《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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本音では、尊師36年祭を執り行いたくないのでは…?今のような状況では、とても尊師に合わす顔などないでしょうから… (13442)
日時:2021年06月02日 (水) 09時43分
名前:破邪顕正


6月17日は、尊師36年祭の日であります。

ところが、教団本部は次のような通知を出しているようです。

千葉県教化部のホームページからご紹介します。

〈“森の中のオフィス”における年祭は山梨県ならびに長野県で新型コロナウイルスの新規感染者が確認されない日が2週間以上続いている場合に執り行われます。〉

本気で年祭をやる気があるのであれば、果たして、こういう条件をつけるでありましょうか。

恰も、やりませんよと言っているも等しいように感じてしまうのですが…。

とにかく、年祭に対する熱量というものを少しも感じない…。

尊師をご尊敬申し上げる思いの欠落がこういう通知を出すのではないのか…。

でも、考えてみたら、今の教団ではそれも致し方ないのかもしれません。

だって、現状では、とても尊師に合わす顔などないでしょうから。

尊師は卆寿の式典で何と仰せられたか?

《…やがては此の私が、いつかはこの地上から姿を消すように見える時には、谷口雅春はとうとう亡くなられたと思う時がくるかもしれんけれども、決してなくならないんです。又、お目にかかります。皆さんもその時には又別の立派な生き生きとした姿で現われておられて、そして再会、再び会うことができるのであります。再びどころではない。何回でも、神の子たる吾々は神縁深く全ての人々に、一度会った人に、別れるということは決してないのであります。必ず再び、三度(みたび)、四度(よたび)…繰り返し生まれてきて、そして、気がつかない人もあるけれども、それは神縁深く、吾々の兄弟姉妹として会った凡ての人々の生命を表現している人達であります。
 そういうように、生命の実相≠ニいう方から見るとですね、人間は死なないものだということが解るのであります。皆さんも死なないのです。私も死なないのです。そして又、度々お目にかかる機会がきますから、その時にやはり今日の如く多勢集まって、いや今日よりももっと広い会場ができて、そこに集まって、御挨拶を申し上げ、その挨拶を受けて下さることになると信ずるのであります。…》(『理想世界』誌・昭和58年2月号)

いずれの日か、必ず、私たちは尊師にお目にかかる機会が@^えられます。

その際、尊師にどんなご挨拶が出来るか。

それを常に考えて生きて行くのが、本当の、本来の「生長の家の信徒」のあるべき姿ではないでしょうか。

ところが、今やどうですか。

尊師の御心に添っているとはとても言えない教団になっているのではありませんか。

これでは、尊師に合わせる顔などないでしょう。

だから、年祭は出来ればやりたくない…。

しかし、それをあからさまにはなし得ない…。

だから、条件をつけた…。

そう勘ぐりたくなるほどの、今回の通知ではないかと思うものであります。


「谷口雅春先生はもう亡くなっているんですよ」と言うしかない現教団信徒の、その心の葛藤を思いやってみると… (13454)
日時:2021年06月04日 (金) 11時30分
名前:破邪顕正


現教団信徒が吐いた言葉で、私が最も衝撃を受けたのが、表題の言葉です。

人間、死んでも死なない、永遠生き通しの生命だということが少しも理解されていないのではないのか…。

しかしそれにしても…と、どうしてもそう思ってしまうのです。

「生長の家」に入信したら、少なくとも、永遠生き通しのいのちぐらいは判っていると思うからです。

聖経「甘露の法雨」の末尾に、こうあるのですから…。

《人間の本体は生命なるが故に
常に死することあらざるなり》

にもかかわらず、どうして表題のようなことを言い放つのか…。

やはり、そこには何かある…。

私なりに、その信徒の深層心理に穿ち入ってみると…。

よし、尊師が今もなお生きて導いておられるという立場に立つと、色々と不都合が生じる、齟齬を来してしまう、そういう思い、懸念があるからではないのか…。

そもそも、次の世で尊師にお合いし、ご挨拶申し上げなければならないとしたら、果たして今の自分のままで尊師に合わす顔があるであろうか…。

果たして、胸を張って尊師にご挨拶できるであろうか…。

そう考えるだけで、いろいろと苦しい思いが吹き上がってくる…。

その苦しみから解放されるには、もう尊師は亡くなられて此の世にはおられない、そう思い込むことにする…。

そういう思いが働いているからではないのか…。

結局、それもこれも、すべては、現総裁の説く今の教え≠ニ尊師の教えとでは全然違う、根本的に違う…。

そこに起因するのだと思うのです。

そして、信徒も、そのことを直観的に理解しているからこそ、現総裁に中心帰一する以上は、尊師の御存在を無視してかかるしかない…。

表題の言葉は、そういう信徒の、苦渋の判断からきている…。

そういう理解をして、これは信徒自身の問題ではない…。

現総裁に専制支配されている現教団の本質的な問題なのだと、そう捉え直していきたいと思っている次第です。


案の定、現教団は36年祭を中止すると発表しました! (13467)
日時:2021年06月07日 (月) 09時38分
名前:破邪顕正


表題のことが、現教団のホームページに、次のように掲載されています。

〈来る6月17日に予定されていた「谷口雅春大聖師三十六年祭」において谷口雅宣・生長の家総裁の御挨拶のライブ配信を実施する計画でしたが、山梨県および長野県の新型コロナウイルスの感染状況に鑑み、同行事の開催を中止することになりました。それに伴い、同ライブ配信も中止いたします。

ご視聴を予定されていた皆さまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、感染拡大防止のため、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

2021年6月4日〉

感染防止≠恰も錦の御旗のようにして、何でも中止ですか…。

尊師の36年祭は、徹底した感染防止策を講じてでも、何としても執り行わなくてはならない…。

どうして、そういう判断ができないのか…。

限られた本部職員だけでもいいではありませんか。

尊師への敬慕の欠如がまざまざと現れた…。

そのように思えてなりません。

そう言えば、世界聖典普及協会の売り上げ10傑にも、尊師の『聖典』は入っていないようですね。

創始者をこんなにも軽んじて、本当にいいのでしょうか…。


36年祭の中止で、創始者がいらなくなった教団≠ナあることがはっきりとしました! (13471)
日時:2021年06月08日 (火) 08時51分
名前:破邪顕正


『生命の實相』がない、「聖経」がない…。

それに加えて、創始者も要らない…。

それが現教団である…。

そう定義してもいいのではないでしょうか。

尊師36年祭の中止の決定を見て、私はそう確信しました。

もとより、その判断を下したのは、現総裁でありましょう。

つまり、現総裁は尊師36年祭を回避する行動を選択したのです。

何故、そうしたのか。

現総裁にとって、創始者はやはり怖いのです。

叱られる!という思いが、なかなか抜けないのだと思います。

そう言えば、かつて現総裁が語っていましたよね。

「谷口雅春先生の思い出を何かご披露ください」という信徒の要望に対して、現総裁が何を語ったか?

「味噌汁を零したのをすわせられた」

まさか、そんな話が出てこようとは、誰も想像だにしていなかった…。

尊師の偉大な一面を語ってもらえると期待すればこその問いだったのに…。

現総裁だって、信徒のその要望の背景に、どんな思いがあったかは重々、判っていた筈です。

しかし、にもかかわらず、現総裁が敢えて味噌汁の話を持ち出したのには理由がある…。

信徒の、その尊師仰墓の心の世界を打ち壊したかった…。

「尊師だって間違われる」という話とこれは好一対なのです。

つまり、現総裁にとって尊師のご存在とは、自分ががやりたいことを自由にやるためには、その前提としてどうしても軽いものにしておく必要性があったということなのです。

裏を返せば、それだけ、現総裁は、尊師の教えに反逆する思いをずっと潜ませていたということなのです。

ですから、それを考えると、36年祭で尊師を思い出すということは、現総裁にとっては決して嬉しいことではない…。

それどころか、却ってまた叱られる!という思いが吹き上がってくる…。

そういう存在として尊師はあるということなのです。

それはそうでしょう。

現総裁がこれまでやってきたことを尊師が見られたら、間違いなくお叱りになられる、私はそう確信いたします。

新編『生命の實相』第6巻「生命篇」にある、次の箇所を拝読させていただけば、それは誰しも首肯せざるをえないのではないでしょうか(96頁〜)。

《郷土愛、更にそれが大きくなっては祖国愛…日本に生れた日本人は日本を愛し善くすることによって世界に奉仕し、人類に貢献すべきであります。日本人が日本的であることが、世界のためになるのは、桜の木が桜の花を咲かせることによって人類を喜ばすのと同様であります。国民がその国土に生れて、その国土から恩恵を受け、自分が現在安穏に生活を続けられているのも全て国土のお蔭です。国土の恩(おかげ)と同時に、その国土の開発につぶさに艱苦を嘗めつつ努力して来られた祖先の賜(たまもの)でもあります。此の恩この賜の一切を否定してしまって、祖国などはどうでも好い、祖先の意志などというものはどうでも好いものだというように祖国に対して反逆的思想をいだくということは、恩の否定、賜の否定、感謝の否定ということになって、これは神の道−−人の道ではないのであります。
神の道といいますが、人間は神の子でありますから、神の道とは人の道のほかにはないのであります。吾々の父祖が遺愛の記念品は、たとい一個の盃であろうとも一片の手紙であろうとも吾々はそれに愛を感じる。況や、幾百代父祖が生命をかけた国土に対して愛を感じないことは自然でない。それが人として当然のことであり、人情であるのであります。かくの如き愛もただの執着に過ぎないといって排斥することになるならば、一切の人間的な麗わしき人情を否定してしまうことになり、この世界を織り成している「人間の心の美術」を無にしてしまうということになるので、それは人の道ではない−−随って神の道ではないのであります。》

尊師の『聖典』を実質上の絶版に処し、住吉大神まで貶めた現総裁の行為を、尊師は、きっと人の道ではない−−随って神の道ではない≠ニ仰るでありましよう。

現総裁だって、それが芯から判っているからこそ、出来るものならば36年祭を回避したいと思っていたのです。

だから、今回のコロナ禍は、現総裁にとって実に渡りに舟だった…。

精神分析の世界で、回避行動が次のように定義されています。

〈恐怖の明確な対象や不安の象徴があると、それに遭遇する事を自らさけるようになる〉

この回避行動が、今後、ますます現教団をして尊師を必要としないそれへと向かわしむるに相違ないと私は見ています。


「SNI-動画リンク集」を見れば現教団では尊師はいらない!≠ニいうことが歴然とします… (13475)
日時:2021年06月09日 (水) 09時48分
名前:破邪顕正


ここで、生長の家本部講師等による講話ビデオを視聴できますが、尊師の聖典を使っているのはたった一人。

ただし、使用していると言っても、アリバイ程度、わずかに拝読しているだけ…。

しかも、その内容が実にツマラナイ≠ニいうことで、関係者の間で話題になっています。

どうして、こういうことになるのか。

答えは簡単です。

ここに出て来る講師は、一体、誰に向かって講話をしているのか。

それを考えれば答えが見えてきます。

普通ならば、講話とは、それを視聴するであろう信徒を相手になされる筈のものです…。

ところが、さにあらず、相手はただ一人、現総裁だけ!

そうです、現総裁だけに向かって講話しているのです。

つまり、私は「総裁先生に中心帰一しています、忠実な僕(しもべ)です」それをアピールするために講話しているのです。

だから、尊師の聖典は端っから排除してかかる…。

講師たちも、現総裁が尊師の聖典を快く思っていないということを十二分に判っているからです。

それが現教団で生き残る術なのです。

それが透けて見えるから、ツマラナイのも当然…。

ここに出て来る講師は、すべて、如何にして生き残るか、それを主目的として講話しています。

そうとでも考えなければ、「生長の家」の講話であるのに、どうして創始者の聖典が使用されないのか…。

その異常さ≠説明することはできないでしょう。

創始者を無視した教団が、果たしてどのような末路を辿るのか…。

私たちは、今、宗教史上、実に稀な事例を目の当たりにしていると言うことです。


尊師36年祭を中止ですか… (13488)
日時:2021年06月13日 (日) 23時33分
名前:月見草

話題の"ツマラナイ"講話とは?

相手はただ一人、現総裁のためだけ!…(笑)

こうなってしまうことは、誰にでも容易に見当がつきます。

裸の王様に取り入るため。

でも、講話が信徒のためでなくて何の意味があるのでしょう?

『生長の家』の根本眞理がなくて如何なものでしょうか?

創始者 谷口雅春先生のみ教えがあってこその『生長の家』です。

真の信徒なら尊師36年祭を行ってほしい、参列したいと思っています。

その証拠に、支部で繰り上げて行った36年祭には、手術後退院して間もない方や、コロナ禍で普段は欠席の方も喜んで参加しておられました。

現教団の『生長の家』とは、名前だけで中身は別のものですね。

総裁あっての生長の家≠ニいうのが現総裁の認識だと思います… (13490)
日時:2021年06月14日 (月) 08時57分
名前:破邪顕正


「月見草」さん、投稿、ありがとうございました。

仰るように、本来ならば創始者あってこその『生長の家』≠ニ思うものです。

しかし、現総裁はそうは考えない…。

総裁あっての生長の家

そのように考えているのだと思います。

今の教え≠ニいうのは、総裁の教えが「生長の家」なのですから、創始者のご存在は完全に無視しても構わないのです。

だから、尊師36年祭をいとも簡単に中止できるのです。

そういうのが現教団の体質、本質だということです。

私に言わせれば魂の病気≠ノ罹った「忘恩教団」というほかはありません。

早晩、心ある信徒は、それに気づくのではないでしょうか。

否、気づくのを待ってはいられない、気づいて貰うよう、積極的にお声かけさせていただきましょう。

この度は、支部で、素晴らしい36年祭を執り行っていただきましたことに心から感謝申し上げます。

「忘恩」という魂の病気≠ゥら信徒を救い出す、私たちには大いなる使命がありますからね。

ともに、精進してまいりましょう。



「破邪顕正」さまへ (13495)
日時:2021年06月14日 (月) 22時48分
名前:月見草

「忘恩教団」、総裁あっての生長の家=c…そのようですね。

教団信徒の皆様に、皆でもっと積極的にお声かけするように頑張ります!

36年祭の件も、支部長や支部の皆様にお伝え致します。

けれど、感謝申し上げるのは 私たち会員の方です。

本部からご指導を頂き、尊師の36年祭をさせていただいて、どれほど有難いことかと、皆、喜び一杯でしたから。

「月見草」さんへ (13499)
日時:2021年06月16日 (水) 10時58分
名前:破邪顕正

尊師・谷口雅春先生が、この世でのご使命を終えられ、ご遺体が総裁公邸に運ばれてきたときのことを、谷口輝子先生が『白鳩』誌・昭和60年10月号誌上で、こうお書きになっておられます。

〈私は亡き人の右に近づいて正座した。そして、自分の左の頬を夫の右頬にぴたりと着けた。ひやりっと感じた。なつかしさ、慕わしさが湧然と私の全身に湧き起り、
「お父さま、お帰りなさい」
 と叫んだ。
「貴方は今日から天国に行ってしまわれるのですか。私を一人ぽっちにして、嫌です、嫌です。このくっ着いた二人の頬っぺを離れさせないで下さい。一緒に焼場へ行って、同じ骨壺に入りましょう」
 私は冷たい夫の頬に、いつまでも、いつまでも離れたくなく、じっと体を動かさないでいたが、突然、襖の外から、
「奥様、どうなさいましか」と若い女の声が呼んだ。
 私はハッとして我れに返った。私の理性は直ちに私の体を立ち上がらせて廊下へ押し出した。
 私はこの現象世界にまだ生かされて、これからまだまだ忙しい日々がつづくのであった。師であり、夫である彼の人は、まだまだ永遠に私の師として夫として、幽明境を飛び越えて、私を護り、私を導いて下さるのである。〉

輝子先生の、このお言葉は、この世に生ある限り、私たち一人ひとりにとっての覚悟であり、決意でなければならないと思います。

今や、現教団には、「生長の家」という名前、看板はあっても、尊師の御教えを伝えて行こうという志は微塵もありはしません。

事ここにいたっては、もはや、それをお護りし、お伝えしていくのは、私ども「本流」に集う者しかいない…。

私どもが、その最後の砦である…。

それを嘉し給うて、神様は大いなるおはからいをもって、私どもに「宗教法人」格を与え給うたのである…。

その自覚を更に深めて、ともに使命遂行に邁進してまいりましょう。


「破邪顕正」様へ (13507)
日時:2021年06月18日 (金) 21時44分
名前:月見草

谷口雅春先生と輝子先生のお話を有り難うございます。幾度お聞きしても輝子先生のものすごいお覚悟が伝わります。
神様から与えられました「宗教法人」の一員として恥じないように、皆様と共に一所懸命に邁進して参ります。

「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」(高浜虚子)に思うこと… (13509)
日時:2021年06月21日 (月) 11時11分
名前:破邪顕正

「月見草」さん、度々の投稿、誠にありがとうございます。

表題の句は、〈今年が終わり、新しい年が来るぞ、といっても時間は今年と来年を棒のように貫いて流れている。昨日の生活が、新年になったからと言って何変わることがあろう?〉そういう意味だと解されます。

どうして、これを紹介したかと言いますと、本来であれば、宗教団体というものは、中心者が如何に変わろうが、そこには一貫して変わらぬ棒の如きもの≠ェなければならない…。

それが「真理」だと思うのです。

我が国には、昭和・平成・令和と御代が代わっても、そこには棒の如≠ュ、一貫して代わらぬものがある…。

それが万世一系126代、連綿として男系でつながってきた天皇の御存在なのだと思います。

それを支えたのが、「三大神勅」でありましょう。

とりわけ、私が思うのは、「宝鏡奉斎の神勅」のことです。

平たく、このように意訳されたりしています。

〈この神鏡を見る時は私を見るつもりでご覧になりなさい。この鏡をあなたの住む宮殿内に安置して、祭りを行うときの神鏡と致しなさい。この意味は、この鏡を見て私利私欲で民を苦しめていないか、といつも自問自答し、そこに少しでも「我(が)」があるならばそれを取り除きなさい。かがみ(鏡)からガ(我)を取り除くとかみ(神)となる、天皇としての生き方を教えたものです。〉

本来、宗教団体は、創始者を常に、ここに言う鏡≠フ如き存在として仰ぎ見るようにするものではないでしょうか。

ところが、「生長の家」教団にあっては、その真逆を行っている…。

つまり、その時々の「総裁」の説いていることが、教団の「教え」となってしまった…。

即ち、創始者が関係のない存在、有り体に言えば、創始者を無視しても構わないことになってしまったのです…。

それは私に言わせれば、尊師を鏡≠ニして自らを省みることを拒否するものということになります。

そして、その象徴的な出来事として、今回の36年祭の中止ということが生じた…。

鏡が無ければ、自分が今、どのように映っているか、自らを見ることはできません…。

鏡がないから、却って、どんなことだって平然とやってのけることができる…。

中心者が鏡をもたないとどんなことになるか…。

私たちは、今、それを目の当たりにしているのです…。

棒の如きもの≠失って、とても大切なものを棒に振った…。

それが現教団なのだと私は見ています。




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