《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《シリーズ解体 第1弾》谷口雅宣三代目総裁によって失わしめられたもの  その1 ― まごころの結晶である本部会館の解体 ― (14592)
日時:2023年02月01日 (水) 17時13分
名前:護法の天使

シリーズ解体≠フ開始にあたって


生長の家の三代目総裁となった谷口雅宣氏は、創始者谷口雅春先生を裏切り、み教えを改竄(かいざん)すると共に、尊師が心血を注いでおつくりになった組織や機関誌や由緒ある建物などを次々と解体していきました。

 本シリーズでは、谷口雅宣氏がこれまで解体、失なわしてきたものを順次報告し、現教団の変貌を明らかにしてまいります。

 まず第一弾として、“本部会館の破壊”についてご報告します。


谷口雅春先生のおこころざし


 大東亜戦争終結後、谷口雅春先生は日本の実相顕現≠フために神誌を復刊されれ、講習会・地方御巡錫を再開されましたが、不当にも公職追放を命じられ、人類光明化運動の一歩後退を余儀なくされました。

その公職追放が解除される頃から、運動を大きく全面的に展開する機運が巻き起こり、段々と当時、赤坂にあった本部仮道場が手狭になってきました。

 そうした中、昭和25年8月に開催された高野山での御講習会で、谷口雅春先生は次のような本部会館建設の構想を発表されたのです。

 「生長の家では『生命の實相』が神殿であるけれども、運動の拠点になるものが必要である…、それはまた万教帰一運動の展開として、海外の光明思想界との接触交流もある折から、日本の中心である東京から世界に向って光をかかげる燈台が必要である」(『生長の家四十年史』)

 このお言葉を受け、信徒が真心を結集して取り組むこととなったのが、本部会館の建設運動でありました。


 百万信徒によるまごころの献資


『生長の家』誌昭和26年3月号に「本部会館建設計画」が発表されるや、終戦から日も浅い中、貧しい時代にもかかわらず信徒からは真心の献資が次々に寄せられました。

尊師は同誌「明窓淨机」欄で、毎号のように感謝を述べられました。

「出来ない中から色々の工夫をして献金の口数を殖やして下さる人や、兎も角一年分前納献金して下さる人や、まことに感謝で目頭が熱くなる想いです」(昭和27年5月号)

「信徒及び誌友諸賢の尊い血のにじむような赤誠…中には自分の田地を担保に置いて融資を受けて献金して下さる人もあれば、そのためにとて普通の一人前の仕事のほかに薪売りをして献金を生み出して下さる人もある。…私はこれらの人々に合掌させて頂くのである」(昭和27年7月号)

「生活困難中に「百円」を拝む心で奉納される人もあります。建ち上る講堂、円塔、まことに皆様の誠心で輝いております」(昭和27年12月号)


魂の殿堂*{部会館の落慶


 今読んでも瞼が熱くなるでしょう。

かくて昭和26年7月、清水建設によって着工。

立教25周年の昭和29年3月1日、信徒の真心の結晶として本部会館は落慶を迎えました。

当時の「捧堂式典参列記」には、全国から集まる人々の様子が記されています。

 「皆今日の一日を、一日千秋の思いで待ちつづけた人達であり、皆この一日のために、乏しい中からでもこの四年間、毎月の献金に心をくだき、その故にこそ今見事に完成した聖堂の捧堂式に、千里を遠しとせずして集った人達である」(『生長の家』昭和29年5月号「捧堂式典参列記」より)

(続きます)

《シリーズ解体 第1弾》谷口雅宣三代目総裁によって失わしめられたもの  その1 ― まごころの結晶である本部会館の解体 ―(承前) (14593)
日時:2023年02月02日 (木) 10時44分
名前:護法の天使

 式典でご挨拶に立たれた尊師は、

この会館は参拝するための神殿ではなく、人類光明化運動の運動本部であり、神示された『見真道場』が立教二十五周年にして今此処に完成したのである

とお示しになりました。(同「捧堂式典参列記」より)


 落慶祝賀と立教25周年記念行事は8日間にわたって盛大に開催され、約一万名が参集。

谷口雅春先生による聖経『甘露の法雨』の連続講義(後にテープ・CD版『甘露の法雨講義』、『新講「甘露の法雨」解釈』として発行)が行われ、また、当代一流の芸術家等による奉納演芸も連日行われました。

 谷口雅春先生は、本部会館の完成について次のように述べておられます。

 「この建物は神に捧げられたる建物である。

建物はただの物質であるけれども、それは百万信徒の「まごころ」の結集である。

「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。

けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。

それは太陽の光を凸レンズで結集すると紙を焼くことが出来るように、「まごころ」が結集してこれだけのものが建つとき、人類の魂に一層容易に火をつけることが出来るのである。

これから人類光明化の力が一層早くなるであろう
」(『生長の家』昭和29年4月号「明窓淨机」)


 谷口輝子先生のおよろこび


 とはいえ、建設募金は決して順調に進んだわけではありません。

戦後の食うや食わずの時代、大変な努力を要しました。

 本部会館竣工時点で、六千五百万円(現在の貨幣価値で約4億円)の未払金が残っており、金利だけでも月に五十万円(同、約三百万円)がありましたが、「借金つきで神様には捧げられない」と、「特別臨時完済献金」運動が澎湃として起こりました。

これに加えてさらに不足金を、「教団債(信徒からの借入金)」を発行して調達しました。

 谷口雅春先生は、当時の献資者一万五千名全員に感謝のお気持ちを込め御揮毫を授与されましたが、

一日に大体平均百七十枚は書くのである。…一分間の休みもなく…私は正味二時間にわたって、間断なく、前屈みで左の手で体の重を支えながら、筆を走らすのである。大分、重労働である」(『生長の家』昭和31年2月号「明窓淨机」)と述懐しておられます

 かかる苦難の中で完成した本部会館であればこそ、谷口輝子先生は感慨深く次のように語っておられます。

余りにも荘厳な、美しい堅固な本部会館の完成を仰ぎ見た日は、苦難多き幾年月を経て来ただけに、嬉しくて有難くて涙あふるるばかりであった。

この会館は、総裁(谷口雅春先生)の愛念と、全国信徒の感謝の真心とによって完成されたみんなのものであると同時に、今後まだまだ救いを求めて来る無限の人々の道場でもある。

 空高くそびえている円塔の尖端には『生長の家マーク』がキラキラと陽光に輝き、塔内の『祈りの間』では、毎日幹部の人々の熱誠こめられた祈りが行じられている。

實相顕現に到らずして、さまざまな病苦や生活苦に悩む人々や、希望の達成を願う人たちの申込を受けて、それらの人々の幸福のために祈りがつづけられているのであった
」(『生長の家』昭和34年3月号「この三十年≠フ回想」)


日本の宝であり、世界に誇る宗教建築であった本部会館


 本部会館を設計されたのは、建築学会の重鎮、東大教授岸田日出刀(きしだ ひでと)博士であり、前掲の「捧堂式典参列記」には、同博士による経過報告がまとめられています。

 そこには、
万教帰一の大理念をもつこの生長の家の本部という場合、それらの既成の型に従ってはならないし、単なる教会建築や社寺建築になってはならない。

(岸田博士)の苦心は主にこの点に注がれた。

併し結局は谷口先生の御考えを唯無心に受入れて、それを建築技術的にまとめるという態度で全ての事にあたった


と記されており、本部会館は谷口雅春先生が心を込めておつくりになった建物であると同時に、日本の宝であり、世界に誇る宗教建築でもありました。

 因みに、東京大学安田講堂、衆議院・参議院議長公邸は同博士の設計によるものですが、工事現場に自己専用室を設け、最後まで直接監理の労をとられたのは、本部会館が初めてであったということです。


尊師のご愛念と信徒のまごころを破壊した谷口雅宣総裁教団


 信徒の皆さん!!

このような谷口雅春先生のご愛念と、百万信徒の真心、そして最高の設計・施工で完成した本部会館を、耐震工事を施せば半永久的に使用可能であった建物を、谷口雅宣氏は破壊したのです。

 真の弟子であればこの所業をゆるすことができるでしょうか。

谷口雅春先生がおつくりになられたものを次々に解体する谷口雅宣氏。

本部会館の破壊はその象徴でありました。

 さらに原宿本部会館の解体に乗じ、全国信徒の信仰の結晶であった御神像は、光明の塔≠ゥら撤去され、今、八ヶ岳の雅宣教団の原っぱで野ざらしにされています。

 次号は、この御神像の撤去≠ノついてご報告いたします。

(引用の原文は一部旧漢字、歴史的仮名遣い)



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