| 昭和59年2月16日 生長の家総本山団体参拝練成会御講話 (4961) |
- 日時:2017年02月15日 (水) 20時57分
名前:童子
生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
『91歳の感懐を語る』
皆さん、おはようございます。 よくいらっしゃいました。 有難うございます。 私は今年91歳になります。 そして、やっぱり91歳になると体力がそれ相応に衰えて参りましてね、いつまでも若々しく体力がしっかりしてれば、もっと立派に行き届いて人のお役に立つことも出来るんですけれども、何分体力が老化して来て、自分ではうまく長距離も歩けなくって、車椅子に乗せてもらったりして頂かねば自由になりにくいので、とっとと自分で歩いて行って説教するようなことは仕にくいので、充分に活動が出来ないので歯がゆいのであります。
人間は、日本語では古代の文章に青人草(あおひとくさ)といって書かれておりますが、平家物語にある祇王の唱った歌にも、
もえいづるも枯るるも同じ野べの草 いづれか秋にあはで果つべき
というような諸行無常を詠んだ歌があります。 90歳を越えた私は、しみじみと近頃私自身がそのような状態になりつつあるのを感じて誠に遺憾で、「いづれか秋にあはで果つべき」と時々自分を顧みるのです。
樹木なら秋が来たら紅葉(もみじ)して美しくもなるけれもども、人間は秋が来てもあまり紅葉しない代りに、老化して年とって、だんだん体力が弱って、思うように体が動かなくなる。 真に誠に残念なことであります。 しかし、この老衰ということは、「いづれか秋にあはで果つべき」という祇王の歌の下の句のように、人類は誰もみなこれは経験しなければならないことであります。
吾々は年齢のことを「ヨワイ幾歳」と言いますが、歯という偏の字画を書いた漢字ですね。 この吾々の歯にも寿命がある。 最近になって私はそれを体験しました。 別に蝕歯(むしば)でもなでもないけれども、健康な歯でも、それが90歳を越えると健康な歯のままでだんだん歯齦から浮き上って来て、グラグラして硬いものが食べられなくなって来る。
人は年歯(ねんし)80歳を越え、私のように90歳を迎えるほどの長寿になると、「年歯90歳」と言うように、年を数えるのに歯という字を書きますが、そのように、歯にも寿命がある。 それで蝕歯でも何でもない健康な歯が齦(はぐき)から浮き上って来て、そして「この世の私の生命はこれで終りでございます」と歯自身が言うように、歯が地に着いていないで浮き上ってしまうのです。 それでフラフラしている。 そういう状態に、近頃私自身の体が幾分そういうふうになって来て、誠に歯がゆく思うんです。
私の若い時代に巡錫旅行をして、伝道に一人で走り廻っておった、その時代の私の伝道紀行文が 「明窓浄机」 と題して神誌〈編注・『生長の家』誌〉 の欄に連載されていたものですが、それが私の随筆集 『明窓浄机』 の各巻に収録されています。
最近、その続篇が纏められて出たのが“昭和29年から31年”までの新生篇でありますが、それを読んでみると、生きて動いている伝道紀行という感じがして、若い時代の私が羨しいほど中々よく活動している有様がよく出ておる。
老境に入ってから総本山にいて地方から来る人の話を聞いたり、こちらから何か話してあげているというだけでは、活動的な巡錫紀行の面白さや地方信者の貴い心境を語ることが出来ない。 誠に誠に残念です。
『明窓浄机』 の新生篇を読んで頂くと、宗教家にとって巡錫することが ― みずから歩いて伝道することが、どんなに愉快で楽しくて、健康で、行く先々で歓迎されて、その感激の波に自分も感激いっぱいで、相手の聴衆も感激で、次々と個人指導で生きた体験が語られて、生き生きと伝道しておったことが浮き彫りにされて出て来るんです。
この 『明窓浄机』 の最近の続篇の単行本を、皆さんに読んで頂きたい。 私は自分で読んだのですが、讀むに従ってその時分の若い時代に活動した、その若々しい喜びの感じが、一節一句の文章の中に溢れているのであります。
人間を指して、日本人は「青人草」と呼んでおったのですね、青人草と言って「人」を「草」に喩えたのですね。 祇王の詠んだ「もえいづるも枯るるも同じ野べの草 いづれか秋にあはで果つべき」という、此の歌は、肉体を持った現象人間のやがて遇うべき運命なのです。
若いうちに死んでしまう人はこういう運命を味わわずに死んでしまう。 それはもう何遍も生れ変りの世代のうちにそういう老人まで生きておって、老人の苦しみというものを既に卒業してしまっている人が、もっと早く若々しい時代にこの世の中を卒業して、そしてあの世に行ってしまうのです。
私などは、前生ではその体験をまだ卒業しておらなかったのですね。 卒業しておらんからこそ、こんな不自由な老躯を引っ提げて一歩一歩に苦労艱難しつつ、皆さんの前に出て何か喋らなければならない、これも私の魂の修行の為です。
魂は修行の為に、「いづれか秋にあはで果つべき」を体験するのです。 その一歩一歩が魂の浄化のための修行になっているのです。
紅葉する植物だったら秋になったら美しく紅葉(もみじ)して人に喜ばれけれども、人間という高等生物は秋に遇っても、だんだん冬が来て枯れてしまうのに近づいて来るだけで、老朽や老衰の状態を「紅葉(もみじ)した」と言って讃美してくれる人はいない。 誠に淋し感じがするのです。 しかしこの「寂」の中に、老人でなければ味わえない寂静諦観の深い感じが味わえるのです。
体力が衰えると声も衰えて、皆さんにもっとよく聞えるような大きな声を出そうと思って、一所懸命声を張り上げてもこれ位しか声が出ない。 それだから、ついつい悲観的な思いを漏らして申訳ありません。
人間はみんな生れたら 生・老・病・死 という四つの苦しみを経なければならない。 私はまだ病気ではないけれども、生老病死と病も死もまだ来ないけれども、「老」の苦しみというものも、体験しなければ分らない。
若い人には、老いの苦しみとは如何なるものかということは、それは自分が実際に体験してみなければ分らないものでありますね。 思わず老人の囈語(げいご)みたいな話をしましたが、そこに人間ならでは味わえない深い何物かが感じられるのであります。
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VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學に學ぶ も更新が途絶えて1年になりますね
もっともっと谷口雅春先生をお聞きしたいのですが ・・・
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