《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥  (6169)
日時:2017年05月07日 (日) 13時45分
名前:平賀玄米

 
          第六章 モルガンの神癒科学


  如何になごやかに、如何におだやかに、吾が内在の神の理念の湧き出づることよ。
  私のいのちはキリストと共に神におおわれているのである。かくて私のいのちは不滅である。
  私は、イエスを死より甦らしめ給うた聖霊が私に宿っているがゆえに、その内在の霊によって私は
  凡ゆる制約から癒されることを悟るのである。

  私の魂は昼も、夜も、内在せるキリストの眞理を黙想することを喜ぶ。
  神想観によって私は無限なる力を自覚するのである。
  私は生命の河の畔に植わっている一本の樹の如きものである。
  私自らの魂の奥に、私は又、永遠なるものの声を聴くのである。
  この自覚に基づいて、私は、求むる者には誰であろうとも、癒しの言葉をものがたる。

  語る者は私ではない、私の内に宿り給う父である、私はそれを識っているのである。え
  この事を悟ればこそ、私は私の言葉が霊にして生命(いのち)であり、その言葉を受ける者
  凡てを癒す事が出来るという事を知るのである。

  天と地とは過ぎ行かん、されどわが言葉は失せず。
  父よ、有難うございます。あなたはつねに、私の願いをききとどけてくださいます。
                 (吾が祈りの言葉 ヘンリー・ヴィクター・モルガン)

      (一)

ヘンリー・ヴィクター・モルガンは、本書の第二章の「運命が修正せられる原理」に於いて紹介した、英国チチュスター市で光明思想を宣伝しているハンブリン氏と、互いに連絡して光明思想を宣伝している神癒的キリスト教の宣布者であります

その思想がカーライルの流れを汲んでいることは、氏自ら「私はカーライルの論文を読んで心に一大変改を来たし、その論文によって自分は建設的影響を受けた」と言い、又、「私の知的生活がカーライルの論文によって調(ととの)えられた」と言っていることによって明らかであります。

英国のカーライルと米国のエマースンとは洋を隔てて互いに親交を有しており、光明思想を交換していたのであるから、ヘンリー・モルガン氏も結局エマースンを幽祖とする光明思想家群の一人だと云っても差支えないのであります。ヘンリー・モルガン氏は自分の思想信仰をデヴァイン・サイエンスと言っておりますが、それは必ずしも固有名詞ではなく、聖癒科学とでも云う普通名詞であります。

それはモルガン氏が、「それは何もエディ夫人がデヴァイン・サイエンスを論述したり、指導したりして生活費を得ている事をあれこれととがめ立てしようとするのではありませんが、その商業主義の精神には嫌悪を感ずるものであります。」と、一寸皮肉にクリスチャンサイエンスの開祖エディ夫人を批評している中に、エディ夫人の説く宗教をもデヴァイン・サイエンスと云う名称で呼んでいることによっても、モルガン氏独特の宗教を「デヴァイン・サイエンス」と呼んでいるのでないことは明らかであります。

しかしモルガン氏もクリスチャンサイエンスと異なるところがないではありません。それは氏が「私は色々な方面から特にクリスチャンサイエンスについて深く研究しました。そしてそれから多くの示唆を得たのでありますが、クリスチャンサイエンスを生活の哲学として受け入れたり、又クリスチャンサイエンスの中に私の教会の本源を見出すことは出来ませんでした。」と言っているので明らかであります。

つづく

      <平成29年5月7日 謹写>  ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥  (6182)
日時:2017年05月08日 (月) 10時14分
名前:平賀玄米


モルガン氏は如何なる点でクリスチャンサイエンスとディヴァインサイエンスとが異なるものであると言っているかと云いますと、それはクリスチャンサイエンスが「病気なし、従って病気を癒す医薬も必要ない。物質は無である。」と言っているのに対して、

「私はクリスチャンサイエンスが医者仲間に対する態度に承認出来ないものを感じました。私は勿論、人間の心は神の心の一部であることを信ずる者でありますが、現在の我々の悟りの状態では有能なる医者の仕事は屡々大切な必要なものであると思うのです。」と言って神癒教会の牧師として神癒に従事する間中、専門の医者と協力し合い、完全に調和して仕事を続けて来たと言っています。
氏は「どんな有能な医者でも彼らは仕事のインスピレーションを受けるために私の教会をくぐる」と言い、そう云う風でなければならぬと言っているのであります。

クリスチャンサイエンスでは「物質無」を標榜し、物質的な方法を用いる医療を不要であると宣言しているのに対して、「医者も教育の門をくぐってその治療法に就いてのインスピレーションを受ける必要がある」とモルガン氏は言って、医者の存在の必要を認めながらも、その医者がインスピレーションによって神の啓示を受け、医療が神の方法によって行われることを希望しているのは、確かに現代科学に一層調和していると認められるのであります。

つづく

      <平成29年5月8日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6216)
日時:2017年05月09日 (火) 21時15分
名前:平賀玄米


       (二)

ヘンリー・ヴィクター・モルガン氏は、最初きわめて貧しい「牧師館」と云う共済機関である貧救院に住んでいた牧師さんで、宗教と云うものは、「遥か彼方の霊界の救い」だけが目的であって,現実世界の貧乏や病気を救うものではなく、宗教と云うものは、「死後の楽しい安息」を確保せしめるためのものだとばかり説教していたのであります。

人生観や宗教観は、その人の現実人生のあり方を左右するものであります。モルガン氏は当時を追想して「私の心は病んでいました。従って肉体も病んでいました」と言っています。

心が病んで、肉体も境遇も病み貧しくなります。心の眼が開かなければ、聖書に書いてある聖癒の事実や五つのパンを五千人に分かって尚十二籠に山盛りのパンが残ったキリストの奇跡はただの迷信に過ぎません。モルガン氏もその当時は「聖書は眞理の本ではなくして迷信の書であると思っておりました。その全ての言葉は神がかりの言葉、狂信者の書だと思っていた」のであります。

稍々信仰を得た後にもモルガン氏は、聖書に書かれている方法で、自分の病気を癒そうなどとは考えてもみませんでした。聖書に出て来る人間は架空の人間ではないにしても、普通の人間ではない。超越的な霊的力を備えた別種の人間だと思っていて、人間の誰にも宿っているところの「生命の泉」に目覚めようとはしなかったのであります。

ところが或る日、モルガン氏はクリスチャンサイエンスの講演会に出席したのです。その講演の要旨は、世の中に重大な事件、不幸、災禍(わざわい)などは存在しない。重大と見えるのは重大だと自分で勝手に思い込んでいるに過ぎないと云うようなことでありました。

モルガン氏はそれには大して感動もしませんでしたが、その講演会後の神癒体験発表会で、無数の病気が、中には医者が見放したような病気さえも信仰で治ったと称して発表する数々の信者の証言をきくに及んで、モルガン氏は「信仰と云うものは、たとえその人の病気が癒っていない時でも治ったように信ぜしめる怖るべき力を持っているものだと心を打たれた」と告白しておられます。

併しその頃の氏は信者の証言をまだまだ本当には信じていない。唯信仰の力によって「たといまだ治っていない病気でも治っているのだとしんじている」に過ぎないと思った位に過ぎなかったのであります。

つづく

      <平成29年5月9日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6233)
日時:2017年05月10日 (水) 13時18分
名前:平賀玄米


その頃、ニューソートの信者である知人が、モルガン氏の貧窮と病弱とを知って、『ニューソートマガジン』と云う雑誌を一部送ってくれました。披いて見ると所々に色鉛筆で傍線が引いてありました。そして最初にモルガン氏の目を射た言葉は、「肉刺(うおのめ)の出来る原因とその治癒」と云う言葉で、読んで行くと、「肉刺(うおのめ)は心の中に浮世は暮らしにくいものだと云う信念を抱いている為に起こる」と云う様な事が書いてありました。

こういう言葉は、生長の家の誌友が読めば、「肉体は心の投影(かげ)だと云うことが判っておりますから、「成る程、そうか」と頷くでありましょうが、「肉刺(うおのめ)を治すのは、その堅い皮膚の一部を切除手術するほかはない」と考えている程度の、当時のモルガン氏の心境では、もうそんなことは馬鹿らしくなって、「読む必要はない」と言わんばかりにその本を投げ出して見向きもしませんでした。

ところが、生憎、「眞理の家」と云うクリスチャンサイエンスの団体の伝道所兼治療所がモルガン氏の教会のすぐ隣に開設されました。その「眞理の家」の開祖は、もとエディ夫人の弟子であった婦人で非常に傑出した人でありましたが、如何なるクリスチャンサイエンスでも氏には我慢出来なかったので、「物質は無いなどという教義が正しいならば物質である空気を吸うことを止めよ、水を飲むことを止めよ、食物を、空気を、水を神の賜として食べるならば、医薬もまた神の賜として素直に頂くべきではないか」と云うような反駁説教を滔々と隣の教会で喋り始めたのであります。

ところ、がその説教を熱心に聴いていた一人の美しい婦人がありました。二年後の或る日その婦人が往来でモルガン氏を呼び止めました。「モルガン様、私は貴方にお礼を申し上げたいことがございます。もっとも、貴方はご自分ではお気付きになっていらっしゃらないでしょうけれども」と彼女は言うのです。

「一体それは何事ですか。」「あの二年ほど前、貴方がクリスチャンサイエンスの反駁説教をなさいましたことがありますでしょう。私はあれを聴いて大変救われましたのです。」モルガン氏はそれをきくと大変嬉しくなったのです。彼女は続けました。

「私、あの時までは大変病弱でした。そしてクリスチャンサイエンスの眞理なんてものに全然見向きもしませんでした。ところが貴方の説教によって、何か或るものがあのクリスチャンサイエンスの中にあるのじゃないかと思いましたので、サイエンスの教会へ往って救われたのです。今ではこんなに健康になって私自身、クリスチャンサイエンスの説教師にならせて頂いているのです。」

何という馬鹿な事だとモルガン氏は思ったに違いありません。そういう事実を見せつけられながらも氏は頑固に永く、クリスチャンサイエンスに神癒を求めようとはしませんでした。しかし、神はかかる事態の進行のうちに、着々としてモルガン氏を「神癒の眞理」に導こうとしていられるのでした。その深切さ、徹こんさ、倦(あ)くなき慈悲心の深さを知らなければなりません。

つづく

      <平成29年5月10日 謹写>  ありがとうございます 合掌。

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6241)
日時:2017年05月11日 (木) 10時32分
名前:平賀玄米


やがて、頑固に眞理に反抗し続けていたモルガン氏はただの虚弱の程度を超えた恐るべき病気にかかったのでした。氏には激しい痙攣が数時間毎に起こって、その度毎に断末魔の様な苦しみを味わねばならなくなったのです。医者は「死ぬか、さもなくば気狂いになる他仕方がないでしょう」と宣告しました。医療の道は全くなくなったのです。

この宣告をきいた時に、氏は今迄色々に聞いていた神癒の眞理に心を傾ける気持ちになったのです
。枕頭の書架の上に、いつか誰かからもらった神癒に関する小冊子がありました。その時、何だかそれを読みたくなったのです。それを貪るように披いて見ると、

「人間は神の像(すがた)に、神そのままの肖像(にすがた)に創造られたものである。だから神に於いてあり得べからざることは霊なる人間に於いても起こり得ないのである。神は病むと云うことはないから霊なる人間も決して病むと云うことはないのである・・・・・」

こう読んで来た一瞬、「人間神の子・無病」の眞理が、深い感動をもってモルガン氏の魂を貫いたのであった。モルガン氏は心の中で独語した――「若しそれが眞實ならば、私にはもう痙攣なんて起こる筈がないのだが・・・・・」「そうだ、もうお前には痙攣なんて起こりようがないのだ!」断定的な確信に満ちた声が魂の底から叫ぶのを氏はきいたのである。

それは全く、氏の、魂の底から目覚めた人間の実相の声だったのである。「それ以来十八年間、その発作にかかった事がない」と1930年12月7日、ワシントン州タコマ市のアウトルック倶楽部で氏は講演しているのである。氏の病気が治った時の年齢が30歳であると仮定しても、アウトルック倶楽部に於ける講演の時の氏は50歳位だと思われる。

それから34年を経た今日では最早氏は84歳位の高齢であろうと思われるのである。私がこれから、氏のディヴァイン・サイエンスの神癒科学を批評的に紹介するのは、主として氏のアウトルック倶楽部に於ける講演に基ずくものであります。

つづく

      <平成29年5月11日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6256)
日時:2017年05月12日 (金) 10時55分
名前:平賀玄米


       (三)

モルガン氏はその病気の治ることによって何を知ったかと云いますと、氏は「パウロの類稀れなる言葉を用売れば『吾が思い求むる凡てのものを』吾々に与え給う普遍力について知らされたのだ」と言っています。

テニスンは「世の人々には夢想だもなし得ない多くの事柄が祈りによって成しとげられる」と言っていますが、モルガン氏は「到底、医者の治す事の出来ない」病気に罹った時、その心が神様の方向へ全回転したのであります。ここに医療を無視するクリスチャンサイエンスに於いて起こる神癒の奇跡の秘密があるのです。

医療は全然無力ではない。適時に適量に適薬を用うるとき大いに効果を奏することがあるのは事実です。その事実がありながらも医療に頼っている間は、その人の魂は神の方へは全転回しないところに神癒の奇跡のあらわれ難い一原因があるのであります。

「神に癒し給え」と祈りながら、一方では「物質よ癒し給え」と祈っている。その祈りは多くの場合純粋ではあり得ない。モルガン氏が医療が完全に彼を見放した時、彼の魂は完全に神の方へ回転して、ひたむきに、神に「至心廻向」したのです。「私は今や深く信じます。あの強い願望に於いて、病を癒す真理の祈りを如何に祈るべきかを知ている何者かの神癒の送念に私は触れたのです。」とモルガン氏は言っています。

「あの強い願望の瞬間」とモルガン氏は言う。魂の奥からの切実なる祈りこそ神に通ずるのです。
この問題についてモルガン氏は『ミューラーの祈りの四十年間』という本と、ハーバート・コリッジ著『母の力』という本を読むように薦めていますが私はまだこの両書とも読んでいません。今後若しその両書が手に入れば、全集の中でその梗概を紹介して見たいと思っています。

つづく

      <平成29年5月12日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6267)
日時:2017年05月13日 (土) 11時27分
名前:平賀玄米


  (四)

不治の病が、忽然と、ただ「人間は神の肖像(にすがた)であるから病気は無い」と云う眞理によって癒されて以来、モルガン氏の眼前には神の可能性の新しき世界が展開してまいりました。

それは全く、キリストを迫害し、眞理に対して目をつぶっていたために盲目になっていたサウロが、眞理を知り、キリストにひれ伏して眼が開け、パウロとなって霊の光り輝く人生を見出したあの時の気持ちが、わかったように思われたのです。

モルガン氏の不治の病が祈りによって癒されたと云う噂が世間に伝わってまいりますと、多くの病人が救いを求めるためにやって参りました。不思議な事には、モルガン氏を癒した眞理「人間は神の肖像であり、従って病気は無い」という言葉の眞理を強く想念したり、その想念に深く没入するだけで、多くの病者の奇跡的治癒が起こるようになったのは、全く日本の生長の家の行き方とよくにております。
その間モルガン氏は色々の方面からクリスチャンサイエンスを研究し、それから多くの示唆を得たのでありますが、それを自分の生活の哲学として受け入れることはできませんでした。

多くの読者の知れる通り、クリスチャンサイエンスは、エディ夫人を神啓の完全なる受領者として、その教義は聖書とエディ夫人の“”Science and Health“”と云う教えの本以外に如何なる他の経典をも認めないで、もっぱら「物質は無い、肉体は無い、病気は無い」と完全に物質の否定をいたします。併し、モルガン氏にとっては現実生活に物質を享受しながら物質は無いと主張する事には、どうしても矛盾を感ずるのです。

吾々生長の家でも「物質は無い」と言いますが、その意味は「物質は物質ではない、それは、想念の反影である」と、物質を否定しながら、それはただ反影としてではるけれどもある段階に措ける存在(実在に非ず)を認めます。

この点「物質なし」と説きながらも、生長の家では尚、科学的合理性を持っているのでありますが、クリスチャンサイエンスは徹底的に、物質の世界から、肉体の世界から、そして病気の世界から、人間の心を「神」の方へ、「霊」の方へ完全転向せしむる方便的力が多いとも言い得るのであります。

それだけ又、近代の科学的世界観を持つ人間から見れば承服し難いものをもっているのであります。ところがクリスチャンサイエンスの信者は、エディ夫人を唯一の神啓の受領者と信じて、「物質無し」を丸呑みにしてしまうのであります。それがうまく丸呑みに出来た人間は完全に霊のみの世界を見ることが出来ますが、モルガン氏にはそれがどうしても出来なかったのです。

氏は
「エディ夫人は、この時代に於ける神の多くの受託者の一人であって、それは多くの旧約の預言者のように、その受けて発表した文書は或る部分は正しいが、或る部分は間違っている。或る部分は、
その出現した時代の精神を反映して説かれるのであって、如何なる預言者も時代を超えた超時代的眞理のみを説くものではないのは、その時代の人々に呼びかける上の必然的結果である」としているのであります。

つづく

      <平成29年5月13日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6312)
日時:2017年05月15日 (月) 12時59分
名前:平賀玄米


    (五)

それは兎に角、モルガン氏の心が光明に一転して、「人間は神の肖像(にすがた)であるから病気もないし、貧乏もない」と云う信念に変化するにつれて境遇の方も変化してまいりました。氏は間もなく牧師の職から退いて、七年間、子供の時習い覚えた商売をして生活しました。

やがて氏はオレゴン州、ポートランドで集会堂を借り受けて、聴衆に向かって、「皆さんが自由だんと信ずる程度に於いて自由は与えられるのであります」と云う人間神の子、本来自由の福音を説き始めたのであります。「神」とは何ぞやと云う定義は色々の方面からも与えられるでありましょうが、その根本を申しますと、神とは「無限自由の本体」だと言うことが出来ると思います。

人間を物質だと観ることはそれだけ「物質的制約」を信ずることになりますから、それだけ「自由だ」と信ずる程度が減ります。従ってこの点から言えばクリスチャンサイエンスのように「物質はない」「人間は霊的存在だ」と物質を完全に否定してしまった方が、科学的合理不合理を超えて、自己の「完全自由」を信念の上に肯定する上に一層強力だと言わねばならないのであります

それはさておき、モルガン氏の「人間自由」の福音伝道と神癒の祈りによって、癒される人が沢山出て参りました。氏は自分の奉仕した仕事に対して何一つ報酬を受けようとはしませんでした。
それにも拘わらず、以前に正規の牧師をしていた時よりもずっと生活が楽になり、経済的に恵まれることになりました。

氏は二年間ポートランドにいましたが、その間に時々タコマとシアトルを訪れました。それからスポーケンに行き、そこからオハマに行きました。そこで氏は教会の副牧師をしていた一人の婦人に巡り遇ったのです。そしてその婦人とやがてデトロイトで結婚の式を挙げました。

シカゴとデトロイトで氏は一年余りにわたり、説教を続け講習会を開きましたが、その後夫婦同伴で太平洋沿岸諸都市を講演行脚し、それからタコマで二週間を過ごし、そこで有名なW・D・ビュカナーン博士の知遇を受け、博士が牧師をしていたパーク・ユニバーサリスト教会で一緒に伝道しないかと勧められたが、それを辞してボストンに帰り、ビュカナーン博士と共に眞理の家を自ら設立し、病む者、悩める者等に対して、説教と祈りの生活を続けていた。
やがてタコマにて聖癒の信仰を布教していたのであります。

つづく

      <平成29年5月15日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6327)
日時:2017年05月16日 (火) 11時31分
名前:平賀玄米


有名な『聖癒のキリスト』と題するタマコ市に於ける講演はその八年目に於ける一九二〇年十二月七日の説教でありました。氏はその当時のことを次のように述べておられます。

「私の説教によって肉体的な治癒が起こる度毎に私は喜びいさんだ。又祈りによって今や肉体的に蘇生(よみがえ)った人々を見るのが嬉しくてたまらなかったのであるが、同時に私が治癒に失敗した場合世間で何と言うだろうかと考える事でも私にとって同じく大切なことなのである。

勿論、私は多くの素晴らしい治験例を残しはしたが、しかし私の信仰によって治そうと試みたが、しかも死と呼ぶ転機に入って行った人々も数多くいる。これらの人々は肉体的に生き延びた人々よりも或はもっと大きな救いを得たのではないだろうかと私は思うのである」と。

と云うのは、モルガン氏の最愛の妻は、一九三一年の十一月、氏の深き聖癒の祈りにもかかわらずこの世を去ったのである。こういう事は日本でも治病宗教といわれている天理教や金光教などにもよくあることである。二千年前、ユダヤの民衆が、十字架にかかったイエスを嘲笑って、「他を救いてみずからを救い得ざる者よ」と言ったような皮肉な冷嘲が、周囲の不信仰者から浴びせられ勝ちなものである。併し、現実世界は魂のある期間の仕事場に過ぎないのである。

その期間が過ぎればその魂は神様から霊界への転任命令が来るのである。転任の命令が出ているのに、その人を現実の世界に引きとめて置こうと思ってもそれは無駄のことであり、どんな大信仰家が祈ったとても、それは効を奏することではないのである。

モルガンの愛妻は、この世を去るにのぞんで、良人に次のように言ったと云うことである。
「貴方が遠くに旅行なさいます時は、いつも私は、貴方の直ぐおそばにおりましたわね。永久に私は貴方のおそばにいる事でしょう。私に用事がありましたら、呼んで下さい。でも本当に私に用事がある時でないと呼んではいけませんよ。私には、伝道のためにまだまだしなければならない仕事が山ほどあるんですからね。」霊界に旅立ってからも、尚、伝道の仕事がある。何という健気な自覚であり、光明の思想でありましょう。

モルガン氏は言う、「教会の偉大なる仕事とは神の救いの力が肉体にも魂にも霊にも偏在するというキリストの教えを説くことであります。我々の眼は永遠なるものに向けられねばなりません。
吾が崇高なる使命は天国に人を導く事であります。

割拠主義は排斥せられなければならない。貧窮は除去され、闘いは不可能ならしめられねばならない。かくしてこそイエスの見給うた天国の成果は現前され得るのである。」と。「割拠主義は排斥せられなければならない」と言う――ここにディヴァインサイエンスの万教包容的な性格があらわれているとも観ることが出来ます。「闘いは不可能ならしめられねばならない」――ここにすべての宗教が諧和して互いに平和に手をつないで一つの神を信仰するようにならなければならないと云うディヴァインサイエンスの理想が有るとも言えるのです。

「貧窮は除去されねばならい。」――実際、モルガン氏は、「人間神の子」の信念を得て以来、自分の病気は癒されるし、別に一定の俸給を受けるというわけではなかったが、もう貧乏ということを
知らなくなったと述べているのであります。

つづく

      <平成29年5月16日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6353)
日時:2017年05月18日 (木) 16時46分
名前:平賀玄米

 
     (六)

    ◇神言い給いけるは、我らの像の如くに我ら人を造り――創世記
 
人間は神の像(かたち)の如く神の肖像(にすがた)として創造られた。これがディヴァインサイエンスの聖癒の原理なのであります。もし神が吾らの父であるならば、父のみ心にある凡ての性質は子の内にも内在していなければなりません。

他の天体から来た智能すぐれたある生物が、地球の上には宇宙の神の像に似せて象(つく)られた人間が住んでいる筈なんだが、と告げたと想像してごらんなさい。この生物は何と考えるでしょう。
この生物は地球に来て何を見ると予想していたでありましょうか。

神の像に似せて創られたるこれら神の子だちが、病み、乏しく、不幸に、相争う姿をみて、この生物は何と驚く事でしょう!「こんな男や女が神の理念の表現である筈がない!」と彼は叫ぶ事でありましょう。

たしかに吾々は、吾々が一体何者であるかと云う事を知っていないのです。神の像が表出されていないのです。人間は未だ創造られつつあるのであります。吾々は無限の宝庫を持ちながら、しかもそれから何物をも引出していないのであります。吾々が肉を征服し、自由を勝ち得るのは、ただ吾々が神の姿なる人間本来の面目を観じた時に於いてのみであります。

川は源より上には流れ上がることは出来ません。人間は本来彼があるもの以外には成り様がないのです。しかもこの人間自治王国の肖像こそ人間自身の魂の内部にあるのであります。

主の力は現実化を通してのみ発達し得るのであります。「静かであれ、而して自己が神である事を悟れ。」高揚せんとする魂に対して、眞理の声はかく絶えず囁きかけるのです。父に於けるが如く子もまた同様にあるべきを、吾々は心から悟らなくてはなりません。そして吾が内部に神の子としての、キリストと兄弟としての素質を受け継いでいることを謹しみ悟らなくてはなりません。

これが凡ての正しい考えの基礎となるのであります。心の奥底に神のみ姿の眞理を深く深く瞑想する人は知らず知らずのうちに力の流れに触れているのであります。彼の考える通りに彼は表現する事ができるのです。神を想う事は力を悟る事であります。神を真似る事その事がキリストの道に到達する事なのであります。

イエスが「我と父とは一体なり」と言い給うた時、彼は凡ての人の子たちに主たるの秘術を啓示し給うたのであります。我らは吾らの瞑想する通りの者になるのである。この眞理を知る事は何という素晴らしい事でしょう。

つづく

      <平成29年5月18日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6359)
日時:2017年05月19日 (金) 14時21分
名前:平賀玄米


パウロは「吾々が凡て、鏡中に映像を見るが如く、主の栄光を思い看(み)つめるならば、吾らの姿もそれと同じ姿に、次第に栄光を増しつつ、あたかも主の霊によって導かるるが如く変貌され行くのである」と、恰も科学者の如き態度で言っております。


癒す力の秘密は、凡ての人に神の像(かたち)の存在する事を知り、かつ行ずる点にあるのであります。神は無限の力である、それ故吾らもいと高き者の奥伝に住むならばかくの如き無限の力が与えられるのであります。人間に力を与える方法は人間に神の内在せる事実を知らしめる事であります。かくして希望を成就する事が出来るのであります。
 
この信仰さえあれば不可能と云う事は何処にもないのであります。神の生命(いのち)吾が身体の全細胞にみなぎりわたると悟ることが即ち吾々の肉体を健康ならしめる所以なのであります。

この考えに則って生活せよ。さすれば神の全能はあなたのすべての行為と言葉とに漲りあふれるでありましょう。あなたは自分の支配する想念によって生気溢るるばかりになるでありましょう。
あなたは神性化され、あなたの言葉や想念は創造的な力を持つに至るでしょう。

貴方は父なる光と直結し、その光に照らされて、暗黒は消尽するのです。貴方が近づくのみで病は癒えるのであります。貴方は他の人々に、凡ゆるものを可能ならしめる神の力を呼び覚まします。神は今此処にあってすぐにでも利用し得る力なのです。

父は常に父を認めている凡ての人々の背後に立ちて守り給う。それはもはや自分ではなくして父そのものなのであります。――永遠に神の理念に霊示されたる魂を讃え歌う父そのものなのであります。

つづく

      <平成29年5月19日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6376)
日時:2017年05月20日 (土) 22時03分
名前:平賀玄米


           キリスト教徒の新しき声

 その後われ吾が霊(みたま)を一切の人に注がん。汝らの男子女子(むすこむすめ)は予言せん、
 汝らの老いたる人は夢を見、汝らの少(わか)き人は異象(まぼろし)を見ん。

今こそ完成の秋(とき)であります。吾々は偉大なる精神的甦りの真っただ中にいるのです。しかしその全貌は目に見える姿としては表れ出ておりません。その働きは熱狂的な讃歌や、眠気を催す様な祈りのごちゃごちゃした寄せ集めによって行われるのではありません。その成果は会葬者のベンチに座り、罪に泣きぬれ、或は突然恍惚たる感情に見舞われれて狂乱している様な群衆ではありません。

今目覚めつつある悟りは、むしろ眞理の霊の静かな低い囁きが人間の魂に智慧にはなしかけているようなものであります。その例証は、熱心にいのちの眞理を研究しイエスキリストのみ心を理解しようと努める人々に見出すことが出来るのです。その成果は人生観の転回であり、安心立命であり、永遠不壊の信仰であります。

それが宗教の眞理であり、愛と理性のいとし子なのであります。天国は現前せりと宣言します。
天国は手を延ばせば届く所にあり、入ろうと思えばいつでも入り得る、救いは死後にあるのではなくて今既にあるのだと宣言します。それがキリストが人の子に与える新しくてしかも古い福音であります。

眞理の霊は来たり、凡ての人に人間は無限の力の後嗣者(あとつぎ)であると云うことを開顕しているのであります。その御業は失敗する事を知らず、又誰一人として除外することとてはない。
それは病める人の耳に無限の健康の祝詞を囁きかけ、「汝は神の子である、而してキリストの兄弟である」と人の子に告げるのであります


眞理の霊は凡ゆる人間に名づけ難いが或る神秘なるものが内在することを知っていて、それに対して喚びかけるのです。眞理の霊の標語はただ、目覚めよという事だけでなのであります。

それは催眠術にかけられた者を目覚ましめ、家の用心棒を自由に解き放つので、従ってもう泥棒はその家の中に入って来て家具を破壊したりする事が出来なくなるのであります。例外もなければ、依怙贔屓もありません。眞理の霊(みたま)の訪れは、誰でも自分でそれを望む者の所に来るばかりでなく、あなたの望む誰の処へでも来るのであります。

眞理の霊は常にかく言うのです。「見よ、私は戸の外に立ちて戸を叩く。扉を開く者のところに我は入らん」と。

病める者にはこう言っているのです――我は汝の病を凡て癒さん。敗残者に対してはこう言うのです――我は勝利なり、諸君、頭(こうべ)をあげて悦び叫ぶべし、もはや失敗などについてゆめ思う勿れ。今、救いは汝の家に訪れ来たり、悲しみを喜びに変え汝に与えんと。

疲れ果てても尚孜々として努むる人々に対してはかく言うのです。我は天才の声なり、我は凡ての知識を持ちて子たる人の心を天界の燄(ほのお)にて洗礼せん。我は久遠の声なり、我に来たれ、さらば汝に人々の心に火を点ずるものを与えん、我は霊感の泉なればなりと。

つづく

      <平成29年5月20日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6383)
日時:2017年05月21日 (日) 15時59分
名前:平賀玄米


眞理の霊は宿命的な才能の欠陥などは説かないで、如何なる人間にも発達を齎す輝かしき法則を宣べ伝えるのです。それは永遠にこう言っているのです。――汝は汝の欲する如く成り得るなり。
汝のものは何一つ失われる事なく、取去られる事もなし。吾を信ぜよ、さらば汝の心に描きたる夢は成就されん、と。

失意に沈む人にはかく言うのです――看よ、吾れ総ての事を新たなっらしむるなり。汝の失望せるは「吾」を知らざりし故なり。汝は汝の本性を未だ知らず、吾は汝の内に宿るものを知る。汝は恆に汝の我の見解に従いて敗北せり。汝は形ある師の教えを信じたり、汝は衆の言葉を信じて迷路に踏み迷いしなり。吾は直覚の声なり、吾は汝の魂の魂なり、アブラハムの昔より吾はあるなり。

眞理を求むる科学者にそれはこう言います。吾は眞理の霊なり。汝を導きしは吾が内なる衝動なり。
眞理こそ吾が言葉にして、汝の吾に近づくにつれてより深き眞理に汝は導かる。汝の発見(みいだ)す凡ての事実は吾が證なり。自然の法則と呼ぶものは吾が存在の属性なり。自然法則の奴隷となるなかれ。汝もし吾れを識らば自然は汝の忠実なる僕とならん。

世界のあらゆる聖典により眞理を求むる人々に眞理の霊はこう言うのです。汝の聖書の句を究めよ、その中に汝は久遠のいのちを見出さん。それらは吾を證するものに他ならず。若し汝が聖書の句を究め、吾が汝自らの胸の内に深く深く潜めるをしらば、汝幸いなるかな。吾を見出せ。さらば汝は汝自らの聖書を書かん。

貴方は何処に住んでいるのですか。如何にして私は貴方のお側に入る事が出来るでしょうと問う求道者に眞理の霊(みたま)は言うのです。吾は求道者の求むる道の精髄なり。吾が住まいは汝自身の心の中にありと。

かくてキリスト教の新しき声はいと高き者の奥殿――内在の神に到達するのであります。即ち新しき天と新しき地が顕現し来たるのです。あなたは新しき舌で語ります。そしてあなたがいと高きものの力を以って身を装うその時、實にその時にほかならないのです。その時あなたはイエスを理解します。

そしてイエスの下に「吾は在りてあるものなり」(I AM)と宣うた實在が肉現していたことを認めると同時に、あなた自身の名をもってまた「實在なる神」が顕現し働いていて下さる事を知るでありましょう。

かくして貴方の語る言葉の力を信ずるに到るのでありましょう。何故なら語る者はあなたではなくして、あなたに内在する「父」であることを悟るからであります。かくの如くにしてあなたが手を病める者の上に按くときには、病める者は癒されます。何故なら、あなたの中に働く久遠の力を貴方が認識することによって、病者を支配し彼らを虜にしていた死と黄泉の鍵があなたの手中に与えられるからなのであります。

つづく

      <平成29年5月21日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6400)
日時:2017年05月23日 (火) 21時48分
名前:平賀玄米

 
          (七)

モルガン氏のディヴァインサイエンスではイエスの処女懐妊を如何に見るか。それは、かのユニテリアンの思想によく似ているのであります。イエスの処女懐妊の神学的教義は、吾々もまた自己の中に「本当の自分」として、聖浄不穢の神の子を宿しているのであり、永遠に父の御胸に抱かれているのである、そして苦しみ悩める「有限者(モータル)」と一体なのではなくて、實相の天国の静安の褥(しとね)にほほ笑みながらのびのびと横たわる無限者と一体だと云う意味の象徴だと言うのであります。

モルガン氏は、「聖書は實に読む人自身の歴史なのであって、その一々の頁を研究することは吾々自身の本性を研究することであり、到達すべき人間理想の最高所をみることなのである。吾々は何も、イエスがその奇跡的な妊娠と誕生の故に何か人間以上のものであると主張する人々と論争するのではない。

ただ普通の自然的秩序に於ける出産も同じく神聖受胎なのだという事を指摘して、凡ての婦人が自分の子供を神の子が宿ったと認める日の来たらん事を祈ってやまぬ」と言っているのであります。 

    かくて荒野に新しく花咲いで
     まことにも天地(あめつち)は一つに融け結び
     愛は諸人にあまねく治(しろ)しめし
     ひとびと凡ての悲しみより解き放たる

まことにもこの聖歌のように、自覚と共に如何なる荒野にも花が咲き出ます。聖母マリヤの聖霊受胎の意識がどれだけイエスの心に影響を与えたか判りませんが、次の事だけは確かであります――イエスが彼自身の自覚の中に神聖受胎を意識し、彼自らの魂の中に神の声を聞くまでは、彼はこの神聖受胎者として自覚から来る力を賦与されはしなかったのであって、必ずやさもあるべき事であります。

吾々に力を賦与するものは吾々の父母の想念ではなくして、吾々自身の想念によるのです。如何なる想念と雖も吾々がそれを心に深く認識するまでは、その想念は吾々に役立つ如く働きかける事は出来ません。

人間についての眞理は明白に聖書の中に述べられております。人間は神の子であり、神の像(すがた)に象(かたど)られているのです。放蕩息子の物語の中にイエスは美しくもこの概念を引用し給うておられます。父の家から出て行った放蕩息子は、父と離れていましたけれども、家に残っていた他の息子と同じくやはりその父の子供だったのです。

凡ての人々に、凡ての人々が神の子達である事を知らせる事がイエスの使命でありました。そしてイエスが病を癒し、悪魔を追い出し、死せる者を起たしめたのは、「神の子」としての「人間理念」の彼に於ける受胎が、彼自身の人格の中に肉体として具現したからなのであります。

つづく

      <平成29年5月23日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6422)
日時:2017年05月25日 (木) 16時26分
名前:平賀玄米


メンタルサイエンスやディヴァインサイエンスや生長の家の如き宗教の出現しつつあるのは、吾々の時代に於いて、この人間が霊的実在だと云う理念が再び人間に懐妊され、誕生して来たと云う事であります。古き宗教は滅びんとしつつあるのです。

キリストの名を称しながら、思想に於いても目的に於いてもキリストの抱懐した霊的人間の理念とはかけ離れていた宗教は地上から消滅しつつあります。だが本当のイエスの宗教は決して滅びない。その霊的人間の理念は不滅であります。それは神と共に永遠なるものであります

イエスは言い給うた、「わが国はこの世の国にあらず」と。それは絶対至福、絶対健康、絶対平和の世界であります。そしてイエスがペテロの剣を奪い去った時、彼はすべての兵士から武力を解き放ったのであります。イエスは愛の力が武力に勝ることを証明されました。かくして聖霊のいのちを生くる凡ての人々の点燈者となり給うたのであります。

イエスは、彼にとっての眞理は同じく凡ての兄弟姉妹たちにとっても眞理であるということ知っていました。イエスは如何なる人でもその人が同じ理念に生きる限りイエスと同じ働きを為し得る事を知っていました。その意味に於いて、イエスは一切衆生悉有神性信者でありました。

ここにキリスト教が仏教と一つになれる根本眞理があるのです。弟子達が癲癇の悪魔を追い出す事が出来なかった理由は弟子達の不信仰によるのであると、イエスはいとも明確に彼の教義を述べ伝えています。何に対して不信なのであるか。確かに神を信じなかったのではない。何故なら彼らはユダヤ人であったからです。又イエスを信じなかったのでもない、何故なら彼らは凡てを捨ててイエスに順った人々であったからです。

彼らの失敗の原因は、彼ら自身とイエスが父と呼び給うた内在の力との関係を正しく理解していなかったためである事をイエスは知っていたのです。即ちイエスの生きていたその信念の中に生きない限り、イエスのなし得た奇跡を彼らは為す事は出来ないのであります。それではイエスが「父」と呼び給うた神と吾らは如何なる関係に於いて自己を認むべきであるか。それは自分を「人の子」としてよりも寧ろ「神の子」としての自覚によってしなければならぬのです。

さきに紹介したハードマンの神学が治病の奇跡を現すのもこの「自己内在」の関係に於いて神を認めたからであります。精神科学のこの問題についてはイエスは至上命令的でありました。人間は肉の子ではない。「人の子は地上に父を求むる勿れ、一つなる汝の父天に在(いま)せばなり」と。

つづく

      <平成29年5月25日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6488)
日時:2017年06月01日 (木) 17時49分
名前:平賀玄米


又宣わく「我れ自らにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為せしめ給うのである。」と。この自覚を持てば、いと高き者の能力が人間に発揮せられ、その明かなる証拠を把む事が出来るのであります。吾々は自分自身を人間の父と自己同一だと考えている限りに於いて、我々はいつまでも肉の制約の中に生き、人間の病いを家督相続するほかはなかったのです。

人間的な遺伝の圧迫から逃れ出る方法をイエスは指摘しておられます。即ち、弟子たちが来て「主の母、主の兄弟在さず」と告げた時、彼はかく答えました。「我が母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞ」イエスは手を弟子達の方に指し伸ばし、「看よ、わが母なり、わが兄弟なり」と言われました。万人に「父」やどり神の生命が宿っていると云う意味です。

キリストの眞理を生きる達人となろうと欲する人はイエスとその立場を同じくしなければなりません。彼が吾らの父と云う場合には、彼は、人間が神に付与した全ての力は同時に人間に伝えられていると悟っていたにちがいありません。ヨハネ福音書の中でこう言っています。「言(或は想念の波)は肉体となりて吾らの中に宿り給えり。」それは永遠に変わらぬ眞理であります。

凡ての想念はその同じ種類のものを生じます。肉体は実に、結晶せる想念であり、心に起こった全ての概念を反映します。吾々がこの眞理を悟り、その輝かしい意義を理解するならば、吾々は詩人によってうたわれた「天国の華麗なる邸宅」を現実世界にも建設し始めるでありましょう。

罪無き聖霊の受胎であるという自己意識のみがイエスの言う神人(ゴッドマン)を創り出すのであります。イエスはこう言っています。「かれら病める者に手を按かば、乃ち病い癒されん。」ニーチェの予想した超人とは、あなたの後に来るものではなくて、既にあなたに内在するものなのであります。

まことにも超人こそが、凡ての人間の中に内在せる眞の人間なのであります。そしてあなたがこれを知り、もはや外観に惑わされることなく、永遠なるものを凝視することによって、「常に移ろう現象」の影の背後にある實相に貫き入るを得るとき、その時にのみ、あなたは癒しの言葉を語り、実際に行に於いてキリストの眞理の実践者となる事が出来るのです。

かくてこそ、イエスの言い給える「吾が為したる業を汝らも為し能うべし」という奇跡が実現するのであります。

つづく

      <平成29年6月1日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6500)
日時:2017年06月02日 (金) 17時07分
名前:平賀玄米

          (八)

「爾(なんじ)に宿るキリスト、宿り給えり。そは久遠栄光の希望なり。」みなさんはこの言葉が一体何を意味するのか充分に考えて見た事があるでしょうか。
これらの言葉を繰返し心のうちに瞑想して御覧なさい。突然新しい意味が啓け、その眞理の力によって全身を震撼せしめられるような経験が生まれて来るに到るでしょう。そしてその時、あなたもイエスの偉大なる仕事を、或はそれ以上偉大なる仕事を成し遂げる事が出来る力を発揮するに到るでしょう。

イエスは彼自身にのみあって他の人に共通に存在しない様なものは何も要求しませんでした。彼は自分を他の人間と同一視した、そして彼は人の子なるが故に必然的に神の子であるという事を知っていました。イエスはこれ以上の何者でもなく、又彼の兄弟たる吾々もこれ以下の何者でもないのであります。

イエスは信念の効果を理解していました。人間は心の中で思う如くその外的状態に現れてくるという事を知っていました。一人の人間にとって眞實である事は、凡ての人間にとっても潜在的に眞實であるという事を知っていました。

かくの如く彼は魂の科学者であり伝道者であったのであります。
多くの年月の間に、幾度かの運命の流転を通して吾々の天体には傑出せる人々が出現致しました。超自然的な力を持っていると考えられた奇妙な神に似た男達――自然界も彼に素直に従ったような男達。凡ての宗教の歴史はこれらの人々の仕事を説明しているにずぎません。

彼らは一見奇跡的と思われる力によって病者を癒し、死者を蘇生らせました。ヘブライの預言者達は未来を予見する能力者でありました。如何なる近代心理学の業績も預言者一派によって成し遂げられた仕事を凌駕することは出来ないでしょう。

つづく

      <平成29年6月2日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6525)
日時:2017年06月03日 (土) 17時30分
名前:平賀玄米


読心術は、預言者達にとっては、彼らが王様や顧問官の心を読み取る事が出来た事実に見らるる如く、まるで開いた本を読むように容易に心を読み得たのです。透視もよく知られた事実で実際によく行われました。病を癒す事なぞは彼らにとって日常茶飯事でありました。かかる預言者達が一種の相伝系譜をなしていたと云う事実こそ、彼らがその顕示した神の力を用ふるに当たっては注意深い訓練と実修とが必要であったことを悟っていた事を示すものだと言えるのであります。

メンタルサイエンスや、ディヴァインサイエンスや生長の家の偉大なる発見は、これら預言者達の引き出した力が全人類にも利用し得るちからであり、昨日も、今日も、明日も同じく永久不変なる力であると云う事の発見であります。凡ての神の法則のように、それは人によって時代によって場所によって依怙贔屓のあるものではなく、不浄な、神と調和せぬ心を排除して、神の道具となろうと欲する全ての人々の発揮し得る力なのであります。

この古くから知られている驚嘆すべき力を発揮せる模範者が新約のキリストであります。ディヴァインサイエンスでは神秘力の発揮者をイエスの独占とは見ないで、イエスの模範に従えば吾々も亦
発揮し得るとするのです。パウロが、「汝に在すキリスト」と言っているのは、ナザレのイエスを通して働き給い彼を通して凡ゆる病いを癒し給うた神の強き力をそれなくしては何事もなし得ないと彼が言ったところの神の強き力を指しているのであります。

パウロは、このキリストの力はイエスの最も賤しき弟子にさえも主と同じく活用し得る力なのだと指摘したのでありました。
これこそ眞のキリスト教が世の人々へ贈る偉大なる教書なのであります。これは現在心霊科学を信ずる人々に顕れている奇跡であり、それは又現代宗教についての考え方を変革しそれを光輝あらしめているものでもあります。

つづく

      <平成29年6月3日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6546)
日時:2017年06月05日 (月) 16時38分
名前:平賀玄米


         (九)

以上ディヴァインサイエンスの解説によって吾々は、キリストの力はイエスのみ特有なものではなく、キリストだけが、その力の受霊者ではないのだと云う事を知り始めました。メンタルサイエンスやディヴァインサイエンスは、そのサイエンスたる名称に恥じない様に、丁度化学研究生が化学教師に対する様な態度でイエスを見始めたのであります。

化学教師は生徒達に、自分の権威を振るって、かく信ぜよと強要したりは致しません。若し生徒が、ある物質と物質とを混ぜ合わせると時にはある特殊な結果が出るかもしれないと云う疑問を持つならば、化学教師は腹を立てて、「私の言う事を信じるんだ!この馬鹿野郎!」などとは言わないで、「では、実験室へ行って実験してみようじゃないか」と言うでしょう。

同じ様に、吾々キリストの学校の生徒たちが先生に尋ねるならば、先生は、「私に出来る事は貴方にも出来る」と答えるでしょう。そして吾々が内なるキリストを悟った時、はじめてイエスが吾らの兄であり、生きとし生ける者の最年長者であるという事実を見出すのであります。

「内在のキリスト」についてホイットマンは次の様に言っています。「あなたはあなたが何者であるかを知っていないのである」と。この力にカーライルは目覚めました。そしてこの力が人生を変貌せしむる影響力をば驚嘆しながら永劫の肯定の中で述べているのです。

「このキリストはイエスにとって現実のものであった如く、貴方にとっても現実のものたり得る、そして若し『内在のキリスト』を信ずるならばイエスの為したる事は凡て、否それ以上の奇跡が成し遂げられるのです。この事実を悟る事、それは何と驚嘆すべき偉大なる発見ではありませんか。」と大胆にもモルガン氏は言っているのです。

イエスは自分自らはヘブライの預言者達の欲しない認めない様なことは何も主張しようとはしませんでした。彼は、神が「我儕(われら)に象(かたど)りて我儕(われら)の像の如くに我儕(われら)人を造り」と言ったと預言者達が伝えている事実をそのまま信じ伝え、行じたのです。

彼は長い年月の間にこの驚くべき言葉を瞑想し続け、遂にその言葉は現実となってあらわれ、彼が人の子である如く必然的に神の子であるという意識に到達したのであります。

輝く霊的自覚の高所に登ろうと欲する人は、「本当の自分」は何物の制約を受けるものでもなく、また有限な物でもなく無限に永劫より永劫に存続するものであるという事を彼の理性が確認する迄、どこまでも悟性の判断を突き詰めて行かなければならないのです。

キリストを自覚すること、神と一体也と悟る事は最も高い人格の完成であります。他の凡ての知識をいくら獲得しても人間はそれによって満足する事は出来ませんが、この眞理を悟った時、はじめて深い満足を味わう事が出来るのであります。

それは魂を単なる希望以上に翔けのぼらしめ、悟りにまで高揚せしめます。それは何よりも第一に、凡ゆる生命と想念との本源なる創造的力とあなたとを個人的に確(かた)く結縁します。かくしてあなたの實相は実現し、不完全な仮相は消滅するのであります。

つづく

      <平成29年6月5日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6574)
日時:2017年06月07日 (水) 15時21分
名前:平賀玄米


       (十)

吾々があまりにイエスを尊敬し過ぎる事は、往々にして吾々自身を神から分離せしめる結果となるのであります。イエスの外形のみを真似る事は吾々自身の内にキリストと同じ精神を持っていないと承認する事であります。ふと立ち止まり、そして「イエスなら何とするであろう?」と考える事は、既にイエスの精神から離れているのであります。あなたがその人と同じ心を持っていなければ、その人が何をしようとしているか知る事は決して出来ないし、もし同じ心を持っているのなら、そんな事を今更聞いてみる必要はないのです。

イエスは常に弟子達をして彼らの内に内在せる神と対面せしめようと努められました。弟子達がイエスに頼る心を起こした時、イエスは言いました―――「我れ逝くは汝等にとりて宜しきに適えるなり。」心の中なる神の聲は永遠に変わりません。それがあなたをあなた自身たらしめるのです。

「あなたにキリストが宿るという事は、キリストを模倣する事ではなくして、キリストとその完全さを競う事なのです。かくしてあなたは自己の主人公となり凡てを支配する事が出来るのであります。」とモルガン氏は言っています。

かくてこそ眞の民主主義の宗教的信仰となるのであります。それは孤立ではなくして、結合であり、独立であります。それはあなたを凡ての者の主人公とすると同時に凡ての者の僕たらしめるのです。あなたにとっては身分の高下はない、凡ての人はあなたの同胞であり、凡ての人々は、多かれ少なかれあなたの持っている性質を体現しているのであります。

つづく

      <平成29年6月7日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6587)
日時:2017年06月08日 (木) 16時00分
名前:平賀玄米


イエスがキリストであると信ずるだけでは充分ではない。イエスはあなたが成りたいと欲する事を成就せしめる方法を教えることによって無価(むげ)の宝珠を与えてくださいました。あなたがイエスを敬慕するそのイエスの持つ特性は同時にあなた自身の持っている特性である事を記憶しなければなりません。

これは魂の本質の認識であり、そしてその認識は魂の光輝への一階梯であります。モルガン氏はそれを説明するの次のような例をあげました。あなたの隣人が彼の農場の中に油井(ゆせい)を発見しました。あなたはその油を分析してみて、あなたの農場の土壌や岩石の性質が彼の所のと全く同じである事を発見しました。あなたは嬉しくて仕方がありません。

何故なら、自然は裏切らないと云う事を知っているからであります。かくて一所懸命に掘り始めました。その努力の甲斐あって、油が発見されたのでした。この場合あなたはその隣人の影響で希望を持ち勇気づけられました。かくてあなたの隣人はあなたに対して偉大なる貢献をした事になります。

しかしあなたの農場に湧き出た油は隣人のものではありません。それはあなたのものです。それと同じ様に、イエスもあなたにあなたの持つ特質の宝庫を教示することによって非常なる貢献をして下さいました。彼は自らの実例を示す事によって、あなたが自分自身の内に内在する神を信じ、自信をもって勝利の栄冠を獲ち得る如く指導してくれたのであります。これは巧みな譬喩だと思います。

キリストの顕現し給うた神癒の力は世界史上無敵であります。世界史は、貴方にも私にも内在するもの(神性)を眞に活かした一人の人間イエスによって書き更えられたのです。あなたが如何なる人間であろうとも、この眞理は、あなたの弱さを変じて強さに化する力をもっています。

あなたがこの力の遺産を忘れる時、線路上の電車が電流を絶たれた如く、無力無能な邪魔者と化してしまいます。イエスの模範なしには人間は自己神性の自覚の下に於いては何程の可能力を有つかを悟ることが出来なかったでしょう。しかしあなたはイエスの模範によって悟られる。

かくてイエスと同じくあなたが偉大性を内部よりして求むる様になった時、その時にこそあなたは凡てを可能ならしむる心霊力を始動せしめるのです。御意のまにまにあなたは無限の海洋のような大きな神の力を駆使する事が出来るのです。

つづく。

      <平成29年6月8日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6619)
日時:2017年06月11日 (日) 00時27分
名前:平賀玄米


        (十一)

内在のキリストは恒に全能なる神の言葉で囁きます。このキリストを意識せる者は、何によらず「しなければならないけれども出来ない」などと云う言葉を決して口にしません。「私はキリストによって凡てが可能である。」この言葉こそ不変なる眞理の霊の聲であります。しかもこの意識には少しの傲慢の分子も混入していません。むしろ、自分が謙虚にキリストの霊を受容れたのであります。

「内在のキリスト」を深く自覚したある人が言いました。「内部より、背後より、光は私を貫きて、全てのものの上に輝き渡り、知らせてくれるのは、吾々は無であり、光が凡てであると云う事だ。」と。何という謙虚なる自覚でありましょう。イエスは常に根本眞理に基づいて話していました。だから常に権威ある者として説く事が出来たのです。彼は喜んで自分が「人の子」である事実を語りました、自分が人間性を表象している事を知っていたからであります。

彼の意志は神の意志を行うという事でありました。彼の驚くべき奇跡を成し遂げ得る能力に対しても個人的な自惚れは少しも持っていませんでした。それは、「父吾れに在り、父御業を為し給う」という事を知っていたからであります。


電気技師は彼が工事した配線の結果素晴らしく明々と灯のともった大建築を見ても、ただ彼らが電流を如何に取扱ったらよいかを理解していたという以外には、大して自慢する様な事はありませせん。これこそ古来変わらざる眞の科学者の態度でなくてなりません。科学者の誇るべきは、彼の法則を理解しているという事のみであります。
彼は、法則は人間としての尊崇とは別のものであるという事を知っています。だから決して彼が原理を理解していたと云う事を、彼の人格を混同したりなど致しません。

イエスが「我が為したる業を汝らも為すべし」と言い給うた時、彼は凡ゆる時代を通じての科学者達と同じ立場を取っていたのであります。彼が物質的諸条件の上にあらわした様々の奇跡的行跡は、吾々も亦繰返して行い得るものであると知った時、それらは人類にとって、評価し得ざる無限の価値を持つものとなったのであります。

エジソンが、人間は電気科学の面で如何なる事を為し得るかその実績をもって例証して、凡ての電気科学徒にとっての霊感的存在となっている様に、イエスは、人間の魂の何たるかを理解し、その能力がいかばかりかを理解せんと求めている人々に対する霊感を注ぐ存在となっているのであります。

もしエジソンが電気学校を開設したならば、進んで入学して来る者は何もそこへ行ってエジソンを研究しょうと思っているのではなく、彼の科学体系と科学の方法を研究しょうと望んでいるのです。エジソンは電気の原理を理解している事を実証した、だから学生達はエジソンが自分達をもその不可思議な力を理解出来る様に指導してくれるだろうと信ずるのであります。しかし一方、ある学生は電気科学については何も知らないで、エジソンの人となりについての研究に一生を捧げるかもしれません。

つづく。

      <平成29年6月11日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6683)
日時:2017年06月16日 (金) 11時27分
名前:平賀玄米


ディヴァインサイエンスは一種の科学であります。エジソンが自然科学界の先覚者である様に、又ベートーヴェンが音楽界の偉人である如く、イエスは心霊科学の心の分野に於ける先達と見るのであります。イエスは吾々が「キリストの力」と呼ぶ不思議力の働きを理解していました。

丁度電気という力が自然界にある如く、「眞理(キリスト)」という力が心霊界に存在します。イエスはこの力を働かす知識をもっていた、そしてそれを伝えるべく一教派を打樹て、いのちのキリスト学を来たり学ばんとする者には誰にでも呼び掛け給うたのであります。

イエスは人間我の尊崇者ではありませんでした。彼は洗練された教養のある者に向かって呼び掛けはしませんでした。彼はただ自ら善しと云う者を排撃しました。彼のパリサイ排撃は専断的なものではなく、又偏見的なものでもありませんでした。幼な児の心になる事が神の科学を理解する一つの根本的条件であります。イエスは生徒達に、自力で何事かを成さんとする方法を教えはしませんでした。如何にして神の萬徳円満さに充たさるべきかという事を教え給うたのであります。

山上の垂訓の最初のことばこそイエスの科学を解決する鍵なのであります。「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなればなり。」求道者が自ずから進んで宇宙の霊にふれ、自らの我の力では何事も為し得ない事を知るまでは、彼はいたずらに迷妄に執するのみでありましょう。それは、あたかも銅線が、他のハリガネが電気を通じて光をともしているのを見て、自分も電気を通ずる事が出来るのだと信ずる様なものであります。

そのように、教会に行き、祈りを繰返し、イエスの御名をとなえて十字を切るひとでも、キリストの力、この世の凡ての者を照らし給う眞の光については何事も知らない人が多勢いるのは情けない事であります。

つづく。

      <平成29年6月16日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6686)
日時:2017年06月17日 (土) 12時31分
名前:平賀玄米


人間は過去に於いても現在に於いてもそして未来永劫に神の子であって、この眞理を知る事が彼を罪から病から死から自由ならしめる方途であるという事を、イエスは知ってい給うのであります。人間は神と離れて生命はない、凡ての病を癒すためには神を知る事が必要である、かく知り給うたのでありました。

エマースンはこう言っています「至誠心をもって神に至心廻向する最も心の貧しき人こそ、神と成り得るのであります。」イエスが心の貧しき人々を彼の最初の門弟として選んだのも不思議ではありますまい。彼らは心の貧しき者であり、自分達の持っている自然治癒力について誤った自負の感じは持っていませんでした。

しかしこの様な立派な資格を持った人々でさえも「感覚」から離れて「實相」へ透入する進歩はまことに遅々たるものでありました。彼らはイエスを信ずる事が出来たし、又実際に信じていたのですが、自分の内に宿るキリストを信ずる事は中々出来ませんでした。而もこの「内に宿るキリスト」こそ実にキリストの科学に於ける骨髄なのでした。

まことに彼の弟子たちはユダヤ人であり、神を「父よ」と呼びました、しかし「父」なる言葉は彼らにとって、あたかも今日の多くの自らクリスチャンと名乗る人々と同じく、殆んど意味なき言葉であったのです。多くの人々は、「吾が父よ」と言いますが、実際「父の如く、子の如く」とは如何なる事であるかを眞に知る者は少ないのです。

そして父なるものの凡ての性質は子に承け継がれなくてはならないとでも言おうものなら、神を汚すものだとか悪魔の言葉だとか言って猛烈に反対致します。併しこれがイエスの神観であり父子観だったのです。本当の人間は神の像に似せて創られたものであるという眞理に於いてイエスは生き、行動し、存在を完うし給うたのであります。

この偉大なる理念が病気を癒したのです。跛者(あしなえ)は起ち、血漏は癒え、癩者は浄まり、この栄光の思想に刺し徹された人々は悉く再び幼な児の如く美しい肉体に立ち返ったのでした。
イエスはこの認識を「眞理」と呼びました。癒しを行うものは彼の人格ではなくしてこの眞理なのでした。イエスは大胆にもかく宣言し給うた、「神は眞理なるが故に吾(人間)は眞理なり。」

つづく。

      <平成29年6月17日 謹写>  ありがとうございます 合掌。


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑥ (6698)
日時:2017年06月18日 (日) 11時56分
名前:平賀玄米


イエスは弟子達にこの認識の偉大なる働きを説明し例証し給うたのであります。彼は弟子達を病を癒すべく派遣されました。癒しが精神的覚醒の最初の例証の一つとなるからであります。弟子達は帰って来て師に告げました、「悪魔でさえも吾々に服従しました。」しかしその時、弟子達は自分達がそれらの偉業をなしたのだという個人的な自惚れを持っている様に見受けられるのでした。その自惚れをイエスは戒め給うて、むしろ彼らの名の「天に記録されん事」をこそ望めと教え給うたのでありました。

弟子達が癒しに失敗した時、イエスは信仰なき故であると告げられました。では何を信ぜざるか。彼らは確かに神を信じていた、彼らはユダヤ人でしたから。そしてイエスを信じていた、彼らは凡てを捨ててイエスに従った人々だからです。彼らの信仰に於いて欠けていたもの、それは自分自身の中にキリストの力宿り給うとの自覚であったのです。

吾々も、科学的原理に根拠し科学的原理に基礎づけられていないならば、この弟子達の犯した誤びょうを繰返すでありましょう。吾々はともすれば自己を拡大評価したり過小評価し勝ちなものです。吾々は、如何に敬虔であろうと、神聖であろうと、凡ての「我」の観点を取去らなくてはなりません。眞の科学者は自分という我を利用しようとは思いません。ただ無我になって法則に随うのです

だがしかし神の手立ては絶妙であります。彼がいのちを捨てた時、彼はいのちを得るのです。そして人間は「無」である。「光」が凡てである。という考えに生きる時、彼の人格は神の光で輝きわたるのであります。彼は知らず知らずのうちに魂の身の丈に無限の生長を加えたのです。

彼は嫉妬や羨望を超越します。何故なら、凡てのものは彼自らの有てる力をもち、他人が自分よりもより広き心をもっているとほめ讃えるものは自らの心広きを証明するに外ならないという事を知っているからであります。

この原理の思想を学んで心を練り、そして久遠の實在たる生命の本質を思惟するとき、凡ての人間はただ永遠者の心に宿る或る理念を表現するものであり、自らはその永遠者の心の海洋に注ぎ込む
河口の様なものであるから、自己はその「心」の海洋全体をわがものとして自由に使用し得る自由人になるのであって、これこそディヴァインサイエンスの究極の目的なのであります。

今回にて第六章「モルガンの神癒科学」完。

      <平成29年6月18日 謹写>  ありがとうございます 合掌。



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