《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《拡散希望!》「凡庸の唄」は新たな「七つの“神の子無限力”否定宣言」なり! (5165)
日時:2017年03月03日 (金) 18時31分
名前:破邪顕正

予想した通りと言うべきか、案の定というべきか、有り難いことに〝背教総裁〟は機関誌『生長の家』3月号に「凡庸の唄」を掲載してくれました。

今回は前半だけの掲載で、その続きが4月号に掲載されるようです。

ぜひ、今後は、これを、こちらの期待通りに、聖経「凡庸の唄」にして、信徒に読誦するよう強要してほしいと願うばかりです。

如何に何でも、これを読めば、〝背教総裁〟が、完全に谷口雅春先生の「人間神の子・無限力」を否定しているということを痛感せずにはいられないでしょう。

ということで、改めて、この「凡庸の唄」を徹底批判していくことにいたします。

〝背教総裁〟は、これを七つに分けています。

それに従い、こちらも、わかりやすく、七つ毎に批判することにいたします。


①凡庸の唄 (1)は「無限生長の否定」(競争者によって「生命」が生長させられることをも否定)宣言 (5166)
日時:2017年03月03日 (金) 18時38分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (1)」にはこうあります。

《凡庸は他を蹴落として
 世に先んじようと思わない。
 なぜなら凡庸は
 自分の技量と
 器量を心得ているからだ。
 凡庸は諦めているのではない。
 凡庸は知っているのだ。》

結局、〝背教総裁〟が言っている「凡庸」とは、何のことはない、今のままの自分でいいのだ、ただ現象の自分を追認しているだけのことなのです。

これは明らかに、谷口雅春先生の人間観とは真逆です。

自分の知らない自分を知ること、そのために自らを陶冶していくこと、それが谷口雅春先生の御教えではなかったでしょうか。

『人生を前進する』の「第六章 毎日何らかの前進をせよ」にはかくあります。

はっきりと“凡庸”の否定が、ここには、記されていますから、しっかりとご確認ください。

《諸君よ、今後「出来るだけの事はやったのですが、旨く出来ませんでした」などという言譯(いいわけ)は一切しないようにしようではないか。

「出来るだけの事をやる」のなら、どんな凡庸(凡人)でも出来るのである。

そんな言譯(いいわけ)をするようでは「私は単なる凡庸兒に過ぎません」と告白しているようなものである。

諸君は、常に「出来るだけ」以上の事を為す事を目標とし、理想として、毎日精進努力を続けなげればならないのである。

「人間・神の子」の自覚は「神の子」なる無限の高き理想と能力とが自己の内に内在するという自覚であるから、どんなに現在の進歩が高度であり優秀をきわめても、常に現状に満足することなく、優秀者は、その優秀の上に、更に進歩を遂げるべき決意をもって、前進また前進の努力を続けるべきである。

そのような努力を続ける者のみが本当に「神の子」の自覚を有する者なのである。》

如何ですか。

教えが完全に真逆になっているというのが、はっきりとわかりますでしょう。

更に、「競争者」の捉え方もまた、谷口雅春先生のそれとは違います。

《競争者の見る世界は
 味方と敵に二分される。
 争う心は他を傷つけ
 自分を不快にする。》

『新編 生命の實相』第1巻7頁以降にかくあります。

《二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

…進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのはいずれもこの現象(ことがら)をいいあらわしたものなのであります。

生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩に打ちまかされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にも打負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々の「生命」は宣告されているのであります。

競争者があるために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。

結局、かかる「生命」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命」の生長には是非なくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊課程であります。

この刺激や反省資料があるために吾々の「生命」は反省の機会を与えられ、浄化(きよめ)の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。》

これを読めば、誰しも、これは明らかに谷口雅春先生の教えとは違うと断じた私の思いをご理解いただけると思うものであります。




②「凡庸の唄 (2)」は「本当の達人・天分の否定」宣言 (5167)
日時:2017年03月03日 (金) 19時03分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (2)」にはこうあります。

《凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。》

『新編 生命の實相』第12巻「生長の家」の生き方(上)の第1章「朝の時間を生かせ」にはかくあります。

《人間は天才を伸ばさねばならぬ。

又職業として独立するだけの知識は必要である。

だから是非とも一芸に通達することは必要である。

しかしそれは早朝の一、二時間を巧みに利用すればできるのである。》

更に、この「凡庸の唄 (2)」の問題は、〝背教総裁〟の自然礼賛が実に歪であるということです。

《凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。》

谷口雅春先生が神経衰弱になるまでに悩まれたものは何でしたか。

頭注版『生命の實相』第20巻(3頁)にかくあります。

《自分はある日殿様蛙が一匹の小さなる蛇に呑まれる光景を自宅の庭で目撃したことがある。

蛙は蛇に呑まれるべくあまりに大きすぎるためにそれを呑み尽くすのに一時間以上もかかった。

その長い間大いなる蛙はその四肢を苦しそうに打ち踠かせながらビリビリと痙攣的に全身を顫わしていた。》

この弱肉強食の自然観は、「凡庸の唄」では一切、捨象されているのです。

はっきり言って〝背教総裁〟の自然観は偏頗に過ぎます。

谷口雅春先生の厳しい自然観を凝視される中から、本当の創造主を求め抜かれた求道精神を少しはツメの垢でも煎じて飲んだらいかがか、とすら思ってしまうのは、果たして私だけでしょうか。


③「凡庸の唄 (3)」は「永遠の今の否定」宣言 (5168)
日時:2017年03月03日 (金) 19時20分
名前:破邪顕正

「凡庸の唄 (3)」は“今”をこう捉えています。

《Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。》

何と言う浅い「今」の捉え方でしょうか?

『光明道中記』「四月八日 釈迦新生の日」のご文章と比べてみてください。

《「お前は何を求めているのだ?」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「この私が永遠か?」

「そうだ、そのお前が永遠者なのだ。

併しそのお前と云うのは肉体を指しているのではない。

その肉体をあらわしている其のお前のいのちそのものだ。

『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶に歩んでいるのだ」》

格調の違いが歴然としています!



④「凡庸の唄 (4)」は「縦の深みのある世界の否定」宣言 (5170)
日時:2017年03月03日 (金) 19時55分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (4)」はこう言います。

《凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。》

「下手の横好き」がいいように言われて、それで本当にいいのかと思ってしまいます。

これでは「生長の家」の宗教そのものが実に、平べったい、薄っぺらいものになってしまいかねません。

もっと、高みのある、深みのある、高尚な教えこそが谷口雅春先生の教えではなかったのでしょうか。

因みに、『生命の實相』第39巻(133頁~)にあるご文章を紹介しますので、どちらに心打たれるか、比べてみてください。

《…神を「今ここ」すなわち“Eternal Now”に把握するとき今ここに神の生活が実現するのである。

今が神の時であり、此処が神の処であり、この我が神の人である。

この把握によって、在来の世界観、人間観が三百六十度転回する。

(百八十度転回では、「平常心是道」--このままの生活に道を行ずるようにはならない。

肉を否定して山へ籠る程度の小乗的悟りに堕する。

肉体あるがままにそのままに空を観じて、そのままに金剛不壊身を自覚するのが大乗的悟りであり、人間観の三百六十度転回である)物質あるがままにそのままに空と観じて、そのままに霊的生命の世界、叡智充満せる「神の国」(浄土)を今ここに自覚するのが大乗的悟りであります。

釈迦もこの大乗的悟りに到達したのである。

そこから奇跡を生じたのです。

生長の家誌友中にも奇跡的治病や無限供給が起こる事実があるのもこの人間観・世界観の三百六十度転回によって、神の国(浄土)が今ここに実現するからであります。》



⑤「凡庸の唄 (5)」は「文明進歩発展の否定」宣言 (5171)
日時:2017年03月03日 (金) 20時05分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (5)」はこう言います。

《凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。》

〝背教総裁〟が、自ら、アーミッシュの如き生活をしているのであれば、私だって、それに難癖をつけようとは思いません。

しかし、〝背教総裁〟は、どうみても、その文明の利器に依存しているわけです。

それでいて、こういうことを言われても、少しも説得力をもちはしないと思うものであります。



⑥「凡庸の唄 (6)」は、「総裁先生にハイ、イエスマンになれ」宣言 (5172)
日時:2017年03月03日 (金) 20時18分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (6)」が暗に何を求めているか、それを知らなければなりません。

《自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。》

都合のいいように「翻訳」という言葉が使われています。

こう「翻訳」してみよ、ということなのです。

《自分が総裁だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と総裁との壁は消える。》

〝背教総裁〟に対しては、どんどん「ついていけない」という信徒が今、生まれています。

〝背教総裁〟と信徒の間に、いわば「壁」ができてきているわけです。

それは、みんな、総裁先生が

《何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。》

そういうことをやっていないからだと言うのです。

今、教団幹部が信徒に言っている言葉があります。

「総裁先生が何を言わんとされているか、それをまずは虚心になって考えてみて。

総裁先生のご本を無心で3回、読めば、総裁先生のお心がわかるから」

結局、こうして、〝背教総裁〟に刃向かってはならない、「総裁先生に中心帰一」「総裁先生万歳!」のイエスマンばかりを生みだそうとしているのです。



⑦「凡庸の唄 (7)」は「優秀・凡庸二元論、凡庸推奨」宣言 (5173)
日時:2017年03月03日 (金) 20時38分
名前:破邪顕正


「凡庸の唄 (7)」はこう言います。

《優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。》

結局、〝背教総裁〟が言いたいことは、地球環境を破壊してきたのは「優秀」なひとたちだ。

その環境破壊から自然を守るのは凡庸の人達である、ということなのです。

「二元論は悉くあやまれり」

こういう分け方そのものに、違和感を禁じ得ないではいられません。

最後に、申し上げますが、谷口雅春先生にとって「凡庸」とは決して推奨されることとしては取り上げられていません。

『人生を前進する』「第十一章 天才を引き出す道」にはかくあります。

《すべての人間は神の子として素晴らしい天才と天分とを与えられているのである。

天才とは何か、人間は神の子であるという実相が天才なのである。

天賦の無限力が天分なのである。》

この人間観こそが谷口雅春先生の教えであります。

心ある信徒の皆さん!

「鎮護国家」を捨てた〝背教総裁〟は、今度は「凡庸の唄」をつくり、「人間神の子」の真理まで否定しようとしているのです。

谷口雅春先生の「神の子の教え」についていくのか、それとも〝背教総裁〟の「凡庸の唄」についていくのか。

その選択が、これから、信徒ひとりひとりに問われていくことになるのだと私は思っております。

皆さまが賢明なるご判断を下さることを心から念じて、擱筆することにいたします。


神の子を理解していない凡庸総裁 (5177)
日時:2017年03月03日 (金) 23時46分
名前:雪ウサギ


今から20数年前、マサノブ氏は谷口清超先生と講習会に来た事が
 あります。

 
 その時の言葉がこうでした。「みなさ~ん、ぼさーとして椅子に

  すわっていらっしゃる。それでも神の子なんですよ~

  バカみたいな顔をして、パイプ椅子にすわっていらっしゃる。

  それでも神の子なんですよ~」


  これが初めての背教総裁の講義でした。

  やはりこの方は、谷口雅春先生のおっしゃっておられる 
  人間神の子を
  理解していないと、その時から私は感じていました。


  違和感で違和感で、とても受け入れられる講義ではありません

  でした。その翌年もずーとです。


   
  教団に残っている信者も、そう言って嫌がっています。
  
  激怒のあまりに寝込んだり、吐血した方もいます。

   

  宗教的な救いは 今の教団には絶対ありません。

  悲しい現実であります。
  

唐松から (5183)
日時:2017年03月04日 (土) 09時37分
名前:童子

2・28 “次の当たり前”でいいのか?


 >>本当は、自動車などに乗らなくても、自転車の利用で、あるいは徒歩で、どこかへ行くだけでも十分幸福な生活ができるのがいい。神さまとご先祖さまからいただいた優秀な2本の脚を使って、大地を踏みしめながら歩くことで「ありがたい」と感じ、しかも健康維持や健康増進につながるならば、これほど素晴らしいことはないではないか。このようにほとんどの人々が簡単にできる多くのことを、「当たり前」すぎるといって価値を低く見るのは、生長の家でお勧めしている「日時計主義」とは反対の生活態度である。その点は、私がすでに本欄で発表した「凡庸の唄」を読んでいただけば、読者はきっと理解されるだろう。<<







凡庸と神の子は関係無い! 童子さんへ (5191)
日時:2017年03月04日 (土) 14時38分
名前:雪ウサギ

それでは自動車に乗ると、幸福な生活が出来るのですね?


それが真理と何か関係が有るのでしょうか?



凡庸に希望はない!! (5192)
日時:2017年03月04日 (土) 15時01分
名前:雪ウサギ

「凡庸の希望である」  と背教総裁ノタマウ


まさか!  希望の無い人のことを凡庸と言うのです!


自分のパソコンのツイッターで呟やいたことを、何でもかんでも本にしているだけの事ですね。

これが凡庸のする仕事です。

「破邪顕正」さまへ (5193)
日時:2017年03月04日 (土) 15時15分
名前:しろうさぎ

ありがとうございます。

<拡散希望>とお書きくださっていたのですが、拡散のしかたがわからず、今、お昼の休憩時間にパソコンから親記事、子記事を印刷してみました。

これをコピーして、見ていただきたい方・・・現教団にいる方ですけど、お渡ししても差し支えないでしょうか?

谷口先生の「あなたは大力量人」のご講話のテープを一昨日から拝聴しておりますが、総裁にも聴かせてあげたくなります。
           「しろうさぎ」

5191の「雪ウサギ」さんへ。 (5194)
日時:2017年03月04日 (土) 19時02分
名前:通りすがり


「童子」さんの5183記事は、総裁への批判でしょう。

なぜかというと、「童子」さんははじめに

>“次の当たり前”でいいのか?

と非難する調子で書きはじめて、そのすぐあとに総裁の「唐松模様」
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2017/02/post-3b23.html
を引用して、

総裁が言っている「当たり前」を批判しているからです。



もしピントはずれのことを申し上げたならばご勘弁を……。







箸休めをひとつ。 (5196)
日時:2017年03月04日 (土) 21時22分
名前:そーれ!!


凡庸の唄は、別名ボンクラの唄。

ボンクラ総裁に付き合って、

わざわざ自らを、ボンクラにする必要が、あるのだろうか?

皆様、自らを尊び、もっと高貴に生きましょう!!

二年後三年後、各県各教化部内がボンクラだらけで充満し、

  凡庸で 生かされている 満たされている~~・・・

      生かされている 満たされている~~・・・

なあんて”珍相観”が行われたら大変です!!

あくまでも箸休めでございます・・・。

ご了承ください。

でも・・・言いたくもなりますよね。

「しろうさぎ」さんへ (5232)
日時:2017年03月07日 (火) 09時54分
名前:破邪顕正


返信が遅れて申し訳ありません。

<拡散希望>とは、まさしく、仰る通りの意味です。

これを印刷するなりして、多くの方にお知らせいただきたい。

とりわけ、教団に残っている信徒にお知らせしてもらいたいという趣旨です。

「凡庸の唄」は、機関誌3月号、4月号に続けて掲載されますので、この2ヵ月間が大きなチャンスではないかと思っております。

一般信徒の中には、谷口雅春先生の国家観はなかなか理解しえなくとも、人間観は理解されていると思うのです。

人間神の子・無限力!

これを真っ向から批判、否定する「凡庸の唄」。

これは、こちらの伝え方次第では、教団を揺るがすことに繋がると私は確信しています。

そういう思いで、私なりにまとめたものです。

これで完璧とは毫も思っておりませんが、何かの突破口になればとの思いで、取り急ぎ、したためたものです。

ご活用いただければ本当に有り難いです。

すぐに反応は出て来ないかもしれませんが、何か手応えがあれば、ぜひ、ここに投稿していただければと思っております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


再度「破邪顕正」さまへ (5235)
日時:2017年03月07日 (火) 12時22分
名前:しろうさぎ

お返事お待ち申し上げておりました。
ありがとうございます。

教団の機関誌3月、4月号に載るのでしたら、この2ヶ月間が
「破邪顕正」さまの仰る通り、チャンスですね! 私が言うより
「破邪顕正」さまの、今回の「凡庸の唄」への徹底批判をこのまま教団信徒さんに見ていただくことにいたしました。

総裁は、信徒に踏み絵をさせているのかと思った時期もありましたが、警部さんが言われますには、
「信徒への踏み絵・・・というよりは、どんなに信徒が減って教勢が弱体化しても、自分の左翼的思想の教団へと変えていく・・・
そういう意図ではないのだろうか?」
そう仰るんです。

プリントアウトしてコピーしました。
これを心ある教団信徒さんにお渡しします。

反応がありましたら、投稿させていただきますね。

再度「しろうさぎ」さんへ (5236)
日時:2017年03月07日 (火) 12時55分
名前:破邪顕正


この警部さんの炯眼、本当に素晴らしいと改めて感心しております。

>「信徒への踏み絵・・・というよりは、どんなに信徒が減って教勢が弱体化しても、自分の左翼的思想の教団へと変えていく・・・そういう意図ではないのだろうか?」<

私もそう確信しております。

だから、〝背教総裁〟のことを私は最初から一貫して“確信犯”だと申し上げてきたのです。

中には、〝背教総裁〟のことを“過失犯”と見る方もいましたが、どちらの見方が正鵠を射ていたか、今となっては、もはや明らかではないでしょうか。

現に、後者の見方に立って「和解せよ」と言ってきた人達は、今や、和解の「和」すら言わなくなっています。

こういう警部さんのような方がいることは、私にとっては何よりの励みになります。

希望をもって前進あるのみです。


「しろうさぎ」さんの投稿をまとめて冊子にして愛行している人が… (5245)
日時:2017年03月07日 (火) 18時54分
名前:破邪顕正


今、教団にいて、いろいろと思い悩んでいる信徒がいます。

そういう人の「目覚まし時計」になるものは何か?

それが「しろうさぎ」さんの投稿なんだそうです。

実際、それを冊子にしてまとめた方の話を伺うことができました。

その方に言わせれば、「しろうさぎ」さんの投稿が、悩める信徒に一番、心訴えるものがあるのだとか。

「しろうさぎ」さん自身が、「組織」の中で長年、苦しんでおられたので、その体験が、そういう悩める信徒の心情にピッタリとくる、共感を呼ぶのだということでした。

「しろうさぎ」さんの投稿が、多くの悩める信徒の「目覚まし時計」となること。

それがこれから、まさしく目覚ましい結果をもたらすであろうことを大いに期待しております。



「しろうさぎの目覚まし時計冊子」?! (5255)
日時:2017年03月08日 (水) 09時13分
名前:しろうさぎ

「破邪顕正」さまに、私の投稿を冊子にして愛行してくださっている
方がいらっしゃるとお聞きし、もうビックリしております。

実は、信頼できる友人から、「岡山県に、免疫の病気を治す、ちょっと変わった名医がいるから、是非行ってみて!」

と勧めてもらい、数年前、岡山県まで、わざわざ行ったことがあるんです。

その診療所の先生、ほんとに変わった先生でしたが、私を診られて、

「あなたは、あなた自身が本来居るべき場所ではない場所にいて、
自分の思いとまったく異なったことをしなければならない…
その"葛藤"が自己免疫の病気の症状となって現れていると思います」

そう診断されたのです。
まさに、その先生の仰る通りでした。

この診療所の宣伝をするわけではないので、今まで投稿を控えておりました。でも、この岡山県の小さな診療所の先生から戴いた助言も本当に
ありがたいものでした。

本来居るべき場所ではない場所で我慢していると、心も身体も悲鳴をあげます。

そういった私自身の体験を通して、「目覚まし時計」になれましたら
こんなに嬉しいことはありません。

「破邪顕正」さま、その方に、どうかよろしくお伝えくださいませ。









“聖使命会費が惜しくて退会するのではない!” (5282)
日時:2017年03月10日 (金) 08時48分
名前:破邪顕正


「しろうさぎ」さんの“目覚まし時計冊子”は、なかなかの好評のようですよ。

その方は、青年会運動の経験者で、その後は仕事や子育てなどで運動の一線からは身を引いておいででした。

ただ、神様とのパイプだけは繋がっていようと聖使命会費だけは納入されていたそうです。

で、久しぶりに「生長の家」を覗いてみたら、その余りの変貌ぶりに唖然。

こんなのは谷口雅春先生の「生長の家」ではない!

自分の浄財が、サヨク運動に使われていたかと思うと残念でならない。

「退会」をすぐ決意されましたが、表題に掲げたように、聖使命会費を支払うのが惜しくて退会したと思われるのはとても耐えられない。

ということで、何か、他に浄財を捧げるところはないかと思って、インターネットで調べられたそうです。

そこで出会ったのが「谷口雅春先生を学ぶ会」だったということでした。

そして、今は、「神様とのパイプだけは繋いでおきたい」として、善意で聖使命会費を支払い続けてきた自らの愚を心から反省し、私と同じような過ちを犯させないために、信徒の眼を覚まさせたい一心で、それには「しろうさぎ」さんの投稿を冊子にして愛行するのが一番と思ってやっているとのことでした。

“本来居るべき場所ではない場所で我慢していると、心も身体も悲鳴をあげます”

この言葉、本当に重要です。

善意の信徒をこの「迷い」から救い出す、その使命が「谷口雅春先生を学ぶ会」にはあると確信しております。

心に響く投稿に心から感謝申し上げます。






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