《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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第二次大戦中、ロシア兵から「陸の特攻」と恐れられた若き勇敢な日本兵がいた (14531)
日時:2022年10月14日 (金) 23時39分
名前:コスモス

https://www.facebook.com/shunichirou.mori.9/posts/pfbid0Rqd3TWn6aaLifc3Wyk54TV1E3NgiMJCazE8BKZcMjxyiDnKUciY7FJsnLi9d4psml

森進一郎


■陸の特攻・・終戦間際、中立条約を破ってソ連が満州に侵攻してきて、逃げ惑う日本人で大混乱していた


■荒木正則氏率いる士官学校の生徒、まだ十五、十六歳、武器もないので、爆弾から火薬を取り出し布にくるみ、戦車の下に潜り込んで爆発させた


■ソ連兵は驚愕して陸の特攻と呼んで恐れたという


■評論家の武田邦彦氏の父上は当時技師で満州にいたが、このときの陸の特攻のお蔭で日本に帰れたそうです。


虎ノ門ニュースでそのこと氏に触れ、それから私は生まれ、この士官学校の生徒さんのお蔭で生を受けて、本当に恩義に感じていると、涙ながらに話して居られたのは忘れることは出来ません。
永遠に語り継ぐべき英雄的な行為だと思います。



西村 真悟
15時間 ·


磨刀石の勇者、
最後の帝国陸軍軍人を見送る


昨日、令和四年十月十三日、
荒木正則さんを見送った。

荒木さんは、大正十三年七月七日、熊本県宇土市に生まれ、
満州の石頭予備士官学校に学んだ。

昭和十六年の第十二回銃剣道明治神宮大会に
満州国代表として出場し奮闘した。

昭和二十年八月九日、
ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州に雪崩れ込んできた。

八月十三日、
荒木さんは石頭予備士官学校生徒七百五十名と共に、
ソ満国境付近の磨刀石で、ソ連軍戦車部隊を迎撃した。

武器は、学校にあったダイナマイトしかなかった。
よって、その戦法は、
地面に蛸壺を掘ってそこに潜んで戦車が近づくのを待ち、
爆弾を抱えてソ連軍戦車の下に突撃することだった。

彼らは、肉弾となって多くの敵戦車を屠った。

七百五十名のうち生き残ったのは百名余だった。

ソ連軍は、驚愕して彼らを「陸の特攻」と呼んで恐れた。


荒木さんは生き残り、
シベリアのラーゲリー(収容所)に送られた。


そして、数年間、
「飢えと、寒さと、重労働」の日々に耐え続け、
その間、生死の間を彷徨う重傷を負いながら
生き延びて内地に帰還できた。


帰還の後、新日本製鉄株式会社にて懸命に働き、
平成六年より、シベリア慰霊訪問に参加し、
それから、九十二歳までシベリア遺骨収集活動を続けた。


その間、ロシアの新聞は、来訪した荒木さんを
「磨刀石の勇者が来た」と写真入りで報道した。


平成二十八年、遺骨収集従事者百三十名を代表して
厚生労働大臣より感謝状を賜った。


同時に、シベリア抑留の体験を後世に伝える
啓蒙活動を亡くなるまで続けた。


本年、夏、体調を崩し、
令和四年十月十日、九十八歳の生涯を終えた。


荒木さんの、話方や姿勢は最後まで軍人そのものだった。
共に戦った戦友達のことを辱める言動には、激しく怒った。


九十歳を過ぎても、
辱めを受ければ、殴りかかることも躊躇しなかった。


それ故、奥様の荒木スミ子様は、
昨日、次のように書かれていた。


病床にありながらも常に國の在り方について考え
最後まで憂国の士としての精神を貫いた夫
国体護持を盤石にし国家の大義を成すことを
誓って尽力した姿勢に敬慕の念は尽きません
長い間お疲れさまでした

これからは
大日本帝国陸軍軍人として護国の鬼となり
靖國神社に眠る英霊と共にどうか祖国日本の
行く末を見守っていてください


荒木さんの棺が閉じられるとき、
葬送のラッパが響き渡り、
そして、
「海ゆかば」が謳われた。
荒木さん、また会おう!

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