《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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三笠宮崇仁親王殿下は男系を守ろうとされた  竹 田  恒 泰 (4172)
日時:2016年12月12日 (月) 13時26分
名前:童子

月刊 『正論』 1月号


 ■ 現皇室の礎を築いた大殿下


 平成二十八年十月二十七日午前八時三十四分、三笠宮崇仁 (たかひと) 親王殿下が薨去あそばされた。 御年百歳であられた。 臣民の一人として心から哀悼の意を表したい。  


 殿下は、戦時中は皇族軍人そして弟宮として昭和天皇をお支えになり、戦後は国民から親しまれる皇室を築く上で絶大なお力を発揮なさった。 現在の皇族方が、様々なご活動をなさり、国民との間に多種多様な接点をお持ちになっておいでなのも、宮様がその基礎をお作りになったからではないかと思う。 皇族最長老であられ 「大殿下(おおでんか)」 として親しまれた宮様だった。


 殿下と妃殿下との間には男のお子様三方、女のお子様二方がおいでで、子だくさんの宮様として知られていた。 ところが、三笠宮家は、あれだけ栄えたにもかかわらず、男のお子様は長男の寛仁親王殿下、次男の桂宮殿下、三男の高円宮殿下ともすでに薨去あそばされ、今般崇仁親王殿下がお隠れになったことで、三笠宮家には男性皇族がお一方もいらっしゃらなくなった。 これにより、三笠宮家が断絶することが確定してしまったことは実に残念である。 
 

 父親としてご子息三方を看取ることのお苦しみはいかばかりであったろうか、想像するに余りある。 平成二十四年に寛仁親王殿下の斂葬の儀 (葬儀) にご出席になった翌日の六月十五日、大殿下はご体調不良でご入院あそばし、心臓の手術をお受けになったことからもそのお苦しみが拝察される。 


 三笠宮は、秩父宮、高松宮に次ぐ昭和天皇の弟宮ご一家で、大正・昭和生まれの人にとっては馴染みが深い。 また、お子様の寛仁親王殿下、桂宮殿下、高円宮殿下はいずれも各方面で活躍なさり多くの国民に親しまれたため知る人も多い。 桂宮殿下は生涯独身でいらっしゃったが、寛仁親王殿下のお嬢様お二方、高円宮殿下のお嬢様お三方ともすでに成人あそばし、近年は精力的に御公務をなさっていらっしゃる。 特に高円宮殿下の次女であられる典子女王殿下が出雲国造家の千家家にお嫁ぎになったことは、国民的な慶事として多くの国民が祝福した。 平成生まれの人も、たとえ三笠宮殿下を知らずとも、お子様方やお孫様方を知っている人は多いであろう。 


 このように、たくさんのお子様方やお孫様方が、自らの個性を活かして伸び伸びとご活躍になるのも、大殿下の皇族としての型にはまらない自由な発想とご性格の影響によるものが大きかったのではないかと思う。


  ■ 外国語を学ぶ意味とは


 大正四年 (一九一五) 十二月二日に大正天皇の第四皇子としてご誕生になった崇仁親王殿下は、四人兄弟の末っ子であられた。 同じ大正天皇の皇子でも、長男と四男では全く別の人生を歩むことになる。 大正十五年 (一九二六) に大正天皇が崩御となると、長男の裕仁親王殿下は天皇にご即位になり、崇仁親王殿下は十一歳にして 「天皇の弟宮」 となった。


 その後、殿下は明治以来の慣習に従い、軍人としての道を歩むことになる。 昭和七年 (一九三二) に陸軍士官学校にご入学になり、陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校をご卒業になる昭和十六年 (一九四一) 十二月、日本は米国との戦争に突入。 殿下は戦争中の昭和十八年 (一九四三) に、お印の 「若杉」 にちなんで 「若杉参謀」 を名乗って皇族の身分を隠し、支那派遣軍参謀として南京に赴任した。 中国では総司令部の通訳官をしていた木村辰男が、三笠宮殿下の中国語教師に任命された。 既に殿下は中国語を勉強していらっしゃったようで、木村が初めて殿下に拝謁した時、殿下は中国語を研究する抱負を次の様に話していらっしゃったという。
 


 「自分は過去において英語を学んだ。 〔中略〕 英語を勉強していると、自然と英語を使用している民族に対する理解が出来てくる。 一切の言動に好感がもて、かつ親愛の情がわいてくるものである。 〔中略〕 自分が今日、中国語を研究せんとするのはそのためであって、必ずしも中国語を学んで、中国人との直接意思疎通を図り、また外交的な道具に供することを主眼とするものではない。 中国および中国人を深く理解したいという念願からである。 異民族を理解するための最短距離は、まずその民族が平素用いている言葉を学ぶことだ。 況んや中日の関係が今日の如く、戦争状態にある秋にこそ、その必要を殊更、痛感する」  (木村辰男 「南京の若杉参謀」 『週刊朝日 (臨時増刊)』 昭和二十七年三月二十五日号) 

  

 将来学者となられる殿下らしい論理的思考もさることながら、異民族を理解しようとする深い人間愛を感じるのは筆者だけではないであろう。 


  ■ 皇族軍人の軍批判


 昭和十九年一月五日に南京で行なわれた尉官に対する教育で、殿下が二時間に亘って日本軍の反省について語ったその内容は、実に衝撃的なものであった。 この講和の記録によると、冒頭で殿下は次の様に仰せになったという。 


 「戦争指導の要請上、言論は極度に弾圧せられあり。 若干にても日本に不利なる発言をなし或は日本を批判する者は、たとえ真に日本を思ひ中国を愛し東亜を患ふる情熱より発するものといえども、之を遇するに日本人に在りては 『売国』 を以てし、中国人に在りては 『抗日』 『通的』 あるいは 『重慶分子』 を以てせらるる。 今日一般幕僚に於ては大胆なる発言は困難なり」  (若杉参謀 「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。 一部の漢字表記とカタカナ表記をひらかなにし、句読点を補った)



 当時は言論が厳しく制限され、軍の参謀が自由に 「日本に不利なる発言」 をすることができないなか、皇族であるが故に言わねばならないとの強いご信念から御発言になったことと拝察される。 このなかで殿下は、日本軍の軍紀が乱れていたことを憂慮なさり、支那事変が解決しない原因は 「日本軍軍人の 『内省』 『自粛』 の欠如と断ずる」 と、強い言葉で日本軍の問題をご指摘になった。  


 この日本軍を批判する御言葉は、終戦後に語られたものではない。 戦時中に、戦地において百二、三十人の尉官を前にして講義なさったもので、当時はタブー中のタブーとされる内容だった。 当時、たとえ皇族であっても、これほど明確に軍を批判する記述を残した方はいらっしゃらない。 その後、殿下は大本営参謀となり、陸軍少佐で終戦をお迎えになった。 


 昭和天皇がポツダム宣言受諾の御聖断をお下しになると、それを翻意させようとした阿南惟幾陸軍大臣が三笠宮邸を訪れた。 この時殿下は 「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた」 と仰せになり、大臣の要請をお退けになったという。 帰りの車のなかで大臣は低い声で 「そんなにひどいことを仰せにならなくてもよいのに」 とつぶやき、ひどく落胆した様子だったと伝えられる。 その阿南大臣が八月十五日未明に自決したことは周知の事実である。
   

 また、終戦後の早い段階で、殿下が天皇の譲位について独自のお考えを示していらしたことは、いま注目されている。 天皇の譲位に関して、殿下は終戦後の昭和二十一年十一月に 「新憲法と皇室典範改正法要綱(案)」 と題する意見書をお書きになり、皇室典範改正を審議していた枢密院にこれをご提出になった。 その中で殿下は、崩御以外に譲位の道を開くべきであると書いていらっしゃる。  


 結局殿下のご意見は採用されず、新皇室典範に譲位の制度は盛りこまれなかった。 その翌月、殿下はこの点について 「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」 との意見を新聞に掲載なさった。 七十年も前の時点で明確に譲位を肯定していらっしゃったことは、先見の明と言うべきであろう。  



 このように皇族軍人として激動の時代を生き抜いた殿下は、終戦後は全く異なる世界に身を投ぜられた。 殿下は昭和二十二年 (一九四七) 四月から東京大学文学部の研究生となり、古代オリエント史のご研究に没頭なさった。 通学では電車とバスをお使いになった。 昭和三十年 (一九五五) からは東京女子大学で、皇族としては初めて教鞭をとり、その後も東京芸術大学、青山学院大学、専修大学などでも授業を受け持った。  先述の中国語同様に、殿下はオリエント史を研究するにあたり、『旧約聖書』 の原典を読むためにヘブライ語を学習なさり、流暢にお話しになるほどに達せられた。 その他、英語、フランス語も堪能であられた。 殿下は日本オリエント学会設立を提言なさり、会長にご就任になったほか、中近東文化センターと日本トルコ協会では名誉総裁をお務めになった。


 
  ■ 「赤い宮様」 と呼ばれたが ・・・


 昭和三十年代に、二月十一日を 「神武天皇ご即位の日」 としてかつての 「紀元節」 を復活させる運動が起きると、殿下は次のように反対意見を表明なさった。 
 

 「歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。 もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば、いかにみごとな歴史を組み立てても、それは砂上の楼閣にすぎない。 私は重ねて歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに、科学的根拠、いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励、心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って、改めて日本古代の神話継承の研究をさらに押し進めるような感情論から、学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない」  (崇仁親王殿下 「紀元節についての私の信念」 『文藝春秋』 昭和三十四年一月号)


 確かに、四世紀以前は国内で文字は使用されていなかったため、その時代の固有名詞や日付は伝わらない。 『日本書紀』 に記された神武天皇ご即位の日は、後世にそう決めたものであり、それをグレゴリオ歴に換算して得られた 「二月十一日」 を史実として断定することは学問的に問題であるという主張は、学者としての良心に照らし合わしてのことと拝察する。  


 このご指摘に対して、復帰を推進する立場の里見岸雄が 「宮は、観察眼を正確にして直視されなければならない」 と公然と反論するなど、数多くの強い批判にも晒され 「赤い宮様」 とも表現された。 筆者は、史実はともあれ 『日本書紀』 に書かれていることにちなんで、差し当たりその日を建国の日と理解して祝うことは別段問題ないと考えるが、史実と神話を混同させてはいけないこともまた重要である。 そのため、皇族であられる殿下が学者としてご指摘をなさったことは意義深い。 日本軍の問題を目の当たりにし、戦時中に軍批判をなさった殿下には、神話の不確実な部分を事実と断定して国民に押しつけることを嫌悪なさったのではないかと拝察する。 
 


 明治時代の日本は冷静だった。神話は神話として価値があり、神話を歴史的事実として国民に押しつけることはしてこなかった。 具体的には、大日本帝国憲法と教育勅語を起草した井上毅は、これらに神話を持ち込むことを嫌い、天皇の根拠は神話ではなく、歴史に求める態度を貫いた程である。 ところが、先の大戦では、政府は神話を事実と混同するような態度を取り、天皇を 「神」 として扱うようになった。 紀元節復活に当たっての三笠宮殿下のお考えは、そのような過去の戦争の反省から素直に表現なさったと思う。



  ■ 小泉政権下の皇位継承議論



 かつて 「赤い宮様」 と詰られたこともある三笠宮殿下だが、小泉政権下で女性天皇・女系天皇を容認する皇室典範の改定が議論された時には、明確にこれに反対のご意見をお持ちになったという。 

 以前の殿下の考え方に立てば、「万世一系」 は神話要素を含むものであるから歴史的事実と断定できないと仰せになってもおかしくはない。 ところが、殿下は伝統的な皇位継承原理に変更を加えることを良しとなさらなかった。 たしかに、殿下はこの問題について御自身のご意見を公表していらっしゃらない。 しかし、ご子息の寛仁親王殿下が、崇仁親王殿下と妃の百合子殿下が共に女性・女系天皇に反対であられることを公言なさった。 私も寛仁親王殿下からそのことを直接伺った。 

 小泉政権が女性・女系天皇を成立させる動きをしたのに対し、寛仁親王殿下は、これに反対するご意見を福祉団体である柏朋会の機関誌に寄稿なさった。 このことが、読売新聞によって拡散された時に、寛仁親王殿下は、お母様の百合子殿下に電話なさり、「読まれましたか? 親父はどう考えているのかしら?」 とお尋ねになったという。 この時のことは次の様に記事にお書きになっていらっしゃる。 
 




 
本当は、私 〔寛仁親王殿下〕 が発言するより皇族の長老である父 〔崇仁親王殿下〕 に口火を切ってもらいたかったわけです。 すると、母 〔崇仁親王妃百合子殿下〕 の話では、父は宮内庁次長を呼んで、あまりに拙速な動きについてクレームをつけているということでした。

  これは去年 〔平成十七年〕 の十月ぐらいの話です。 ああそうか、それは結構なことだ、もっとどんどんやって欲しいなと思いました。 それから 『お袋は女帝・女系になったら大変なことになること、わかっているの』 と聞いたら、『もちろん大変なこと』 だと言っていました。 

 その後、父が年末に来たときに、『いいことを言ってくれたね』 と、一言いって、さらに 『八人の女帝』 (高木きよ子著) という単行本を 『読んでおいて欲しい』 と持ってきて、それから月刊 『文藝春秋』 一月号に工藤美代子さんがお書きになった論文を、『私の意見はこれと同じである』 と、娘の分までコピーして持ってきてくれました。 ですから三笠宮一族は、同じ考え方であると言えると思います」 (寛仁親王殿下 「皇室典範間題は歴史の一大事である 〜 女
系天皇導入を憂慮する私の真意」 『日本の息吹』 平成十八年二月号。  ただし〔 〕内は筆者注) 



 寛仁親王殿下が仰せのように、本来なら皇族の長老であられる崇仁親王殿下が意見を表明なさればより重みがあったであろう。 しかしながら、ご子息の寛仁親王殿下も大変なご覚悟の上でご発言になったことと拝察される。 そのようなご覚悟で寛仁親王殿下がご発言になったことにつき、お父様の崇仁親王殿下は 「いいことを言ってくれたね」 と仰せになっただけでなく、同意見の論文をお孫様の文までコピーしてご持参になったというのであるから、余程強い信念をお持ちのことと思う。



 ■ 陛下の御意思の真相


 ところで、小泉政権下の皇室典範議論で、間接的ではあったが、私から崇仁親王殿下にあるお願いをしたことがあった。 今思い起こせば、誠に畏れ多いことである。 紀子殿下のご懐妊によって、小泉政権下での皇位継承議論は沙汰止みとなった後の話である。 私たち男系維持を是と考える一派は、麻生政権において、男系維持のための皇室典範改定を目指していた。 
  

 そこに、思わぬ横槍が入った。 時の政府高官が語ったとされるある噂が永田町を駆け巡った。 噂とは 「麻生総理の内奏の折に、天皇陛下が女性天皇・女系天皇を望んでいらっしゃることが伝えられた」 というものだった。 「内奏」 とは、内閣総理大臣が折に触れて参内し、政治の状況などを陛下にお伝えすることである。 もしそれが本当なら、男系維持を切望する我々一派の活動は、陛下の御意思に反していることになってしまう。



 この噂は、内容が具体的だったため、相当信憑性の高い情報とされたが、私はこの噂は偽情報と考えていた。 噂を流したのが政府高官か、それともその周辺の人物か定かではないが、この噂を流した人物はこの情報の真偽を確認できる者はいないと考えていたのであろう。 真偽を確認する手段が存在しないが故に、情報を流した者勝ちと考えたのであろうか。  


 私は寛仁親王殿下に、この噂は本当でございますかと伺った。 すると殿下は 「陛下がそのようなことを仰ることは絶対にない」 と断言なさった。 そこで殿下は 「念のため、おやじ 〔崇仁親王殿下〕 に頼んでその噂が本当かどうか確認してきてもらう」 と仰った。 それから暫くして寛仁親王殿下からご連絡があった。 崇仁親王殿下が参内なさった際に、陛下にこの噂の真偽を直接お尋ねになったところ、陛下のお答えは 「麻生総理の参内の折に、皇位継承の話が出たことは無い」 というものだった。 何とあの噂は嘘だったのである。 


 政治問題につき、ありもしない 「陛下の御意思」 を捏造するとは言語道断である。 この時の陛下の御言葉は、陛下がお身内に発せられたものであり、本来はその御言葉の内容を公表することは憚らなくてはならない。 しかし、ここから陛下が皇位継承にどのようなお考えをお持ちであるか分からない。 「女系継承が陛下の御意思」 というあの噂が嘘であったことが分かるだけである。 さすが陛下のお答えだと、深く感心致した次第である。 したがって、私はこのお答えは公表してよいと考え、この機会に書かせて頂いた。 


 女性・女系天皇を望むという 「陛下の御意思」 の真偽を確かめるために、御尽力くださったこの一件から、崇仁親王殿下は、男系継承にとても強いこだわりを持っていらっしゃったことが窺える。 このように、殿下は右翼でも左翼でもなく、まして 「赤い」 などと揶揄されるような方ではあられない。 昭和期までは 「天皇の弟」 として、平成の御世では 「天皇の叔父」 として、また戦前は 「軍人」 として、戦後は 「学者」 として、常に良心に照らし合わせて正しいと思し召されたことを、正直に勇気をもってご発言になっていらっしゃったのであろう。


 
  ■ 自由で明るい皇室像

 殿下は、四方の兄弟のなかでも末っ子でいらっしゃった。 大正天皇の長男の裕仁親王殿下は天皇に、また次男の秩父宮殿下は万一の時に天皇になる方とされた。 ところが、秩父宮殿下は昭和十六年 (一九四一) に結核で療養生活にお入りになったため、三男であられる高松宮殿下が、万一の時に天皇になる方とされた。 よって、長男から三男までは特別な存在であられたが、四男の三笠宮殿下はそのような特別な地位にいらっしゃらなかっただけでなく、一つ上の高松宮殿下とも十歳も年が離れておいでで、ご兄弟のなかでもお一人だけ自由な環境でお育ちになった。 しかも、大正天皇と貞明皇后のご意思により、四兄弟のなかで三笠宮殿下だけが両親の元で育てられた。


 そのようなことが影響してか、殿下はご幼少期から伸び伸びとお育ちになり、軍人としての立場をお離れになってから、益々個性を発揮なさったように思う。 学者として業績をお遺しになっただけでなく、天皇の名代として、流暢な外国語を駆使して数々の国際親善を担っていらっしゃった。 また、ダンスをなさるお姿は、国民から親しみを持たれ、戦後の皇室像形作の過程で尽力なさった。


 殿下の自由で明るいご性格が影響してか、お子様方もお孫様方も、自由で明るいご性格の方ばかりで、皆様、様々な分野でご活躍なさっていらっしゃる。 そして、三笠宮家だけでなく、東宮ご一家、秋篠宮ご一家にも大きな影響をお遺しになった。 三笠宮殿下なくして、現在の親しまれる皇室は無かったのではないかと私は思っている。






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