《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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實相獨在 (14472)
日時:2022年09月03日 (土) 22時37分
名前:下総の野人

合掌ありがとうございます

誌友会で偶々「榎本恵吾」先生のことが話題になり、以前にご文章をほんの少し抜粋したものを作っておりまして、方々に出ているかもしれませんが、ご紹介させて頂きます。再拝

◎“今をよろこぶ”生活のヒント―原題「研修のヒント」―

人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。
 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。

 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。
 そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。

われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。

◎榎本恵吾先生「天地の初発に立ちて―人類光明化運動の楽的展開論」の「序曲」より

もう二十年も前のことだが、私は大学の哲学科に通っていた時、どうしても心が明るくなれず、『生命の實相』ばかりに読みふけり、二十日も授業を受けに出ず四畳半の間借部屋で懊悩していた。

ある人は花の散るすがたにこの世の無常を観て出家した。私はそのころ、青年会の運動がどうしてこのように無常なのか―会員が集っては散って行く、その度に一喜一憂する―と、はじめてこの世に「常恒なるもの」を求めはじめたのであった。

この一喜一憂を越えて常恒なる平安に達するには、現象的な運動を“無”と否定して、それへの執着を断たなければならなかった。―そこにこそ霊の戦士同士の嫉妬も消えるのである。“ある”と思うからこそ執着するのであるから、“無し”と否定すれば執着が消えるのである―という声が自分の中でした。

しかし、実際、それは出来得ることであろうか。青年会を否定することは人類光明化運動を否定することである。―ここで私は難問にぶつかった。その否定しようとする内なる声に対して「しかし、今自分がこのように“無常”と否定すること、現象の無いことを生長の家で教えられた―具体的には『生長の家』誌から、『生命の實相』から、尊師の講話から教えられたのである。もしもこのことがなかったならば、今の私はないであろう。それが現実であり、事実ではないか。これはまさに人類光明化運動のお陰である。どうしてこれを否定することが出来ようか。それに、否定することは大なる忘恩である。信徒たるべきものの道に反することではないか」という声がしたのである。

するとまた他方で、これに対して「人間とは、悟りとは、そんな相対的なものなのか。本に助けられなければ、そしてご講話に助けられなければ完全になれないのでは絶対ではないではないか。それでは人間は不完全であり、因縁によって助けられなければならず、それは結局は創造主の不完全性をあらわすことにほかならない。不完全なるものを神とは言い得ないから、神は無いということになる」―こんな声もした。

私の心の中で、この三つの声が常に対決し互いに交錯し、主張し合っていた。

どうにもならない心のままに、ある日私は便所を掃除していた。その時、自分の心の中に「アブラハムの生れぬさきよりわれは在るなり」というキリストの言葉がポッカリと出て来た。つづいて私は釈迦の「吾れは成仏してよりこのかた、百千万億那由他阿僧祇劫なり」というあの『生命の實相』の中で読んだ言葉を思い出し、そしてそこに書かれていた尊師の「吾れはキリスト以前よりあり、釈迦以前よりある、天照大御神と一体の生命である」というお言葉を思い出した。

キリストは自分を生んでくれた先祖のアブラハムを否定して自分自身に真理を体現し、釈迦は現象的時間と自己の修行を否定して真理なる自己を体証した。そして尊師はさらにその真理なるキリスト・釈迦をも越えて絶対の自己を現成されたのである。ここにはもはや相対的に救うものもなければ救われるものもない。唯、あるのは無原因にして自ら立つ自己があるのみ。“前後際断”といい、“師に逢うては師を殺せ”というのもこれみな、“無原因の自己”“絶対なるもの”の消息から鳴り出したコトバではなかったのだろうか。そして尊師のおっしゃる「正覚は因縁の理を説きながら“本来因縁無し”の実相を悟れるものである」ということであり、“因縁を超える”ということなのではないのだろうか。“因”とは原因のことであり、“縁”もまた原因の延長にほかならない。

〈では、私も私を導いてくれた人類光明化運動を否定し、百尺の竿頭に最後の跳躍をなさなければならないであろう。一切を否定したその絶対の空所を『生長の家』というのではないか。そしてここに立った時、久遠の尊師のみふところのどまん中に抱かれている真の自己を発見し、人類の光明そのものである自己を発見するのではないだろうか〉

―私はようやくにして、立つべきところと向うべき道を得ようとしていた―。

◎榎本恵吾先生「生長の家立教五十周年を迎えて」(岡正章・榎本恵吾編著『光りのある内に』日本教文社、昭和54年)より

立教五十年を迎えて、尊師の御恩徳を思うとき、ただ涙あふれて、尊師のみ前にひれ伏し土下座して感謝の思いを表わしたい。ただ合掌礼拝至尊尊師である。

しかし、われわれはこの御教えにふれてはじめて神の子になったのであろうか。そうではない。はじめのはじめから何ものも不足しない完全円満具足の神の子なのである。尊師は、あの神から啓示をお受けになってはじめて神の子となり給うたのであろうか。そうではない。久遠の昔から尊師は尽十方光明遍照の如来にましますのである。「生長の家は久遠の昔からある」と知り、「我らもまた久遠の昔から尊師の弟子であった」ということを知って、この久遠の尊師のみむねに飛び込んだとき、万物に尊師のいのちの輝きを観ることができる。すべての真なるもの、善なるもの、美なるものをみるとき、そこに尊師のいのちを拝することが出来る。花をみても、空を見ても、山を見ても、川をみても、太陽をみてもそこに尊師の愛を拝することが出来るのである。ここに来て、私達は尊師の何者におわし給うかをほんの少し予感することが出来るのではないか。

尊師がこれこれのことを人類のためにして下さったから有り難い、と思うことも、たしかに尊い心ではあろう。しかし、「何々をしていただいたから有難い」というようなことだけでは、久遠の尊師にまみゆることは出来ないと思われる。ただただ「合掌礼拝至尊尊師」なのである。

「尊師のみあとに続こう」とも言われる。しかし、吾々は、尊師のみ光りを背に受けて尊師の光りの先となって、尊師のみ前をすすむものである。神武天皇が太陽を背にして天照大御神の光りの先となって進まれたごとくに!!

住吉大神は天照大御神の前を進み浄化のおはたらきをされる。天照大御神のみあとをしたって後から行くのでは意味をなさないのである。吾々もまた尊師の光りの先となって、尊師のみ前を進もう。私たちは今、此処、此の身、このままで光りであり、尊師の光りの先として立っており、光りは進みつづけているのである。

世を照らす光りとなるために、これまでの宗教等では、無限の年月と修行が必要であるとされていたのであったが、生長の家は“現象無し”と、その年月と修行を切って落としてしまったのである。そして、此の身このまま、人間は神の子完全円満なる光りそのものの座につかせられたのである。無条件で吾等は光りに生れかわったのである。照らされる自分から照らす自分への生れかわりである。この光りは、無条件に内より生れたものであるが故に、外の形の如何なるものによっても手をつけることも出来なければ崩すことも出来ないのである。そして、無限創造の神とともなる金剛不壊のこの光りはただ進み、拡大するのみなのである。後退はあり得ないのである。この不断に拡大する光りを観じつづけ、拝みつづけてゆくことこそが光明化の基礎であり、そして誰でも今すぐに一人ではじめられる光明化ではないか。

今、自分は光りである。畳の上に坐っておれば、その光りで畳を光りと化しつつあり、柱を、障子を、窓を、光りと化しつつあることを観じよう。道をあるけば、道路を、周囲の人々を、木々を輝かせながら歩いていることを観じよう。そして、光明の金剛不壊の第一歩を踏み出そうではないか。それは誰にでも今すぐに出来ることなのだ。今までに私たちが発したどんな小さな愛念でも、たとい形として実らないように見えたことでも、ひとたび発せられた愛念の輝きは、永遠に消えないのだということを銘記しよう。

たとえば、み教えのご本を持って人の家をたずねたが、引越してしまって誰もいなかったとしよう。それでは、道のために発した想いは形にみのらず、はいて捨てられたようなものであろうか。そうではない。ひとたび発せられた愛念の輝きは、光明化という神のノートに永遠に輝きつづけるのだ。尊師の光りの先として、輝くあなたを迎えたその家は、如何ばかり神の栄光に輝き満たされたことであろう。

この光りを観じつづけよう。無条件にわが内に神より与えられている光り、永遠に形を超えて拡大することしか出来ない光りを!!

◎榎本恵吾先生著『弟子像』より

尊師は「物質なし」と、全く物質を払拭されて一物も残さないのである。肉体を解決し、全宇宙を解決し、払拭し、宇宙を浄め終り給うたのである。尊師谷口雅春先生の至尊なる輝きがここに誕生し給うたのである。人類は永遠に新たなる光りの誕生を迎えたのである。盡十方無礙光尊師である。
 
それ故、生長の家では『生命の實相』という書物も、“物質無し”と自ら死に切っているのである。生長の家は自ら自分を殺し、自分で消えているのである。そこには無我の輝きが燦然と輝いているのである。“この本がお前たちを救うのである”とか“この教えが、私の説法が、お前たちを救うのである”という姿ではないのである。

ただただ合掌礼拝がわが内から湧出して真理が歌われ出したのである。それ故生長の家の教えは、萬人を教え導くというよりも天地一切を礼拝し祝福する教えなのである。

なぜならば神は、み佛は宇宙に満ちて欠けざるご存在であり給うからである。

神とは佛とは求める必要のないものであり、信ずる必要のないものである。

求める必要なくして、信ずる必要なくして今、ここ、この身、このままですべてを満たし、生かして下さっているのがまことの神、佛である。

私たちの中に信が生まれるのも生長するのもすべてが神であり、佛であって、人間の自分の力で“信じよう”とするのは神のいのちを横領していることである。(以上「まえがき」より抜粋)

唯神實相とは、ただ神であり、ただ實相なのである。ただ、ただであって、理由は何もないのである。理由があればそれは神ではなく、實相ではないのである。われわれはなぜ谷口雅春先生を拝むのであるか。それはただである。どうして拝むようになったか私は知らないのである。あゝであるから、こうであるからというのは真の拝みではないのである。谷口先生は人類を救ってくださったからと云う理由があるのは無の関門を透過していなのである。それでは谷口先生よりも沢山の人を救うことの出来る人が出て来たならば尊師を拝むことが出来なくなるのである。

生長の家が世界の平和のために役立つから大変尊いことであると認めてくれる人がいるが、生長の家が尊いのは真理であるからであって、どれだけ役立つかによるのではないのである。たとえ、生長の家が出現することによって世界が破滅し無に帰することがあっても生長の家の説くところが真理であるからただひたすらやっているだけなのである。(以上281頁より)

その意味において、谷口雅春先生が日本の實相をお説きになるのはそれは真理であるからであって、世界の平和に役立つからではないのである。唯々ひたすら日本の實相礼拝なのである。天皇仰慕も、ただひたすらに天皇仰慕なのであって、それが真理であるからであって、天皇が国民のためにあゝして呉れたとか、こうして呉れたとか、世界の平和のためだとかというためではないのである。天皇がいられることによって世界が破滅してもそれが真理であるから、ひたすら仰慕の念が湧き起るのである。(282頁より)

神とは佛とは實在とは、すべてに満ちて今ここに既に在るものでなければならないから、神とは求める必要のないものであり、自覚という人間の心によってつなぎとめておいてからはじめて存在するというものでもないのである。求める必要がなく、知る必要なくして今ここにあるもの、生きてあるものが神のいのちである。求め、知るという自分そのものが要らないのである。

それ故に、これは生かされているという以外はないのである。

實相は不完全を知らず、不完全は實相を知らず、不完全は實相に針の先一つもつけたすことは出来ないのである。

暗は光りを知らず、光もまた暗を知らず、光りは暗と一度も出逢っていず、光りは暗を経験していないのである。

ただただ、光りは光りであり、實相は實相であり、完全は完全である。最早、人間の努力修行の入る余地はどこにもあり得ないのである。(以上440頁より)



谷口雅春先生―吉田國太郎先生―藤原敏之先生―榎本恵吾先生の系譜






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