《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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管理人も涙を知っています。昨日一応終了した管理人のtapir論評を御覧になって、「管理人は理屈や論理で人を問い詰める冷酷な人だ」と思っている人がおられるかもしれませんが、伝統さんが昨日紹介して下さった下の話に涙を浮かべない人間ではありません。伝統さんに感謝いたします。 (13928)
日時:2021年12月23日 (木) 10時53分
名前:管理人

      *「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より

某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、

その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。


「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。

ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして突然起ったのであります。

しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。

私はこの福岡市のものでありまして、

この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、

一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。

幸いにして私は中位で当選しました。

私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、雑誌の名前を見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかったのであります。

それから後(のち)1年を過ぎまして、最近までも関心は持っていなかったのであります。

ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
 
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。

実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、

もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、

前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたのでありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。

私は特に皆様に申し上げたいことは、

私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、何もしないで朝から晩まで、ただ《もの》を考えるだけであります。

どうも魂の慰めがありません。

そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。

これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。

だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを見つけ出すにはどうしたらいいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。

それは、

『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
 
こういうようなことが書いてありました。

私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。

あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。

そういう中でこの

『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
 
ということを知らされたのであります。

いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、その他の宗教の本なんか読んだのですが、

すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない。

―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ―― 

私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか…と考えたものであります。

今時間がありませんから、早く申し上げますが、

何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうか…と思いました。


あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
 
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。

それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。

そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、

それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。

もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、ともかく深切でないのです。

その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
 
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。

二升五合ばかり入る甕があるんですが、

それがどうかしますと足らないのです。

一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。

なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、
 
貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。

みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。

そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、

朝から非常に気持ちが悪いんです。

いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
 
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
 
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、 考えまして、

これはひとつお礼を言ってみよう、
 
そう思いついたのであります。

1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。

それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。

そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。

お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。

初めは悲観しましたね、

『こんな奴にお礼を言ってみる私はどうかしている、もう止めようか』と思ったりしたのですが、

『生命の實相』には『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。

今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて傲慢な気持ちがあったのでしょう。

その傲慢な《こちら》の気が相手に映って、『なんだこの野郎』というのだと気がついて、

お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、

『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして

雑役囚が何か持って来てくれるたびに

『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。

私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、二日三日四日となると自然とちがってきました。

今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』

こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。

あそこでは水が実に欲しい所ですが、

ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、

そういう時に向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで、余った水をわざわざ持って来て、

『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。

始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが

『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。

『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。

そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
 
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。

監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
 
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。

平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは

『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
 
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たちから慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。

私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。

『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、本当に分ってきたように思います。

この気持ちで一つの社会に立って行こうと、

こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。

したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとって

どのくらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。

わたしの審判はこれから公判をやるのですが、

判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。

わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。

これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。

実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
 
ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見るかたがた上京して参ったのでありますが、

あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、

ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
 
本日は時間がありませんから申し述べませんが、

ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、非常に朗らかであって、

今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に 参上したのですが、

あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちになったことで、

いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。

私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。

これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。

電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。

あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、

わたしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受けることと思います。

日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
 
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」


道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。

すすりないている婦人もあった。

そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。

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