| 新刊 「『永遠の武士道』 語り伝えたい日本人の生き方」 多久 善郎・著 (4957) |
- 日時:2017年02月15日 (水) 18時08分
名前:童子
『永遠の武士道』 語り伝えたい日本人の生き方
多 久 善 郎 著
明成社刊 税別 1,800円
「わが国には 〝治に居て乱を忘れず〟 との戒めの言葉がある。 平和の中にあっても緊急の事態・有事を忘れずに備えるとの強い精神である」 とは、本書の序文 「国難を克服した〝武〟の伝統」 の書き出しである。
健全なる国家ならば 「治平」 を保つべく努めるのは当然だが、それとともに、それを護るための 「武備」 が用意されてゐなければならない。 両々相俟って、国家は正しく機能する。 従って、旧敵国日本の勇猛さに手を焼いた米国が、日本国家の健全性を消滅させるべく、その占領軍に武備否定の憲法を起草させ、施行を強要したのは当然のことであった。
問題は、主権回復 (昭和27年講和条約発効) 後も、前文で 「自存努力の否定」 を謳ひ、第9条で 「武備の不保持と戦闘の禁止」 を規定した自虐的で不健全極まる外国製憲法を、「平和憲法」 などと呼称して、70年近くの間、内治・外交・教育の拠り所として来たことである。 その結果が筆者が序文で説くやうに 「米国の属国に堕したかの様な他者依存・利己主義の 〝一国平和主義〟 が蔓延してしまった」 のである。
「しかし、わが国の長い歴史を繙くと …」 脈々たる 「武」 の伝統があることが序文で大略回顧されてゐる。 そして 「… 日本を日本足らしめている精神の系譜が我が国の歴史には厳然として存在する。 それが私は 〝武士道〟 だと思う」 と確言してゐる。
本書は、日本協議会理事長や日本会議熊本理事長などの任にあって愛国的国民運動の第一線に立つ著者(本会会員)が、月刊 『祖國と靑年』 誌に四年にわたって連載したものに加筆修正を施し、さらに書き下ろしを加へたものである。
連載中から読ませてもらってゐたが、かうして一冊に纏められると、壮観であり、改めて筆者の思ひの深さと熱意が各頁から溢れんばかりに迫って来る感じである。
「武士道古典の言葉」 「幕末激動期の武士道」 「明治の武士道」 「大東亜戦争と武士道」 の四章から本書は構成され、140余りもの 〝先人の言葉〟 が取り上げられてゐて、筆者の40年余りに及ぶ読書遍歴をも偲ばせるものとなってゐる。 また、その解説は、単なる語義や背景説明に止まらず、著者の日頃の生き方が滲み出たものとなってゐる。
例へば、第四章 「大東亜戦争と武士道」 の、特攻隊生みの親と称される大西瀧治郎海軍中将の 「後世において、われわれの子孫が、祖先はいかに戦ったか、その歴史を記憶するかぎり、大和民族は断じて滅亡することはないであろう」 といふ言葉を取り上げた項では、その解説は左記のやうに結ばれてゐる (大西中将は、昭和20年8月16日、 「特攻隊の英霊に申す」 で始まる遺書を遺して自決)。
祖国に危機が迫った時、それに身命を賭して勇躍と立ち向う青年が陸続と生れて来るならば国家は守られる。 だが、わが身可愛さのみで逃亡する者ばかりであったなら、他国に隷従するしかない。 国家の独立とはその様にしてしか守られない。 その勇気を抱く事を歴史は訴えているのだ。終戦70年に当る平成27年の8月15日には、例年にも増して多くの人々が靖國神社や各県の護国神社に参拝した。 それも若い人々が多かった。 その姿の中に日本の未来があり、無言の内に他国に対する大いなる抑止力を示しているのである。
熊本市に生れ育った著者は当然の如く宮本武蔵の 『五輪書』 の一節から筆を起す。そして山鹿素行、大石内蔵助 (忠臣蔵)、山本常朝 (『葉隠』)、佐藤一斎、吉田松陰 … とたどり、「会津武士道」 等々を語ってゐる。 「文弱を卑しむ文武両道」 の武家の精神で、幕末・明治の植民地化の危機を乗りきり、それが大東亜戦争まで貫いてゐることが語られてゐる。
本書を読みながら、「平和」 のみを語りたがる戦後体制とは、まさに根を絶たれた浮き草のやうなものだと感じられてならなかった。 憲法は武備をともなった健全なものに改められるべきは至極当然だが、そこには歴史に根ざす精神性の裏づけが不可欠のはずで、本書はそのことを具体的に示唆するものであった。
本書で取り上げられた 〝先人の言葉〟 はそれぞれ 「簡潔な解説」 をともなって見開き2頁に収められてゐて、読者の便に配慮したと思はれる編集上のかうした工夫も有難く、若い世代の読書会のテキストとしても最適ではないかと思った。
(山内健生)
『国民同胞』 第664号 より
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