| 「志恩」さんに感謝申し上げます! (4850) |
- 日時:2017年02月07日 (火) 19時22分
名前:破邪顕正
<愛国本流掲示板>に、「志恩」さんが、私の投稿を〝補強〟してくださっていますので、それをここに紹介させていただきます。
谷口雅宣総裁は、確かに、「補強」を試みていると書いておられました。
「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。
そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義- -例えば自然と人間との関係など--について⭕【補強】を試みている」。 (16387)
日時:2017年02月07日 (火) 19時11分 名前:志恩 谷口雅宣総裁のブログ「唐松模様」より,(全文掲載)
(志恩;注:「補強」の言葉に、わかりやすように、私が、⭕と【 】を付加しました) ___________________________________________________________
2012年10月 1日 (月)
生長の家と自然
私は今年3月末の本欄で、「新年度の始まりに寄せて」と題して今年度の運動の方向性を展望したとき、9・11やそれに続く“テロとの戦い”の昏迷、人間の自然破壊と地球温暖化の進行、さらには東日本大震災とそれによる原発事故など昨今の一連の悪現象の流れの背後に、「神-自然ー人間」の間の不調和があることを述べ、これを解消するためには、これら三者の間の大調和を心に強く描くことが必要であることを訴えた。
そして、そのための方法の一つとして、『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』を本欄に発表して、これを先に出版した『日々の祈り』に収録された祈りの言葉とともに、読者に利用してもらいたい旨を述べた。
その時、これら2つの自由詩の意図についてこう書いたのだった--
「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。
そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義--例えば自然と人間との関係など--について⭕【補強】を試みている」。
この「補強」ということについて、一部で誤解があるようなので少し説明しよう。
私は、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』の中に、例えば自然と人間の関係について「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。
説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。
このほど経本の形で出版された『大自然讃歌』を入手された方はお分かりだが、2つの聖経の中でそれが実際に説かれていた証拠として、経本版『大自然讃歌』では聖経からの引用箇所を鈎括弧でくくって明確に示してある。 例えば、『天使の言葉』にある「外形は唯自己の信念の影を見るに過ぎず」という言葉は、この「外形」を人間に限定して理解する必要はなく、人間と異なる外形をもった生物についても、それを“異物”として排除してはいけないと説いている。
また、同じく『天使の言葉』にある「億兆の個霊(みたま)も、悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なり」という言葉についても、ここにある「個霊」の語は、人間の霊に限定すべきではないと述べている。
さらに、『甘露の法雨』で説かれている「感覚にて視得るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず」という真理に言及して、この「感覚にて視得るもの」も人間に限定すべきでないとしているし、「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」との意味も、自然界すべてに及ぶものだと説いている。
これらのことは、聖経に書かれた言葉をきちんと理解して読めば、初めからそういう意味で説かれているのであるが、これまでとかく見過ごされてきたと思うのである。
つまり、聖経では自然と人間の一体性が説かれているのに、それに気がつかずに読んできた場合も多々あるだろうから、『大自然讃歌』ではそのことを詩文の量的にも、また表現の明確さにおいても、前面に押し出している。
そういう意味での「補強」なのである。
このことは、何も聖経に限られたことではない。
『生命の實相』など谷口雅春先生の他の聖典にも、自然界の事象や出来事を先生自らの“心の鏡”として理解し、そこから学ばれようとする態度は明確である。
例えば、『生命の實相』聖詩篇(頭注版第20巻)に収録された「甘露の法雨」以外の“生長の家の歌”にも、自然界の出来事を取り上げたものが数多くある。
具体的には「生きた生命」「花園にて」「光明の国」「太陽の讃歌」がそれだ。
また、同じ巻の自伝篇の部分に出てくる「野の百合の生きる道」という詩も、野生のユリに先生がご自分の理想の生き方を投影されているという点で、人間と自然との一体性を前提とした作品である。
詩文のようなものだけでなく、哲学的な論文形式のご文章でも、同じことが言える。
自然界の現象を冷静に観察し、そこから真理に到達しようとされる谷口雅春先生の真剣な態度は、多くの生長の家信徒の心を打ったに違いない。
その代表的なご文章は、同じ『生命の實相』第20巻の冒頭にある「ヘビとカエルの闘争」の話である。
読者に思い出していただくために、その一部を引用しよう--
「自分はある日殿様蛙が一匹の小さなる蛇に呑まれる光景を自宅の庭で目撃したことがある。
蛙は蛇に呑まれるべくあまりに大きすぎるためにそれを呑みつくすのに一時間以上もかかった。
その長い間大いなる蛙はその四肢を苦しそうに打ちもがかせながらビリビリと痙攣的に全身を震わしていた。
自分はその蛙でないから蛙が本当に痛がり、また苦しんでいたのかどうかは知らない。
しかしその苦痛そうに見える四肢のもがきや、“生命”の同胞が相食べんでいる光景を“生命”の同胞の一人なる自分がみることは、ただそれを見ることだけでも幸福なる事実でない。
かくのごとき事実を自分は不調和なりと感じないわけにはゆかない」。(同書、pp. 3-4)
このような例を見てくると、生長の家がその立教の当初から「自然と人間」の調和について大きな関心を払ってきたことは疑いない事実なのである。 谷口 雅宣
2012年10月 1日 (月)
唐松模様 http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2012/10/post-7ca7.html

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