《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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〝あなたは凡庸を創るか傑作を作るか〟谷口雅春先生のこのご文章を読めば、「凡庸の唄」は明らかに「人間神の子・無限力」の教えに背反している! (5799)
日時:2017年04月11日 (火) 18時12分
名前:破邪顕正


表題のご文章は、『理想世界』誌・昭和40年10月号に掲載されています。

「青年のための生活日訓」10月2日のことばとしてこうあります。

《どんな仕事に面しても、行き届いて観察し、仕事の隅々までも充分完全に見届けて、どんな欠点も自分の仕事には残さないというような心の習慣が、文士ならば傑作の名文を書くことの本になるのだし、音楽家なら傑作の作曲をし、微妙な旋律を、どんな些細な瑕瑾(きず)もなしに弾奏し得る名奏者とならしめる基礎となるのである。

最高の作品、最高の技術--世界はそのような傑作を求めているのである。

凡庸と傑作との区別は最後の仕上げの十パーセント如何にあるのである。》

これを紹介したのは他でもありません。

とある教区では、退会を申し出た信徒に対して、その理由を書かせるように圧力をかけている…。

その内容というのが、谷口雅春先生と谷口雅宣総裁先生とどこがどのように違うのか、それを文書にして出せ…。

そう強要していると伺ったからであります。

こういう無理強いに対しては、所謂、〝逆質〟が最も効果的です。

谷口雅春先生と今の総裁とが同じ真理を説いているというのであれば、まずは、そちらこそ、その根拠を明示すべきではないのか。

そのように、教区幹部に問いただしたらいいのです。

誰がどう読んでも、この「凡庸の唄」が、谷口雅春先生の教えと同じであるなどとは、とても言えようはずがないからです。

もう一つ、その証拠を掲げます。

「凡庸の唄 (2)」にこうあります。

《凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。》

「一芸に長ずること」が何かマイナスであるかのようなこの「凡庸の唄」、『生命の實相』の教えとは実に真逆であります。

『新編 生命の實相』第12巻「生活篇」にかくあるからです。

《人間は天才を伸ばさねばならぬ。

又職業として独立するだけの知識は必要である。

だから是非とも一芸に通達することは必要である。》(26頁)

つまり、今の総裁は、明らかに谷口雅春先生の「人間神の子・無限力」の教えの否定に走っている、私はそう考えております。

谷口雅春先生のお説きになられた「人間神の子・無限力」の教えだからこそ「生長の家」と言えるのです。

「凡庸の唄」が好いという信徒は、もはや「生長の家」ではありません、「凡庸の家」とでも名乗るべきなのであります。

『ヨハネ傳講義』にこういうご文章があります(214頁)。

《外面はキリスト教でも、そんなイエスから離れた教会からは、断乎として離れてしまう方が、本当のイエスの御意(みこころ)だと云うことが出来るのであります。》

これをそのまま今の教団になぞらえればこうなるのではないでしょうか。

《外面は生長の家でも、そんな尊師から離れた教団からは、断乎として離れてしまう方が、本当の尊師の御意(みこころ)だと云うことが出来るのであります。》

「凡庸の唄」が出ても、それでも教団に残る信徒の皆さんに、ぜひ、ご一考いただきたく、拙文をしたためさせていただいた次第です。





あえて、「凡庸の総裁」と呼ばせていただきましょう。 (5808)
日時:2017年04月11日 (火) 23時15分
名前:そーれ!!

ご自身で ”凡庸”を提唱されているので、私は今後、雅宣様のことを、「凡庸の総裁」と、

呼ばせていただきたいと思います。さて、その「凡庸の総裁」ですが・・・

  今まで彼は、練成会に参加した事が無いとか、聖典は拝読した事が無いとか、色々言われて
  来ました・・・。

ですが今回、「凡庸の唄」なる愚作・駄作を発表したことで「凡庸の総裁」は、谷口雅春先生の
御著書を、まじめに詳細に拝読していない事を、自ら暴露してしまいました。

どんどんおかしくは成って行くけれど、決して マトモ に成らない現教団・・・

だって総裁が「凡庸の総裁」ですから仕方が無い・・・。

信徒の皆様が「凡庸の総裁」に付き合って、”凡庸の人”に成るのは、

誠に悲しく、残念な事であります!!!

それは、谷口雅春先生 からどんどん離れて行く事だからです!!!

「凡庸の総裁」に中心帰一すると・・・ (5819)
日時:2017年04月12日 (水) 01時05分
名前:そーれ!!


勿論、「凡庸の信徒」になっちゃいます。

  なぜ・・・?

だって、原因結果の法則ですから・・・。

因果応報 (5820)
日時:2017年04月12日 (水) 01時19分
名前:直次ぐ

凡庸〇唄

因果応報で悪因悪果

破邪顕正さまへ、学ぶ会は正しい (5830)
日時:2017年04月12日 (水) 14時14分
名前:会員をばかにするな1

「『生命の實相』 研究会」 はやめなさい  徳 久 克 己 (5706)
日時:2017年04月07日 (金) 15時18分
名前:童子
 厳しかった徳久先生講話ノートから



 君たちが、谷口先生より偉くて、先生の教えに誤りがあるから、それを研究して是正する必要がある。 


 というのなら 「『生命の實相』研究会」 もよいけれど、先生はいかなる点からみても、君たちより偉いのはきまっているのだから、研究会などというナマイキなことはやめさい。


 『生命の實相』 は、今更君たちが研究会をつくって研究しなければならんような、そんなつまらん本ではないのであって、絶対に間違いのない真理が説かれているのであるから、


 一行読めば一行、一頁読めば一頁、それを実行してゆけばよいのだ。


 研究会をやめて、実践会をやりなさい。


やはり「凡庸の唄」は谷口雅春先生の御教えとは違う! (6119)
日時:2017年05月03日 (水) 10時56分
名前:破邪顕正


『理想世界』誌・昭和42年3月号「四日のことば 天才も凡庸も努力によって同一となる」にかくあります。

《どちらも平等に努力しないとき、天才と凡庸との区別は直感力の相違によって区別できるが、営々と努力しだしたら、凡庸も、天才と同じ域に達することができるのだから、いずれも、同じ一束の中の一本一本になるという意味である。

天才も努力しなければ凡庸と同列になり、凡庸も努力を重ねれば天才と同列になるのである。》

ここでも、尊師は「凡庸でいい」とは仰ってはいないように思います。

また「凡庸の唄 (4)」には

《凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。》

このように「下手の横好き」を称揚していますが、谷口雅春先生はこうお説きになっています。

『理想世界』誌・昭和42年3月号「二十六日のことば 百の才能よりも一つの才能を徹底的に伸ばせ」から引きます。

《一つの才能しか有たない凡庸な人間が一心不乱にその才能を研いてその方面にのみ力を集中するとき、百の才能をもった天才が百にその能力を分散して、何一つ完全に成就する時間をもたない場合よりも偉大なる仕事を成し遂げることができるのである。

もしあなたが万能の才物であるならば、そのエネルギーを多方面に分散したくなる誘惑を警戒しなければならない。》

これを紹介したのは他でもありません。

先の「白鳩会幹部研鑽会」に参加した白鳩会員がこんな投稿をしていたからであります。

《生長の家の信徒として、これからの日常において、今後の心がけそして、あるべき姿勢と行動を明確をご指導頂けましたこと、深く魂に響きました。

総裁先生ご指導の1時間はあっという間に過ぎ、最後の「凡庸の唄」はもっと見ていたいと思いました。》

講習会でも「凡庸の唄」が紹介されたと聞いていましたが、この研鑽会でもやっていたということは、総裁は、これを本気で広めようとしているのは間違いないと判断した次第です。

案外、「凡庸の唄」が〝聖経〟化されるのもあり得る話なのかもしれませんね。

ですから、これが如何に谷口雅春先生の御教えと真逆であるか、しつこいようですが、繰り返し警鐘を鳴らしていかないといけないと思った次第です。




ここにも「凡庸の者」になってはならないとのご文章が… (6151)
日時:2017年05月06日 (土) 10時17分
名前:破邪顕正


『理想世界』誌・昭和42年9月号「二十二日のことば 諸君は自己表現の〝場〟をもたねばならぬ」の中で、尊師・谷口雅春先生はこのようにお説き下さっています。

《折角素晴らしい能力をもちながら、その能力を発揮する〝場〟がないために凡庸の者に伍して、つまらない平均以下の仕事をしながら一生を終ってしまう人もたくさんあるのである。

そのような人は能力をもちながら調和性が欠けていることが多いのである。…》

この「調和性が欠けていること」それは谷口雅春先生ご自身もそうであったと「二十五日のことば 〝自分〟というものを〝包む〟こと」で、次のように書いておられます。

《私が青年時代に人格の角がとれずに孤独であった頃に、有名な石竜子という人相観に人相を占ってもらったことがある。

石竜子は私の顔をつくづく見て「君の人相は清相…〝水清ければ魚住まず〟…君はもっと包容力を大きくしなければならない。…

〝自己主張〟をすることをできるだけ止めて人を容れるようにつとめなさい」と教えてもらった。

それを一つの「座右之銘」として私は生活するようにつとめて来たものである。…》

谷口雅春先生も若き日に、このようなご精進を為さっておられたのかと、改めて思い知らされた次第です。



「凡庸の唄」では御教えが根底から否定される! (6201)
日時:2017年05月09日 (火) 09時06分
名前:破邪顕正


谷口雅春先生のお説きになられた「唯神実相哲学」は、人間観、人生観、国家観、世界観、宇宙観等、実に壮大なスケールをもった体系で成り立っています。

その根底にあるのが、「人間は神の子である」ということであります。

ところが、現総裁は、「凡庸の唄」を発表し、それを根底から覆そうとしています。

そのことの重大性に目覚めてほしいという思いで、今回も、『理想世界』誌・昭和45年5月号「五日のことば 座作進退ところを得ること」から引きます。

《進退の駈け引きが処を得ると否とが、その人の一生を凡庸に終らせるか、大いに名を成し功績をあげるかの境となるのである。

しかしその駈け引きが処を得、時に適するようになるには如何にすべきか。

それは自分の想念が神と一体になることによってのみ得られるのである。

つまり毎朝神想観を実修して深く神との一体感の中に自分を沈潜し、神御自身の心が自分に浸透してから、その日の行動を始めるがよいのである。》

ここでも、「凡庸」という言葉は、否定的なそれとして使われています。

さて、谷口雅春先生のかつての「法語」を拝読させていただきますと、神想観ということが随所に出てまいります。

今、教団はどうなのでしょうか。

神想観の重要性をこれほど徹底して説いているでしょうか。

何かしら、神想観の実修と「凡庸の唄」の精神とは、実に大きな隔たりがあるように感じられてなりません。

教団が、この「凡庸の唄」を今後、どう取り扱おうとするのか。

それでなくても教勢が衰退しているというのに、その取り扱い如何によっては、ますますそれに拍車を掛けることになるだろうと私は見ています。



「凡庸の唄」は尊師の御教えに背反している証拠がここにも… (6346)
日時:2017年05月18日 (木) 10時40分
名前:破邪顕正


表題について、まず、『理想世界』誌・昭和48年7月号の「三日のことば 決意・断行・努力・持続・忍耐」から引きます。

《多くの中途半端な人々は、目的に向かって全力を投入しないで、途中で、〝この位なら仕方がない〟とあきらめてしまうために、ついに目的の半分も成就し得ない凡庸人として一生涯を終ってしまうのである。》

続いて前掲書「七日のことば」にはズバリ「凡庸の人間になる事勿れ」と題して、こうあります。

《鯉は特に逆流を悦んでそれを遡るのである。…

多くの人たちが逆流ときに押しながされて落伍してしまうときこそ、あなたの魂が泥船の魂か鋼鉄の原子力船かを分つところの機会なのである。

好機会が来たときに進もうなどと考えて、逆境に際しては、ただ佇立して進むことをしない如きは、凡庸の下の下の人間のすることなのだ。

諸君は決して凡庸の下の下の人間になってはならないのだ。》

もとより、『理想世界』誌は、青年向けに発刊されていますから、運命を切り開く、逆境を乗り越えていく力強いご文章に満ち溢れています。

ですから、読んでいて沸々と勇気が、元気が漲っていくような感動を覚えます。

翻って、衰退の一途を辿っている現教団の中で、青年会が存亡の危機にあるというのも、「凡庸の唄」の精神が陰に陽に悪影響を与えているからではないでしょうか。

明日の日本を、世界を背負って立つ青年に対して、どうして「凡庸」でいいなどと言えましょうか。

そう感じた次第です。


「凡庸の唄」で「人間・神の子」の教えは否定されたのです! (6514)
日時:2017年06月03日 (土) 10時12分
名前:破邪顕正


尊師・谷口雅春先生の「人間・神の子」とは、真逆にあるのが「凡庸の唄」の世界であります。

『理想世界』誌・昭和39年3月号「十一日のことば 精力を一事に集中すれば何人も天才を発揮できる」にはこうあります。


《…私たち人間のエネルギーも、一念不動、一事敢行に集中するならば現在凡庸だと思われている人々でも天才的な能力を発揮することができるのである。

神はすべての人々に何らかの天才を発揮することのできる能力を与えておいたのであるが、エネルギーを分散せしめているために、ついにその能力を効果的に発揮せずに終るのである。

(註。凡庸--ふつうに平凡なこと)》


わざわざ、ここには、凡庸の意味まで附記してあります。

先日、長崎北部教区で開催された講習会において、総裁は、受講者の質問、

>「以前、1番でないといけないのですか?2番、3番ではダメなのですか?と言った人がいましたが」<

に対して、こう答えたそうです。

>「あれを言ったのは当時民主党のレンホウさんでしたね。

人間は神の子なので1番でないといけないと言うことはない。

2番、3番、5番でも良い」<

???

これが“今の教え”だとしたら、それは谷口雅春先生の教えとは全然、違います!

心ある信徒の皆さん。

もはや、今の「生長の家」は谷口雅春先生の創始せられた「生長の家」ではありません。

谷口雅宣総裁の“今の教え”で救われたというのならばまだしも、谷口雅春先生の御教えで救われたのでしたら、その御恩返しは尊師に対してなされなければならないのではないでしょうか。

決して教団に残ることではないと私は思うものであります。

何故と言って、今の総裁、教団は、尊師の教えを裏切ってばかりいるのですから。


『青年の書』の此処にも「凡庸の唄」を批判するようなご文章が見られます! (6555)
日時:2017年06月06日 (火) 18時59分
名前:破邪顕正


『谷口雅春先生を学ぶ』7月号が届きました。

「七月の箴言」は『青年の書』からの引用です。

それを拝読していましたら、総裁がつくった「凡庸の唄」を批判されていると思えるご文章がありましたので、それをご紹介します。

まずは、「月曜日の箴言 真に神の子なる強者は、失敗に捉われない」から引きます。

《『生長の家家族の祈願及修養』にも「たとい躓くことありとも、その刹那に立ち上がりて光明に面せんことを期す」というのがあるが、これがすべて人生に於て勇敢高邁に成功をかち得た人たちの秘訣であるのである。

過去に於ていかなる苦き辛き経験があろうとも、そんなものに心が捉えられてはならないのである。

目の前にあるところの現象を越え、艱難を超えて、吾々は実相の世界にすでにあるところの成功を見なければならないのである。

諸君は今まで成さんと欲したところのある事物に失敗したかもしれない。

ある計画に挫折したかもしれない。

ある学校の入学試験に敗れたかもしれない。

あるいは恋する相手の愛情を獲得するのに失敗したかも知れない。

しかしいつまでもその失敗や蹉跌に心を捉えられて前進することができないものは凡庸の徒であるのである。

真に神の子なる強者は決して目前の小さな失敗に捉われはしないのである。》


また、「土曜日の箴言 凡庸は、埋蔵されたる無限力を出さないだけである」にもこうあります。

《誰でもいざという危急の場合には日頃の数倍の力がでるのである。

困難は一寸法師を巨人の如く偉大ならしめ、凡庸なる人間を英雄にまで鍛え上げる。

もし吾々が、困難のきたらない時にもすでに困難のきたった時と同じように自分の中に埋蔵されたる無限力を引きだし得る方法を体得することができるならば、彼は必ずや驚くべき偉大なる人物にまで伸びるに相違ないのである。

神の造りたまえる万物の中で、神の最も完全なる肖像として造られたる人間がただの平凡ななすことのない普通人で終わるべきはずがないのである。

それは神の創造の失敗でもなければ、人間にその力が宿っていないのでもないのである。

ただ吾々がその力を出さないのにすぎないのである。

その力を外界から拍車をかけて発揮するようにしてくれるものが、外界からの打撃である。》


こう見てくると、「凡庸の唄」というのは、何かしら『反 青年の書』とも言うべき代物ではないかとすら思ってしまいます。

「凡庸の唄」を読ませるようでは、教団の青年会も意気が上がらないのではないでしょうか。

因みに、この『青年の書』の英語版は、紅白歌合戦にも出場したクリス・ハートの座右の書なのだそうです。

果たして、「凡庸の唄」を座右の書とするような人が現れるでしょうか?

私は難しいような気がしておりますが。



万歳 凡庸の歌 (6623)
日時:2017年06月11日 (日) 08時51分
名前:カニ蔵

もしかして 他宗教の破壊スパイがいたら

凡庸の唄万歳‼だね。

教団内では、売れないから仕方ないから道場が自ら買取り
笑いの大会とかの賞品だよ! それは、せっかくの優勝者のハズレ賞品で
もらってガッカリだよ。になってきているからマサノプ本の他にもう一つつけるようになった。

賞品がマサノプさんの堕本や堕経ではヤル気でないしょ‼


廃棄屋の社長正宣さん (6625)
日時:2017年06月11日 (日) 09時18分
名前:殺虫剤

正宣さんの本は全て廃棄処分した。知人達もみーんな。
六でもない偽経もだ。
不吉なものをはじめから書かなきゃいいものをと思うよ。捨てられるためにわざわざ書いたな?

総裁も信徒に
捨てられる為になったらしい。

谷口雅春先生の信奉者でない人が、生長の家のトップに居座っていることが諸悪の根源 (6627)
日時:2017年06月11日 (日) 09時49分
名前:アクエリアン

>>こう見てくると、「凡庸の唄」というのは、何かしら『反 青年の書』とも言うべき代物ではないかとすら思ってしまいます。

「凡庸の唄」を読ませるようでは、教団の青年会も意気が上がらないのではないでしょうか。

因みに、この『青年の書』の英語版は、紅白歌合戦にも出場したクリス・ハートの座右の書なのだそうです。

果たして、「凡庸の唄」を座右の書とするような人が現れるでしょうか?

私は難しいような気がしておりますが。<<

全く同感です。

虚説に和解することは絶対に出来ない (6629)
日時:2017年06月11日 (日) 13時50分
名前:鉄腕アトム

谷口雅春先生は、仮相や虚説に対しては「サタンよされ❗❗」と排撃すべきなのであります。と説示されました。



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