| 皇籍離脱された旧・東久邇宮(ひがしくにのみや)に皇籍復帰頂ければ、現在80パーセントが反対している、女性宮の創設など必要なくなるのではないでしょうか。 (6606) |
- 日時:2017年06月10日 (土) 12時50分
名前:コスモス
合掌 有難うございます。
不勉強で詳しい事を知りませんでしたが、現天皇家とも親しくお付き合いされていると伺う、旧・東久邇宮家に皇籍復帰頂ければ、女性宮の創設は必要なくなることを知りました。是非そのようになる事を祈っております。
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東久邇宮家とは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE#.E5.AE.AE.E5.AE.B6.E6.A7.8B.E6.88.90.E5.93.A1.E4.B8.80.E8.A6.A7
(東久邇宮の)稔彦王は明治天皇皇女の聰子内親王と結婚されました。お二人の間には、4人のお子がお生まれになりました。
〇長男の盛厚王は、のちに昭和天皇の第1皇女である照宮成子内親王と結婚されました。 お2人の間には、信彦王・文子女王、皇籍離脱後に基博氏(前名:秀彦、壬生家養子)・眞彦氏・優子さまの5人のお子様がお生まれになりました。
1961年(昭和36年)に妻である東久邇成子さまが死去されると、その後、盛厚氏は寺尾佳子さんと再婚され、
厚彦氏(寺尾家養子)・盛彦氏の2男をもうけられました。
1969年(昭和44年)に盛厚氏は肺癌のために死去されました。
〇稔彦王の二男の信彦王は、1945年(昭和20年)に生まれ、2歳の時に皇籍離脱。
信彦氏の子の征彦氏は、昭和天皇にとって初の曾孫となられました。
〇稔彦王の三男の師正王は、6歳のときに起きた関東大震災で薨去されています。
〇四男の彰常王は、1940年(昭和15年)に臣籍降下され、粟田彰常侯爵を名乗られました。同家は日本で最後に創設された侯爵家となりました。
〇五男の俊彦王は、1947年(昭和22年)の皇籍離脱と共に、在サンパウロ総領事の多羅間鉄輔未亡人キヌの養子となられて、多羅間俊彦と名乗られました。
ブラジルに移民し、その子息は祖父にちなんでアルフレッド稔彦と名付けられました。
盛厚王は昭和天皇皇女の成子内親王を妃に迎えられており、また昭和天皇の皇后である香淳皇后は、稔彦王の兄、邦彦王の娘で、近い親戚でいらっしゃり、皇室とは最も血の繋がりが濃い宮家でもあります。
そのため、仮に旧宮家の皇籍復帰があるとすれば、東久邇家の復帰が最も有力とされ、信彦氏の2人のご子息(征彦氏・眞彦氏)が復帰の対象となるのではないかと言われています。
東久邇信彦氏(1945年 - ) 慶應義塾大学法学部卒業後は三井銀行に勤務。財団法人日本タイ協会役員・常務理事、かをり会会員などの要職を歴任した。 2008年全日本野球会議名誉会長に就任。2009年日米友好の架け橋実行委員会名誉顧問就任。崇敬会「東郷会」の名誉会長、日本の伝統を守る会の名誉会長も務める
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(読み難い所や解りにくい所は、解り易くしました)
戦後GHQによって、11の宮家が皇籍離脱させられていますので、併せて皇籍復帰の条件に合う旧宮家にも、復帰願えればと思います。
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この様な旧宮家に、皇統を継がれるお方がいらっしゃる事は有難い事であり、是非、皇籍復帰を訴える運動を始める事も必要ではないかと思いますが、皆様はどうお考えでしょうか。 再拝
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