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東日本大震災6年  震災直後10億円寄付した台湾人・張栄発氏を忘れてはいけない (5314)
日時:2017年03月11日 (土) 12時05分
名前:童子

産経新聞 3月11日


 東日本大震災後の被災地の映像を目にし、涙した台湾人がいた。 エバーグリーングループ総裁の張栄発氏(享年八八)。 日本統治下の台湾に生まれ、一代で世界有数の海運会社を育てた実業家だ。 縁深い仙台が被災し、直後に個人名義で10億円を寄付したことでも知られる。 張氏は生涯、日本に思いを寄せ続けたが、昨年死去した際はメディアに大きく取り上げられることもなく、いま改めて偉功をしのぶ声が上がっている。

(外信部 塩原永久)



 日本統治期の1927年、台湾北東部に生まれた張氏は、少年時代から海運会社で働く一方、夜間学校に通い苦学して航海士となり、船員生活を送った。 会社を設立後、日本で購入した中古貨物船で海運業に乗り出したのは、30代前半のことだった。

 
 68年、グループ前身の長栄 (エバーグリーン) 海運を立ち上げ、80年代に国際コンテナ船業務を柱に事業を急拡大。 史上初の世界一周航路で名をはせた。89年にはエバー航空を設立して航空事業に参入し、ホテルや金融を抱える巨大グループに成長させた。


 6年前の震災発生時は、経営の前線から身を引きつつあった時期に重なる。 震災は張氏の目にどう映ったのか。 巨大な津波が仙台市の海岸部や、東北の市街地を飲み込んでいくニュースは、台湾でも大々的に報じられていた。 3月11日、エバー航空がすでに定期便を飛ばしていた仙台空港に大津波が押し寄せたのは、地震発生から約1時間後の午後4時前後だった。


 時差で日本より一時間遅い台北にある総裁室で、張氏は、テレビで流れるニュース映像をみて涙を流していたという。


 地震後すぐ、張氏はポケットマネーから、被災地への巨額の寄付を決め、日本赤十字社を通じて送った。 また、海運や航空のグループ傘下企業に対し、毛布などの支援物資を運搬するよう指示。 エバー航空の機材を使用して、各国政府や国際援助組織の物資まで、無償で日本に運んだ。


 後日、深刻な被害が判明するにつれ 「眠れないほど胸を痛めた」 と述懐した張氏。 被災地に惜しみない支援を即決したのは、とりわけ仙台の地が、張氏の心情に訴える場所だったからかも知れない。


 事業拡大にいそしんでいた張氏が、日本各地の港湾に苦心しながら進出しようとした際、まず神戸港(兵庫県)が、そして仙台港(宮城県)が門戸を開いてくれたのだという。 台湾の新興企業にとって参入は簡単ではなかったのだろう。 生前に張氏と親交を深めた全日本空輸の元台北支店長、池本好伸氏(69)は 「あのとき仙台が温かく迎えてくれたことに、張氏は恩義を感じていたようだ」 と話す。


 エバー航空が日本路線を増やしていく過程でも、張氏は仙台空港への就航に並々ならぬ意欲をみせていたと、池本氏は振り返る。


 日本語で教育を受け、「日本人以上に日本人的だった」 (池本氏) という張氏。 その勤勉さや、徹底して物事を突き詰めようとするエピソードも伝わる。



 張氏の関連品を集める張栄発文物館 (桃園市) の図書館に保管されているのは、張氏が勉強に使った海事書などだが、几帳面(きちょうめん)なメモが書き込まれ、読み込まれて縁がボロボロになっているものばかり。 全日空の支援を得ながら航空事業に参入するにあたっても、ありとあらゆる関連書籍を日本で買い込み、「徹底した勉強ぶりだった」 (池本氏)。


 海運業の拡大期には、大手商社の丸紅から資金面をはじめとする支援を受け、同社とは長期的に協力関係を持った。 日本統治時代の台湾を知る世代にとって、日本との縁は生涯、ただならぬものだったに違いない。


 「どんな人でも一生の間に多かれ少なかれ他人の授けを受けるものだ。 (略) 受けた恩は十倍にして返さなければならない」 (張氏の口述自伝 『本心・張栄発の本音と真心』 から)



 そんな思いが強かった張氏が、震災後の日本への支援を惜しまなかったのは、自然な気持ちだったのかもしれない。 一方、自身が受けた恩義を社会に還元したいという思いから、85年に奨学金を提供する張栄発基金会を設立。 慈善活動や教育支援に力を入れてきた。



 もっとも、自分の功績や手柄をひけらかすようなことが大嫌いだった張氏は、震災後の義援金についても、表だって話すことを好まなかった。


 平成24(2012)年春の叙勲で、張氏は旭日重光章を受章した。 関係者でお祝いの席を用意しようと持ちかけたが、張氏は固辞したという。 また、自分の死後は 「すべての遺産を寄付する」 と明言していた。


 昨年1月20日に死去すると、張氏による東日本大震災後の多大な日本への支援が改めて注目され、ネット上では 「(張氏の) 名前を知らない人もいるかもしれないが、感謝の気持ちを忘れるべきではない」 などの声が寄せられた。


 台湾と日本との深い縁を体現したような人生を送った張氏。 カラオケの定番は千昌夫さん。 日本の流行事情に最後まで関心を寄せ、後年、日本を訪れるたび、100円ショップでの買い物に何時間も費やすこともあった。


 「もうひとつの故郷」 ともいえる日本と、航空路線の開設などをめぐって折衝をしてく中で、対中関係をことさら配慮する日本側の事情についても、張氏はよくよく理解していた。 海運や航空事業で、世界的なビジネスを展開していた張氏にとって、逆にいえば、日本は 「多くの商売相手の中のひとつ」 という位置づけであったともいえる。



 張氏が台湾と日本の関係について語った、こんな言葉が池本氏の記憶に残っている。 「台湾は人口わずか2300万人。 日本との関係なくしては、どうにもならない。 だから日本にはもっともっと、しっかりしてもらい、台湾を引っ張っていってほしい」。

『ありがとう、台湾』 東日本大震災後 なぜ台湾は日本に200億円もの義援金を送ってくれたのか (5315)
日時:2017年03月11日 (土) 13時48分
名前:童子

 
なぜ台湾は震災直後の日本に200億円もの義援金を送ってくれたのか ―― 台湾在住30年の日本人作家が語る台湾が巨額の義援金を送った理由 2017年3月11日 8時55分 日刊SPA!



 東日本大震災が起きた際、日本には世界中から多くの義援金が集まった。 では、どこから最も多くの義援金が送られたのか。アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシア、韓国 ……。 思い当たる国はいくつかあると思う。 だが、それが台湾だということは意外と知られていない。 しかも、台湾全土から送られた義援金の総額は200億円にものぼるというのだ。



 なぜ彼らは日本に対してそこまで出来るのか。 200億円という巨額がいかにして集められたのか。 日本と台湾の双方での取材をもとに、一体なにが巻き起こっていたのかノンフィクションノベルとして記した 『アリガト謝謝』 (講談社)。 その著者であり台湾在住歴30年の木下諄一氏に話を聞いた。



◆なぜ台湾は200億円もの義援金を日本に送ったのか



「台湾の人たちはもともと持っているものとして、“近隣の人が困っていたら助ける” という考え方があります。 たとえばスマトラ沖地震のとき、私のまわりにも何人か日本円にして2万~3万円とかを当たり前のように寄付している人がいました。 我々の感覚からすると、なかなか理解できないかもしれませんが ……」


 とはいえ、200億円もの金額はそうそう集まるものではない。 これについて木下氏は、“相手が日本だから” という要素が少なからずあるのだと言う。


「一概には言えないことを前置きしたうえですが、多くの台湾人が日本に対して好印象を抱いています。 日本製品の品質をはじめ、日本人と一緒に仕事をしたことがある人でしたらその勤勉さを尊敬しています。 戦前の日本統治時代を知る人たちであれば、その頃がすごく良かったと感じていたり、懐かしくも思っていたり。 若い世代に関しては、子どもの頃から日本のアニメに慣れ親しんでいます。 もはや日本のものは、すでに “自分たちの文化のひとつ” にもなっているんです。 彼らは、私たちが思っている以上に日本のことを身近に感じてくれている」



 そして2011年、未曾有の震災が東北で起きた。 そこで、日本を好きという気持ちと、元来の困っている人を助けようという考え方が交わり、いっきに大きな広がりを見せた。 台湾全土の学校や職場、コンビニ、行政機関、至るところで募金活動が行われ、その結果、200億円を超える義援金が集まったのである。 現地にいた木下氏は当時、ある種のムーブメントのようなものを感じたという。



 一方で、日本人にとって台湾の印象はどうだろう。 そもそも、なぜ木下氏がこうした顛末を伝えようとしたのかと言えば、被災地を訪れた際、現地の人たちが台湾のことを知りたがっていたことに他ならないという。


「これだけ多額の義援金を送ってくれた台湾とは一体どんな国なのだろう?」


 実際、多くの日本人にとっては “台湾” という名前は知っていても特に大きなイメージもない。 しいてあげるならバナナが有名? …… 程度なのだ。



「私自身は台湾に住んでおり、被災者ではありません。 いまでも苦しんでいる人たちがいるなかで、葛藤はありました。 それでも現地や日本の多くの人たちが義援金を送った台湾のことを知りたがっていたのです。 『アリガト謝謝』 を通じて、小さくて人口もそれほど多くはないであろう台湾が、いかにして義援金を集めたのか。 そのなかで台湾のことをもっと日本の人たちに知ってもらいたかったのです」



◆記録ではなく“記憶”として残していきたい



 200億円もの義援金が台湾から送られた。 では、これに対して日本はどうだったのか。 物語はそれだけで終わらなかったのだ。



 世界各国から温かい支援をもらった日本。震災から1か月が経過した4月11日、政府は感謝の言葉を 『ウォール・ストリート・ジャーナル』 など世界主要紙に掲載した。 しかし、台湾という国ではない 「国」 はそこに含まれなかったのである。 とはいえ、政府には政府の事情があるのだろう。 これは、一説によると1972年の日中共同声明。 「台湾は中国のいち地方である」 という当時の中国側の主張に日本政府が配慮したのだとも言われている。 当然、日本人のなかには納得ができない人たちも多かった。


「台湾の人たちにきちんと感謝の言葉を伝えたい」


 ある日本人女性デザイナーの呼びかけで始まった 『謝謝台湾計画』。 彼女のTwitterのつぶやきがネット上で大きく広まり、約2000万円もの寄付金を集め、台湾紙 『聯合報』 と 『自由時報』 に感謝広告を出したのである。


 木下氏はこうした一連の事実を“小説”という形で書いたことについてこう言う。


「震災から6年が経ちました。人の記憶は忘れやすいものです。 この作品は、取材や資料集め、構想から執筆まで2年3か月にも及びます。 日本と台湾で30人以上の人に会いました。 そのほとんどが事実をもとに書いていますが、あえて小説という形をとることで、たんなる記録ではなく、記憶として残していきたいと考えています」




【木下諄一】

1961年愛知県生まれ。 東京経済大学卒業。商社勤務、会社経営を経て台湾に渡り、台湾観光協会発行の「台湾観光月刊」編集長を八年間つとめる。 2011年、中国語で執筆した小説『蒲公英之絮』(印刻文学出版社)が外国人として初めて、第11回台北文学賞を受賞。 著書にエッセイ 『随筆台湾日子』 (木馬文化出版社)など。

<取材・撮影・文/藤井敦年>



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