| ①凡庸の唄 (1)は「無限生長の否定」(競争者によって「生命」が生長させられることをも否定)宣言 (5166) |
- 日時:2017年03月03日 (金) 18時38分
名前:破邪顕正
「凡庸の唄 (1)」にはこうあります。
《凡庸は他を蹴落として 世に先んじようと思わない。 なぜなら凡庸は 自分の技量と 器量を心得ているからだ。 凡庸は諦めているのではない。 凡庸は知っているのだ。》
結局、〝背教総裁〟が言っている「凡庸」とは、何のことはない、今のままの自分でいいのだ、ただ現象の自分を追認しているだけのことなのです。
これは明らかに、谷口雅春先生の人間観とは真逆です。
自分の知らない自分を知ること、そのために自らを陶冶していくこと、それが谷口雅春先生の御教えではなかったでしょうか。
『人生を前進する』の「第六章 毎日何らかの前進をせよ」にはかくあります。
はっきりと“凡庸”の否定が、ここには、記されていますから、しっかりとご確認ください。
《諸君よ、今後「出来るだけの事はやったのですが、旨く出来ませんでした」などという言譯(いいわけ)は一切しないようにしようではないか。
「出来るだけの事をやる」のなら、どんな凡庸(凡人)でも出来るのである。
そんな言譯(いいわけ)をするようでは「私は単なる凡庸兒に過ぎません」と告白しているようなものである。
諸君は、常に「出来るだけ」以上の事を為す事を目標とし、理想として、毎日精進努力を続けなげればならないのである。
「人間・神の子」の自覚は「神の子」なる無限の高き理想と能力とが自己の内に内在するという自覚であるから、どんなに現在の進歩が高度であり優秀をきわめても、常に現状に満足することなく、優秀者は、その優秀の上に、更に進歩を遂げるべき決意をもって、前進また前進の努力を続けるべきである。
そのような努力を続ける者のみが本当に「神の子」の自覚を有する者なのである。》
如何ですか。
教えが完全に真逆になっているというのが、はっきりとわかりますでしょう。
更に、「競争者」の捉え方もまた、谷口雅春先生のそれとは違います。
《競争者の見る世界は 味方と敵に二分される。 争う心は他を傷つけ 自分を不快にする。》
『新編 生命の實相』第1巻7頁以降にかくあります。
《二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
…進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのはいずれもこの現象(ことがら)をいいあらわしたものなのであります。
生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩に打ちまかされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にも打負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々の「生命」は宣告されているのであります。
競争者があるために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。
結局、かかる「生命」はその生長を「鞭撻」して促進するために競争者があらわれたり、苦痛や不幸があらわれたりするのでありまして、競争者や苦痛や不幸は、その人の「生命」の生長には是非なくてはならぬ迷妄(まよい)の自壊課程であります。
この刺激や反省資料があるために吾々の「生命」は反省の機会を与えられ、浄化(きよめ)の機会を与えられ、いろいろの経験を積んで生長することができるのであります。》
これを読めば、誰しも、これは明らかに谷口雅春先生の教えとは違うと断じた私の思いをご理解いただけると思うものであります。

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