尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)⑤ (5386) |
- 日時:2017年03月14日 (火) 14時17分
名前:平賀玄米
ユニテリアンの詩人、サー・ヘンリー・ウオットンはこう歌っています。
さち深き星の下に生まれ育まれし者よ。 幸いなるかな、 その誰かがなせるにも非ず、 みずからのまこと、 ひたすらなる眞實もて、 美わしき人生、まもり通したるなり。
「みずからのまこと」これを神として、内在の神を拝む、キリストのみが神の子ではない、吾々の内にも神は宿り給い眞理を啓示し給うと言うのであります。
宗教的な信仰というものは、人間の本性に根ざしているものであります。されば、人類の発祥と共に色々の信仰の形態が現れ、時代的に、又民族的に色々の要素に伝統されて数多くの変遷を遂げて行ったのであります。
はじめは眞に自分の個人の生命の核心(内部神性)から湧き上がって来た信仰であったものが、ただ単に伝統だとか習慣だとかによって、みんな他の人達が信じているから信じるとか、預言者の言った事だから、本当だろうとかそう云った盲信と常識の入り混じった不純の要素が入って来る様になります。
人々がイエスの教えを受け容れるのは、彼の教えそのものの価値を、人々の内部神性が受け容れてそれを信ずるのではなく、彼がユダヤの預言を成就する者であるが為に信ずる、或は彼の病気治しの奇跡の為に信ずる。かくしてイエスの言行録が発見されるや、教えの眞實性に重点を置かず、人々は奇跡や預言の成就に重点を置いて一つの「権威」としてしまったのです。こうして聖書は即ち神啓の「権威書」となってしまったのであります。
ところが次にはこの聖書について人々に解釈して聞かす人々が現れて来、信仰の中に多くの自ら正統と称する独断の見解が生まれて来ました。正統の信仰、正統の教義、正統の礼拝等々が教会の上層者によって強要されるようになり、人々は自分の神性に照らし合わせて考えたり信じたりすることが出来なくなってしまいました。
かくして各人の内在神性によって信ずる無教会時代のデモクラシー的眞宗教から離れて、教権者達の寡頭政治が始まり、それはローマ法王庁に於いて頂点に達したのであります。掛かる強権に反逆してあの宗教改革が行われたのでありますが、しかも改革者達には、やはり「権威」の魅力が忘れられなかったのです。
彼らは「人間の権威」を取除いた代わりに、「聖書の権威」をもち来たしました。ところが「聖書の権威」は一層人々を奴隷的に教義の文句に縛りつける様になったのです。何故なら、書物は生きた人間よりも一層融通がきかないからであります。
しかし人間はいつまでもかかる奴隷的状態に満足しているものではありません。やがて人々は、次第に自分自身の内奥に潜む「霊の囁き」――内在神性の囁きに耳を傾けるようになりました。それは「魂の黙示」であります。自分自身が他の預言者の如く預言者たり得るの自覚でありました。 自分自身の心の内にこそ、眞の宗教的眞實の拠り所があるのだという事に気が付いて来たのであります。
教権を握っている人達はこの「霊の囁き」をもみ消そうとしたが、人間の本性に根ざす、深く自らの信仰を求めてやまぬ強い憧憬の前には、如何ともする事は出来なかったのであります。これがユニテリアン出現の内在的契機だと言うことが出来るのであります。
つづく <平成29年3月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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