『君民同治の神示』『限りなく日本を愛す』を拝読させていただいては心を鎮めております (13785) |
- 日時:2021年10月28日 (木) 16時05分
名前:破邪顕正
「月見草」さん、投稿ありがとうございました。
こと皇室に関して、不敬に当たるようなことだけは厳に慎まなければなりません。
「月見草」さんのお気持ち、察して余りあります。
私なりに、心をどう鎮めているか、書いておきたいと思います。
まず、『秘められたる神示』にある「君民同治の神示」を繰り返し、拝読させていただいています。
この中に、こうあります。
《観る主体(民)の神聖性が包まれ蔽われて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽われて発現しなくなるのは其のためである。今の状態がそれである。》
この「神示」が尊師に天降ったのは、昭和20年12月28日午後12時であります。
ですから、ここに言う「今の状態」というのは、当然、当時の、終戦直後のことでありましょう。
しかし、それこそ、この「今」とは、ただいまの令和3年10月のことではないのか、そう思えてならないのです。
唯物論的人間観に彩られた「占領憲法」のもとで、国民は長いこと、そこに謳われている〝人権〟や〝自由〟に酔いしれてきました。
その国民の心が、そのまま皇室に投映されている…。
私は『限りなく日本を愛す』にある、次のご文章をこそ、注目すべきであると思っています。
《天照大御神の御神勅には「我れを見ること此の鏡を見るが如くせよ」と仰せたまいました。天皇の御位を鏡をもって象徴せられておりますので、国民の心意が其処に炳焉として映るのであります。》(76頁)
皇室とは、国民の心をそのまま鏡のように映し出されるご存在である…。
であれば、私たち国民一人ひとりが、どういう〝心意〟をもって臨んでいかなければならないのか、それが問われているように思うのです。
《天皇は絶対者にましますとは、観る主体たる人間(民)の絶対性より来る。民が自身の絶対性の把握が破れるとき、その反映として国の絶対性と天皇の絶対性とは破れるのである。》
心したい「神示」であると改めて痛感している次第です。
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