の父の持ち給えるものは凡て私のものだ」と言っても、決して吾々は他から独占権を奪うものではないのであります。

「吾は眞理なり」という場合の「吾れ」とは凡ての人々を指して言っているのです。何故なら眞理は分割することが出来ないからです。精神的な魂とか物質的な肉体とか云うものもあり得ない、凡ては如何に物質の様相を呈しようとも全く霊である他はないのであります。

イエスは言い給うた、「神(凡て)は霊なり」と。神が何であるかを知っていたイエスは人間とは何であるかという事も知っていたのです。苟しくも存在するものがあれば、それは凡てである。
心が存在するか?いやしくも心が存在すれば、凡ては心である。生命が存在するか?いやしくも生命が存在すれば、凡ては生命である。生命の凡てなる事を観ぜられたればこそイエスは終始一貫「我は生命なり」と言い給うたのである。いのちが凡てであるというイエスの観念はかくて死をも超越しました。

「人の子はいのちを捨つる権能をもつが、又いのちを再び得る権能をも持つのである」とイエスが昂然として宣言されたのは「全ては生命である」との自覚から来るのであります。

「全て」であるものは二つある事はあり得ない。それ故に、もし苟も死が実在であるならば、死が「全て」でなくてはなりません。死は意識の中絶を意味するが故に、もし死が「全て」ならば、生命の意識なるものは存在し得ません。諸君が存在するという事実、生命があるという事実が、死は実在しないという事を公理的に証明していると言えないでしょうか。

これらの根本眞理を神想観する人は神性を分け有つ神人となるのであります。この教えの意義を把握し、日夜それを黙想する者は、「生命の河の流れのほとりに植えられた樹」の如く育ちのび栄ゆるのであります。

つづく

        <平成29年7月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7257)
日時:2017年08月02日 (水) 10時32分
名前:平賀玄米


吾々は御業は既に成されたりと信ずることの代わりに、いたずらに眞理を刻苦勉励して求めたがる傾向を持っております。イエスは「わが軛(くびき)は易く、わが荷は軽し」と宣言なさいました。
眞理は不変であり、それは因果に対して限りなく超優位にあるという事を識らねばなりません。変転極まりなき感覚的現象の下に永遠なるものが潜んでいる事実を理解しなければなりません。

「吾れは眞理なり、吾れは健康なり、吾れは智慧なり」ということばは吾が内に宿る神なる「父」が言い給うことばであって肉体人間の作語ではないのです。この意義を悟るとき、それらの言葉は実に偉大なる神の宣言となるのであります

自然科学者が自然に何物かをつけ加える事は不可能であるという事、即ち吾々自然科学者は唯既にそこに存在するものを見出すことが出来るのみだという事を知っている様に、眞理の学徒は眞理というものは人の考えに迎合してでっち上げた作文ではない。それは「既にあるもの」だという事を知るのであります。

ディヴァインサイエンスを学ぶ者は眞理や健康といういうものは今から創造しなければならないのではなくして唯既にそれが存在しているという事実を認識しなければなりません。

モルガン氏は色々の病気に眞理の治療を施した体験を語って言っています。「患者を黙想せしめておき、私自身は彼の事なんか全く忘れてしまって、唯神のみ、そして神の無限完全さのみを瞑想することが出来た時、その時私は最も良い成績をあげる事が出来た」と。それと同じ事をグレンクラーク氏も著書の中で述べております。

つづく

        <平成29年8月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7282)
日時:2017年08月07日 (月) 10時20分
名前:平賀玄米


イエスは霊的洞察によって、人間の内部にある「實相」を観る事が出来たのです。凡ての病める人の内部にイエスは「完全なる人」をみたのです。目に見えるものの背後に永遠なる生命を見たのです。萎えたる手の中に彼は「健康なる手」を認めたのです。そしてかくこれらの人々に言い給うたのです。「汝の手をのばせ。」かくして彼の男は手を伸ばし、彼の手は「實相の手」をそのままの完全さを取り戻したのであります。

若しイエスがその手を癒すのに六ヶ月もかかるだろうと信じたならば、六ヶ月かかったでありましょう。しかしイエスはそんな事は信じなかった。それ故、時間的要素を超越した即座の治癒が可能となったと観るほかはありません。

又吾々は眞理をその全相に於いて知らないために、普通に吾々は或る病気には時間を要すると感じるのであります。千年といえども神の観点に立てば、一日にしかすぎないし、一日も千年と観ぜられるかも知れないという事を知るべきであります。「変化は時間に於いてもたらされるが、時間によってもたらされるものではない」と、ある偉大なる哲学者が言っているのは眞理であります。

眞理を聖癒に応用する場合には、イエスキリストの有ち給いし心の中に没入するように努力しなければなりません。神の完全さを信ずるのみならず神の現存を信じなければなりません。霊に導かれて吾々の所に救いを求めて来る人々のために、彼らを叡智の黙想に導き、その観想に於いて魂をして神が渾ての渾てなるが故に、罪なる病みたる死なる生命も眞理も実体も智慧も存在しないという事を自覚せしむべきであります。

神についての眞理が「實相の人間」に関しても眞理であると知る時、我々は眞理の霊験を有つことになるのであります。かくして初めて我々が命ずることは実現し、神の意志が天に成る如く地にも行われるのであります。

古代インドの哲学書『ウパニシャッド』の中にこんな事が書いてあります。「眞理は唯一つである、それを知れば我々はすべてを知る事になるのだ」と。イエスも「しかはあれど、かれ眞理の霊来たりて、汝をすべての眞理に導くべし」と言われました。幾千の学説、推論、虚構があろうとも、眞理は唯一つであります。そして吾々がその眞理を認識した時、吾々は凡てを自由に駆使する事が出来るのであります。

つづく

        <平成29年8月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7301)
日時:2017年08月09日 (水) 15時26分
名前:平賀玄米


吾々は虚妄を信ずる事は出来る、しかし吾々は虚妄を知る事は決して出来ないのです。2と2を加えて5になると信ずる事は出来ても、それを知る事は出来ないのです。しかも、吾々がこれらの虚妄を真実だと信じている間は、これらの数字の含まれている数学上の問題は如何なる問題であろうとも絶対に正しい答えを得る事は出来ないのであります。

キリスト教神学者は、眞理こそ存在する或は存在し得る全てである、また眞理は不変なるものであるという事を知っております。それ故、不変なる眞理について以外には、変転する一時的な学会の
学説などに何らかかずらう必要はないのであります。

地球と太陽についての眞理は、地球が平たくて太陽がその周りを廻っていると信じていた時も今日も、ちっとも変ってはいません。吾々は天体の運行に関して一層明確な知識を得ました。そして
吾々の新しい知識は地球上の生活に関して幾層倍の便利を与えてくれました。例えば航海術は、地球と太陽と恒星との関係が解るまでは非常な当て推量でありました。凡ゆる科学的真理の発見はより大きい自由の国へと導き、イエスの「汝ら眞理を知らん、而して眞理は汝を自由ならしめん」と
いう言葉を確証しています。

それと同じく当てズッポーに信じられていた宗教も、これからは眞理の科学であって、その法則を知る事によってイエスの奇跡を今も現実にあると云う事が出来るようになったのです。今日では幾百万の人々がこの眞理の科学を研究し実際的な効果をあげ、中には肉体的制約を超えた治癒を成し遂げたりしています。

「汝らは眞理についての明確な認識に到達するだろう」と言わなかったのです。イエスはただ「汝らは眞理を知らん」と言い給うたのです。イエスは「汝らは神について知らん」とは言い給わなかった。そして「汝らは神を知らん」と言い給うたのです。これをハッキリ記憶しておかなければならないのです。

ディヴァインサイエンスはイエスにおいて人間自覚の最高の模範を見たのです。イエスが神を知ったのは眞理の直接把握でありました。イエスの眞理の把握は、相対の「知」を超えて、「実在」の
世界へ突入したのであります。「吾と吾が父とは一体なり。」「吾は眞理なり。」これこそ實相哲学の究極であり、至高なるものの奥処であり、神と人間との間に分離なき、対蹠的な二つの統一体であります。

眞理が渾てであるというこの認識は唯物論か唯心論かの対立や二元論的世界観をば絶滅せしめ必然的に詩人ウプの「凡てのものは、一つなる素晴らしき完体の部分に過ぎない」と歌ったその認識に到達せしめるのです。

つづく

        <平成29年8月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7396)
日時:2017年08月19日 (土) 17時46分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスに於いては神は渾てでありますから、霊と物質との間には区別はありません。神が渾てであり、神は霊でありますから、吾々の体が物質的存在であるとか、神に非ざる、病むようなつまらない存在であるとかと考えるのは間違っています。或は、イエスのみ「神性」を備えていて、凡ての人には「神性」が存在しないなどと云うのも間違っています。

むしろアメリカの偉大なる詩人の如く「聖なるかなわが存在、内にも外にも。」と言わなければならないのです。ヘンリーモルガンは言う「物質をかくの如く霊に反するものとして、それを否定することは、罪と病を絶滅する事になり、「傷痕と失意」の削除を意味する。

吾々の肉体の凡ての部分は神の分霊であるという事を記憶するならば、吾々は罪と病の想念から自由に解放される筈である。何故なら、神の如何なる部分が一体病気になり得るでしょうか?」と。
ここに於いて、ディヴァインサイエンスは何時の間にか、「唯霊のみ実在・物質無」のクリスチャンサイエンスに一致して来たと言わねばなりません。

モルガン氏は重ねて言う――「おお、眞理の学徒よ、これを単なる知的遁辞であると思ってはいけない。何となれば、イエスが肉体の継承したところの凡ての暗示を祓いのけ、癩者を癒し、死者をも立たしめる事ができたのは、彼が「霊」なる神が凡てなる事を悟っていたからである」と。

つづく

        <平成29年8月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7484)
日時:2017年08月30日 (水) 11時32分
名前:平賀玄米


イエスは現代の物理学を修めたのではなかったのですが、物質の内部構成が如何なるものかを知っていたと言わねばなりません。彼は人間の身体(からだ)は想念によって物質化されるし又非物質化されもするのであると云う事を知っていたのです。彼はそれによって死者を蘇生(よみがえ)らせ又自らの死体を非物質化して昇天しました。これがイエスの行った奇跡的な物理的心霊現象の極意であり秘伝なのであります。

この極意を知り、秘伝に通暁してのみイエスと同様の奇跡を行う事が出来るのです。物質界に於いてさえも、吾々が立派な技術家となるためには、こういう技術が出来ると信ずるだけでは足りない、それが如何なる方法によってなされるかという事を熟知しなければならないでしょう。

ディヴァインサイエンスはその方法を発見しようとする科学であり、既にその方法の幾分を完成しているのです。旧来の宗教のように「神は吾らを護ってい給う。神に任せておけば好いのだ」というだけでは最良の結果を得る事は出来ないのです。如何にそれを委すべきかを知る事が必要なのです。好いかげんにやかんをコンロにかけて、吾々が「若しそれが神の意志ならば」というだけの祈りの程度で終ってしまうのでは、必ずしもそのやかんの湯はたぎるとは決まっていません。やかんがすべての熱源であるコンロに正しくかかっているかどうかが肝腎であります。

つづく

        <平成29年8月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7500)
日時:2017年09月02日 (土) 15時50分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスは熱源を神に求める。決して個人自我を高揚してその生命磁気などで病気を治そうとするのではありません。吾人はやかんであり、神はコンロである。神なる無限の熱源に正しき関係に吾人を置く事こそ生命の湯をたぎらすことを得るのであり、その正しき心境にあらんとする一人たらんと努める最も素直なキリスト信徒こそディヴァインサイエンシストであります。

最も謙遜な幼児の如き信者が最大な神の子の自覚者であり、凡ゆる博学の哲学者よりも一層多くの人々の病を癒し、傷つき破れたる隣人の心を縫合し、束縛されたる者を解放する事が出来ると言わなければなりません。神と神の完き創造以外には何も存在しないと云う事を知っている人は、ただ幼児の如くその眞理を素直に受け、「然り、然り」「否、否」と言うのみで病魔の幻影を破壊する事が出来るのであります。

丁度、朝日が何らの苦闘も努力もなくして闇を照破するが如くにであります。モルガン氏は「幼児の如き」素直なる心にて、神の癒しを受けんがために次の文句の祈りの黙念をすすめているのであります。
      
      <幼な児の心を得る祈り>

幼な児の母の胸に抱かるるが如く、吾は神のみ胸に息(やすら)うのである。
吾は今イエスの此のことばを黙念するのである、「もし汝ら飜(ひるが)えりて幼児の如くならずば、
天国に入るを得ず。」と言い給うた。
吾は、幼児の心になりて、吾をとりまく愛と力のとこしえなる神の腕に抱かれているのである。
吾は吾が身体が幼児の如く、若く、しなやかに、生き生きとしていることを観るのである。
吾は深く静かに神の生命を呼吸しながら安らかさに満たされているのである。

聡明なる父性にして母性なる宇宙の愛が、われを取巻いて護り給うからである。
吾が体なる凡ての細胞は、今吾が心に描ける幼児の像(すがた)に新生するのである。
吾は吾が内に永遠なる若さと、伸び行く能力(ちから)に充たされている。吾はこれを黙想して心楽しく、喜ばし。

吾はひるむことなく、歓喜の心に充たされて、完全の道を歩むのである。
吾は尽きざる泉に汲み、宇宙の溢るる力より吾が求むる凡てを引出すのである。
 
〔備考――モルガン氏が主宰している主キリスト聖癒協会の信者は日々、これらの言葉を瞑想していると云うことである。

つづく

        <平成29年9月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7508)
日時:2017年09月03日 (日) 14時49分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスでは、この様な幼な児の心になって他力的に神の愛の流れを流入せしむる祈りは自力的な精神統一の思念よりも優れているとしています。それは恰も大が小を包含が如くにです。神の意志の中に没入しようとする事は人間意志の最高の行為であり、それのみが平安への道であります。自分自身に奉仕する者はその報酬を自分自身に頼る他はありません。かかる人は決して全実在の支持を受ける事は出来ないのです。

この様な人は自らを智者なりと幻想するかもしれませんがそれは天の与え給うた叡智ではありません。こんな人は神の如くには正しき判断を下す事が出来ません。何故ならそんな人は凡てのものを知り給う「天の父」から自分を遮断しているからであります。ディヴァインサイエンスの観たるキリストの道は永遠に十字架の道(自我を抹殺する道)であり、同時にそれは復活への道であります。「ディヴァインサイエンスの研究者は、感覚的自我と神の像(すがた)に肖(にせ)て象(かたど)られたる『眞の自己』との区別を識るでありましょう。」とモルガン氏は言っています。

感覚的人間はキリストの足下に拝跪せねばならず、より高き心のみ彼の目を開く事が出来るという事を知るでありましょう。」と。意志の力とか思念集中の効果とか暗示の結果の如く見ゆる癒しは虚妄であって決して至高なる永続的な自由解放の道には導いてはくれないのです。泉はその水源より高くは噴き上がらないと云う事は事実であります。吾らは高き所に生命の源泉を求めねばなりません。

人間のいのちはただ神の大生命からのみ養われる事が出来るのです。吾々はこの眞理を悟り神と共に眞理の言葉を語るとき吾々は亦次の如く言う事が出来るのであります。「吾がことばは霊なり、生命なり、天地は失するとも吾が言葉は失せじ」と。あなたの信ずる如く、あなたの言葉は成就するのであります。

つづく

        <平成29年9月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7513)
日時:2017年09月04日 (月) 17時40分
名前:平賀玄米


吾々が天国に生まれるのは死後までそれを待たねばならぬと云うことはないのです。眞理の霊なる聲は常に「今、我を證せよ」と言い給うのです。天国は「今、此処」にあるのであります。若しあなたが人間的な智慧で考えて解決出来ない様な個人的悩みを抱いておられますならばモルガン氏は次の様に勧めています。

直ちに瞑目して心の中に次の如く宣言するのです。
「私は全能なる眞理の霊を私の内に認める。そして全ての智慧と生かす力は我がものであり、それより自分は汲むことが出来るのである。私はこの眞理の霊に問題の解決を全托する。」

また、夜眠る前に右の黙念を繰返し、更にかう付け加えて繰返し、心に唱えるのであります。
「わが眠りの間に、神はそのいとし子なる眞理の霊を与え給う。」
もし辛抱強くこの瞑想的祈りを毎晩実行するならば、決して失敗する事はないとモルガン氏は言っています。

ディヴァインサイエンスには「無抵抗の法則」と云うものがあります。生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示と一致するものです。「されど吾れ汝らにつぐ、汝ら悪に抵抗(てむか)う事なかれ」とイエスは仰いました。これを実行するのです。ディヴァインサイエンスに於いては「神が渾てである」と云う基本眞理は見落とす事の出来ないものであります。

又総てのものは一つなりと言っても同じ事であります。現象のすべてが無であり、実在のすべてが神であるならば「悪」と認めて抵抗すべきものはないのであります。相反する二つの全能なる力を信ずる事は純粋理性の認めざるところであります。神は全てであるか、さもなくば神は全く存在せざるかどちらかであります。

つづく

        <平成29年9月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7529)
日時:2017年09月05日 (火) 17時13分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスの研究者は間もなく、吾々の言語は吾々の思想を表明するのに不便極まるものである事を知るでしょう。神を呼ぶのに三人称的な「彼」という言葉を用いるのは、自分の他に対立的に神があるようでまことに非科学的であり誤解を招きやすいのです。

吾々の思想をもっとぴったりと表現する言葉が他にないから、かく呼ぶ他はないのですが、これは実に不便な事であります。有限の現象界を説明する言語は無限を完全に表明する事は出来ないのです。ただ吾々は象徴的に言葉を使うのであります。言語を契機として吾々は各自に宿る眞理の霊を通して眞理を理解する事が出来ると信ずるから言語で説明するのであります。
釈迦は「唯、佛と佛のみよく眞理を究盡し得る」と言いました。眞理の霊と霊との触れ合いが必要であります。

神なる「無限生命の源泉」に根ざさざる以上、そこには眞の生長はあり得ません。吾々が分裂の世界観を把持し、二つの対立する力を信ずる限りに於いて、吾々の生活は恐怖に悩まされ、限定に束縛され、必然的に「悪に対抗する」態度をとるに到るでありましょう。神一元の人生観によってのみ、この対立的恐怖の態度を克服し得るのであります。

ディヴァインサイエンスは主張します「凡てのものはそのままその処に於いてそれで善いのだ、吾々が悪と呼んでいるもの、吾々が善と呼ぶものは、自分の或る立場からかく見えるのであって、「自分の立場」を捨てて無立場の立場に立つ時、対抗すべき何物もない、即ち自然に天地一切のものに和解出来る」と主張しているのであります。

パウロはこう言っています、「それ自身汚れたるものとてはなし、ただ汚れたるものと見る者にのみ汚れたものとなるなり。」又キリストは「口に入る物は汝を汚さず、口より出づるものは汝を汚す」と。

純粋理性の認識は「凡てが善即ち神である」と云う事であります。この眞理が魂の悟りにまで達するとき、言葉に欲するものを呼び出せば、實相秘密の法力が力の貯水池の堰を開くでありましょう。
これこそが心に新生を、肉体に健康を齎し、吾々を凡ゆる災厄から身を護る為の正義の楯となるのであります。それこそは、力の杖であり、ダビデもそれに頼りかかって、「吾れ、死の影を歩めども、吾は悪を恐れじ、汝、吾と偕にいませばなり」と歌ったのであります。

つづく

        <平成29年9月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑦ (7550)
日時:2017年09月08日 (金) 11時48分
名前:平賀玄米


吾らの心が常にこの悟りの境地に安住するならば、悲しみと嘆息とはもはや存在しないのであります。。この眞理が理性にまで明白に浸透し、人間存在の地下水にまで到達するまでは、人間は本当に完全なる平安を獲ることは出来ないのです。そして吾らの道は悔恨に悩まされ、吾々の心は意識の分裂を告白し、吾々は悪に抵抗する恐怖と闘争の態度をとらなければならないのです。

吾々が心の世界に「悪」を描いて「悪」に抵抗している限り、吾々の抵抗しているものを創造しているのであって、悪に力を付与していることになるのであります。少しくどい程に「悪」の非存在について説明致しましたが、それは人間の心から「悪」の存在を信ずる心を駆逐する事が、如何に困難であるか、私自身の体験でよく知っているからであります。

あなたは「悪」が殆んど凡ての神学体系又は哲学体系の中に現れるのを見出すでしょう。古き神話の悪魔は死んだも同然であります。併し、悪魔は又別の新しい名前で生まれ更って生きているのであります。近代の心霊主義(スピリチュアリズム)では「悪霊」と云う言葉をよく使います。
霊智学では「四大の霊」、クリスチャンサイエンスでは「害意ある動物磁気」と言います。
佛教では業の流転と言い、天理教では「因縁」と言ったりします。これらの新しい悪魔の力を信ずる事は人類を古代のそれと同じく悪魔の桎梏の中に突き落とすこととなるのであります。

ディヴァインサイエンスは、神は渾てであり、神は善なるが故に、凡ては善であり、随って「悪」は全然存在せずと、すべての「悪」を否定するのであります。若し神が渾てであり、凡てが善であるならば、何処に悪霊や四大の霊が力をふるう余地がありましょうか。もし神が渾てであるならば害意ある動物磁気など何処に発生するでしょう。

神は渾てである事を発見した人はその心の中に悪霊や悪意ある動物磁気や、悪業や悪因縁などの住む場所などあり得ません。神が凡てであるというディヴァインサイエンスの信仰こそ、生長の家の信仰と一致するものであり、吾々が「悪」の力を妄想し、それと敵対し、戦い苦しむ煉獄から救い出してくれるものなのです。

もしあなたが、肉体の苦痛にさいなまされそれに抵抗しょうと力んでいる患者を取扱うときには、あなたは心の中に強い思念をもってその患者に対し、次の如く言うべきだとディヴァインサイエンスは教えています。
「私の思念する言葉に傾聴せよ。あなたは神の像(かたち)に造られているのである。あなたの古い病める肉体は日々滅びて神の像に造られたる新しい肉体が生まれつつあるのである。」
そして又
「あなたの悩んでいる苦痛はあなたの敵ではなくして友なのである。新生の肉体の為にその途を清め助けている見えざる外科医である。あなたの完全なる肉体を観想し、自然療能医が完全に仕事をなし終わるまでその苦しみを堪え忍ぶ事が出来るのである。新生の喜びの中にあなたは解放されつつあるのである。今あなたは自由である。」

かくの如く思念して、又言葉によってこの苦痛と和解することを教えよ。苦痛が感謝出来るや否や、患者は敵手と和解したことになるのであります。かくて癒しは急速に行われます。若し反対に患者が苦痛に反抗しているならば、身体は緊張し、生命の流れは阻害され、それだけ治療が遅れるのであります。

ディヴァインサイエンスの和解の眞理は聖書の次の言葉に包含されています。「われ汝らに告ぐ、悪に抵抗(てむか)うな。」そして又「途に彼と共にあるうちに早く汝の敵と和解せよ。」と。
また生長の家の和解の神示「汝等天地一切のものと和解せよ。天地一切のものと和解が成立する時天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ・・・」と一致しているのです。眞理は古今東西「一つ」であります。

今回にて<第七章 神癒科学の理論及び応用>は完了。次回から第八章です。

    <平成29年9月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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