《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「生政連」解散の背景にはやはり谷口雅宣総裁がいた?! (346)
日時:2016年02月02日 (火) 12時19分
名前:破邪顕正

表題は、「山ちゃん1952」さんの「生政連活動停止の真相は?」と題する投稿を読んでの実感です。

私は、「谷口雅春先生ご昇天後、生長の家はどう変わったのか-谷口雅宣教団30年史」において、その書き出しをこう記しています。

>○昭和58年…「生政連」解散(活動停止)(総裁は、当時、生長の家理事)

教団の変質の淵源は、まさにここにあると思ったからです。

それを証し立てているのが、「山ちゃん1952」の今回の投稿であります。

関心のある方はぜひ、それを読んでいただくとして、これだけはぜひ知ってもらいたいと思うのが「トキ」さんの次の投稿です。

》トキ:2011/06/20(月) 13:24:00

<政治活動停止の疑問点>

教団の政治活動停止の経過は、今日でも公になっていない点が多いです。

政治活動停止が正しい決定だったとしても、段階的な廃止という手段もとれたはずです。

なのに、何故、いきなりの停止だったのか、疑問があります。

当時、「聖使命」新聞紙上に掲載された、「生長の家政治連合解散、政治活動の停止」についての声明文は、今から思うと、谷口雅宣先生のご文章と類似点があるような気がしております。

気のせいでしょうか?

最近、公表された村上氏の回顧録を見る限り、谷口雅宣先生が生長の家政治連合に極めて批判的な言動を当時からしていたようです。

谷口雅春先生が、生長の家政治連合の解散の報告を聞き、激怒された、という噂が教団内部に今日でもあります。

が、教団の公式見解、ならびに本流復活の中にも、谷口雅春先生はご納得されていた、との事です。《

ここで重要なのは、この一文です。

“谷口雅宣先生が生長の家政治連合に極めて批判的な言動を当時からしていた”

今でも、語り草になっているのは、谷口雅宣総裁が公衆の面前で「生長の家政治連合会長」の玉置和郎議員を面罵したことでした。

それが如何に“非道い”話であるか。

「光明掲示板・第二」にある中村晃生氏の投稿が大いに参考になります。

》<偽物>の教えと<本物>の教えとの違いの考察⑪ (8181)
日時:2014年05月13日 (火) 05時44分
名前:中村晃生

<産経新聞記者にさせてもらうも、政治部記者になれず「社会的な」挫折を経験する>

今から思うと、彼の心がねじれた「原因」がもう一つあります。

それは彼が「社会的な挫折」を経験した――せっかく産経新聞の記者のなったのに、目指していた「政治部記者」になれなかったことです。

当時、「生長の家」の推薦議員として参議院で活躍していた玉置和郎先生が、教団の意向を受けて「お孫さん」であるマサノブ氏の留学から帰国した後の就職活動に奔走します。

すなわちマサノブ氏念願の新聞記者――産経新聞への就職――であります。

玉置先生が動いてマサノブ氏が同社に就職できたことは、私たち事情通の間ではいわば「公然の秘密」でありました。

確か当時、教団側が相当部数の産経新聞の購読を同社からしたはずで、そのことが「マサノブ氏の就職と関係がある」と、噂されたものです。

彼が入社して間もない頃、私は玉置先生の秘書から参議院議員を目指していた村上正邦先生から、当時いた青森市まで電話を頂き、「マサノブ君が産経に入ったので、新聞記者の経験談の話をして貰えないか」との要請を受けました。

当時、私は読売新聞記者で青森支局に勤務していました。

いうなれば私が新聞記者としての先輩に当たるから――との配慮であったのでしょう。

彼とは東京の料亭で会って会食をし、いろいろ話をしたことを覚えています。

彼は横浜支局に配属され、新聞記者としての「ヨチヨチ歩き」を始めたころでした。

もっともその当時の彼は、新聞社での新しい仕事に意欲を燃やしていたのでしょう。

まだ従順な一面を覗かしていたものです。

しかし、彼はわずか数年で産経新聞を止めます。

私も当時の事情は分かりませんが、何か自分の気に入らないことがあったのだと思います。

<本当は、政治部記者から政治家になりたかった?>

その後、私は原宿の「生長の家」本部で、彼と何回か会ったことがあります。

その都度、彼は私に声を掛けてきました。

そして聞くことは決まって「政治部に入られましたか?」でした。

私が、政治部記者になることを目標としていたことを彼が知っていたからです。

その都度、「いやまだだ」と答えていましたが、なぜそのことばかり聞くのかが理解できず、よほど彼も「政治部記者にまだご執心なんだな」と、考えたことがありました。

彼が教団に入って数年経った頃、私は新聞記者を辞めて、伯父の田中六助代議士(当時、大平内閣の官房長官だでした)の大臣秘書官になりました。

その当時、長崎の本山に田中六助先生と、大きな行事に参加するため、一緒に参詣したことがありました。

会場で、私の姿を見かけたマサノブ氏は、ツカツカと私に近寄って来るなり突然、「玉置は嘘つきだ!」と、大きな声で言い放ったのであります。

余りにも唐突な言葉に、私はビックリし、一体何のことを彼が話そうとしているのか、良く理解できませんでした。

ただ玉置先生は、彼にしてみれば「大恩人」のはずです。

その「大恩人」のことを口汚く罵るとは、「何というヤツだ」という感じを持ったことは確かです。

ただ、その悪口が、実は彼が産経新聞社で一介の記者から「政治部記者」になり損ねたためであった――というのは、後日知ったことです。

今、考えればおそらく玉置先生は彼に――「君も頑張れば、数年で政治部に入れるよ」――ぐらいのリップサービスをしたのかもしれません(政治家が支援者を喜ばすために良く使う手です。

もちろん、悪気はないのですが・・・)。

でもマサノブ氏は、それを本気に受け止め、同社内で自分が期待していたような「政治部記者」になれなかったため、「嘘つき!」発言が出たものと思われます。

しかし、これは彼が「世間知らず」のために出た発言です。

産経新聞の場合も変わらないと思いますが、「政治部記者」は選りすぐりのエリート記者しかなれません。

いかに谷口雅春先生の「孫」であろうが、社内でそれなりの評価を得ないでいきなり「政治部記者」にはなれないのです。

私の場合も青森支局での6年間の地道な地方部記者生活(これを我々は「ドサ回り」と呼んでいました)を経て初めて「政治部記者」になれるのです(もちろん優秀であることが条件です)。

その後、彼の周辺の人物から聞いたところでは、マサノブ氏は一時期、本気で「政治部記者」になり、ゆくゆくは「政治家」になりたかったとか・・・

その意味で言えば、彼は相当に「権力志向」の強い人物なのでしょう。

やはり、「宗教家」には初めから向かなかったのかもしれません。《


もとより、こういう個人的な憾みが背景にあって、谷口雅宣総裁が「生政連」嫌いになっただけではないと思います。

その後の言動から、谷口雅宣総裁は、「生政連」の愛国運動そのものが本質的に嫌いだった、思想的に合わなかったと見て間違いないからです。

「光明掲示板・第一」にこのような投稿があります。

》〈唖然!〉自衛隊は「人殺し集団」なんですと?! (7803)
日時:2013年04月21日 (日) 14時30分
名前:「靖国見真会」参加者

谷口雅宣総裁という人は、驚くべき思想の持ち主だったんだということが、どんどん漏れ出ています。

さすがに、こんなことは秘匿しておかなくてはならないと思っていた方も、ここまで谷口雅宣総裁の横暴が歴然としてくると、もはや秘匿する必要なしと考える人も出てきたようです。

話しはずいぶん昔に戻ります。

谷口雅宣総裁がまだ本部の総企画局長だった頃の話しです。

第2次中曽根内閣で、村上正邦元参議院議員が防衛政務次官に就任しました。

ある方が、それを報告にあがったところ、谷口雅宣総裁は何といったか?

「ふーん。村上さんは、人殺し集団が好きなんだ-」

いやはや、こういう思想の持ち主だからこそ、産経新聞を嫌い、朝日新聞を読めと信徒に推奨し、そして民主党支持を高らかに宣言するのだと合点がいった次第です。

それにしても、自衛隊を「人殺し集団」と言いますかね。

そう言えば、「自衛隊は暴力装置」と言ったのは、民主党の仙谷由人元官房長官でありましたね。

なるほど、総裁が民主党を支持するというのは、こういう「自衛隊」観においても同じだったからだと受け止めることもできそうです。

こういう思想をもった谷口雅宣総裁を「生長の家総裁」として担ぎ続ける人の神経が、私にはとても理解できません!《


こういう思想の持ち主が、裏で「生政連」解散を企図したとしても何ら不思議はありません。

「生政連」解散後、谷口雅宣総裁は、ご存知のように、実に政治的な発言、しかもサヨク発言を繰り返したのですから、そう言われても抗弁のしようがないと思うものであります。




解散の真相が明らかになってきて (351)
日時:2016年02月02日 (火) 19時49分
名前:月見草

「生政連」の解散は谷口雅春先生の御心ではなかったと、これまで何度も聞いたことがあります。

では誰が・・・そんなことが出来るのは・・・と。

教団の衰退ぶりを見るとやはり思い当たるのは、雅宣総裁であろうと思っていました。

これだけ具体的なことが記されていれば、雅宣総裁という人がよく分かります。

そうだと思われても不思議はありません。

もしそうならば、この頃からすでに教団はオカシクなってきていたのですね。

その時点で何か打つ手はなかったものかと、とても悔しい思いがいたします。

天地の違い。 (354)
日時:2016年02月02日 (火) 22時18分
名前:中仙堂

産経新聞もそんな、あまちゃんを抱えて居る程の二流、三流の新聞社では有りません。
どんな組織でも不満分子、無用の人物は排除されるのがおちです。

ご自分で、信徒の浄財にしがみつかず、ご自分だけの力で、ご商売でもしてご覧に成られれば良い人生体験に成ると云うものですよね。

突然法灯継承等と聞いた事の無い、事を辞書かなんかで見つけてあれこれ策を弄したのでしょうが、全てが祖師と天地の違い。
お粗末過ぎると思います。

「破邪顕正」さまへ (359)
日時:2016年02月03日 (水) 11時30分
名前:月見草

いつもありがとうございます。

投稿を読んで、より真相に近づけて気持ちがすっきりしています。

良しにつけ悪しきにつけ、真実が知らされないことには気持ちが落ち着きませんね。

以前、目の前で本部講師の人たちが「生政連の解散は、○○(二代目総裁)がやったんだ!」と呼び捨てで話しておられたのを聞き、とても悲しく思ったことがありました。

でも、やはりその裏には雅宣総裁がいたんだと納得しました。

これまで具体的なことは、私などには伝わることもありませんでしたから。

これが正解なのか多少違うこともあるかは知れませんが(私は間違っていないと思います)、

真相が明らかにされることは、きっと同じ過ちを繰り返さないことにもつながり、今後の教訓にもなると信じます。

そういう意味でも、雅宣総裁の為された事実を明らかにして頂けることを、とても有難く思っております。

「月見草」さんへ (382)
日時:2016年02月05日 (金) 19時41分
名前:破邪顕正


投稿、ありがとうございました。

>投稿を読んで、より真相に近づけて気持ちがすっきりしています。

そう言っていただいただけでも、これを投稿した意味があったと思っております。

「谷口雅宣教団の30年」の始まりを「生政連の解散」から説き起こしたことは決して間違いではなかった。

真っ当な判断であったとますます確信を深めてきております。

谷口雅春先生は、おそらく「生政連活動の凍結」を了承されたのであって、決して〝解散〟を了承されたのではなかった、というのが私の見立てであり、確信でもあります。

つまり、「凍結」を「解散」にまでもっていた人が裏で暗躍していたということです。

そう考えると、いろんなことが判然とし、またすべての辻褄があってきます。

「谷口雅宣教団の30年」をまとめて改めて思うのは、もはや〝SNI教団〟が谷口雅春先生の教えに戻るというようなことはありえないという思いです。

少なくとも、内から、そんな動きが生まれることはない!

「フェスタ」の動画を見ていて、そのことを強く実感しました。

谷口雅宣総裁は、生長の家の信徒を間違いなく、骨抜きにしてしまいましたね。

残念ですが、致し方ありません。

〝SNI教団〟に期待できない以上、谷口雅春先生の御教えの正統なる団体が生まれなければなりません。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、その願いに応えていきたいとの思いで、ますます精進してまいります。


目から鱗 (387)
日時:2016年02月06日 (土) 10時10分
名前:なるほど

これが事実なら雅宣氏がのちに解散に追い込んだのが事実のようですね。要するに

生政連活動凍結(停止であり政治団体としては存続していた)
⇒⇒生政連完全解散(政治団体登録抹消)の間には数年の時間があり、その間に雅宣氏が介入して追い込んでいった。という事ですか。

26 :エンジェル:2011/06/21(火) 22:22:02 トキさまが書かれた<政治活動停止の疑問点>についてのⅠ考察のために

 実は私もこの事が本当はどうだったのか知りたくて(古今物語の掲示板でも話題になったことがあったので)
もしかしたらあの当事雅春先生の最もお側におられた貴康先生ならご存知かと思いうかがった事があります。
 それまでは、清超先生が政治活動を嫌っておられてという噂もあったのですが、お話を聞いて驚きました。

私が、清超先生は政治活動がお嫌いだったのですかと貴康氏にお聞きすると
「好き嫌いの問題ではない、僕は玉置和郎の事務所で一年間丁稚奉公させられたんだよ、預けられたりは清超先生だよ笑、嫌いな世界に息子を預けはしないだろーよ」
「それでそのうちに玉置先生に見込まれちまって村上さんもいたんだけど俺の跡継ぎになってくれないかと誘われてね、僕も若かったから本気にしちゃって・・・」
「て゛もね、清超先生はおまえは生長の家を勉強して政治家ではなく政治家を使う立場の人間になれと言われたんだよ」
だからその後長崎の雅春先生の下に行かれたのだそうです。でもこの当事は選挙のたびに全国を応援に行き、特に村上さんの初当選の選挙では奥さんの臨月の日を超えて駆け回り、村上さんの当選確実が出た日にMさんは生まれたそうです。

 さて、二回目の(一度雅春先生自身が活動停止を言われたことがあります)生政連の活動停止(凍結)になった時の話ですがここからは実際にお聞きしたことを
会話形式にして書きます(文責はエンジェル)
「あの日ね、清超先生から朝お電話があってね、あんたは政治活動にとても興味があったし誤解の無いように伝えておきたいことがあって・・・」
(実はこの当事、総本山の落慶大祭後、長崎に貴康先生の尽力で長崎『玉置会』が三菱関係を中心とした企業が参加して出来上がり、地方議員連盟も大いに拡大中で貴康さんも各地に応援に行かれていた等の背景があったようです)

清超先生「生長の家は自民党に結局利用されてしまったことは君も今度の法案の扱いや名簿順位の扱いで理解していると思う」
     「信徒をこれ以上純粋な信仰活動よりも政治に関わらせて失望させるわけにいかない。ここは一時政治活動を凍結して純粋な信仰活動にもどり、
      圧倒的な信徒の増大を図って出直さなければならないと考えたわけで、先ほど雅春先生にこの決断をお伝えして了解を戴いたところだからね理解して欲しい」
 貴康氏 「活動の凍結とは信徒数が倍増した日には再び政治活動に参加するということですか」
 清超先生「そう思ってもらってもよい、ただ自民党と今までのように協力するかはわからない」
 貴康氏 「もし信徒さんを拡大できたら自分たちの政党を作る可能性もあるのですか」
 清超先生「そういうこともあり得る、何しろこれからは政党に他の団体と天秤にかけられるようなことの無いように信仰的に熱烈に、
      信徒数においても圧倒的な力を蓄えなければならないということだ」
 貴康氏 「そういうことならば全く異論はありません。先生のおっしゃる通りです」

このようなお話があったそうで他の誰にもしばらくはお話にならなかったそうです。
 このことから解るように、生政連は一活動が凍結されそれは、解散と云うことではなかったわけで
実際、経理上も生政連の会計と財産はその後何年も残っていたようです。



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