7月度の研修の内容に関する疑問…生長の家の「神観」の特長を指摘した上で「内に宿る神」に言及すべきだし、しかもそれと「凡庸の唄」とはどう合致するのか? (13416) |
- 日時:2021年05月21日 (金) 16時01分
名前:破邪顕正
7月度のテーマは困難の中で「内に宿る神」の声を聴く≠ニなっています。
テキストは機関誌『生長の家』2021年4月号と同2020年12月号で、いずれも現総裁の文章を学ぶよう督促されています。
具体的には、『生長の家』誌創刊号から、「内に宿り給う神」が紹介され、必要にブツ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る≠ニいうご文章が引用されます。
そして、尊師のこのお言葉に学べば、「私たちの内部から勇気と力が湧き出してくるのではないでしょうか」と言って、こう結論づけるのです。
〈コロナウイルスを“憎むべき敵”だなどと思わず、私たちの無限の可能性を引き出してくれる“鞭撻者”だと考え、日時計主義を実践しつつ、明るく、しかし用心深く、神性開発と真理伝道の生活に邁進していきましょう。〉
さて、これを読んで私の思ったことは何か。
相変わらず、現総裁は、自分の都合の良いように尊師の教えをつまみ食いしているということでした。
なるほど「内に宿り給う神」これ自体は、まさしく真理そのもの、生長の家の独特の「神観」の一つです。
しかし、それだけが特長であるわけではありません。
少なくとも、講師の研修であれば、まずは「神観」の全貌を明らかにしておくべきだと私は考えます。
私どもが学んだことによれば、生長の家の「神観」は、次の5つに集約することができます。
@生長の家の神は宇宙の創造神・普遍の法則である
A生長の家の神は善なる神(神罰を与える神は偽り)で、愛の神である
B生長の家の神は一切に宿る大生命であり、人間の内に宿る「内在神」である(そうであるが故に「我が魂の底の底なる神よ…」と呼びかけて無限力が発揮されるのである)
C生長の家の神は万教帰一の神である
D生長の家の大神は本源神なる神が応化して住吉大神として働き給うて、尊師・谷口雅春先生を通して真理を説かれた
今の教団では、Dについてはとても学ぶことなどできますまい。
それはともかくとして、ここにいうBの「内在神」についても、大変、大切なことが抜け落ちています。
現教団では、何かと言えば、「日時計主義」が持ち出されますが、尊師の教えではどう説かれているか。
因みに、『生長の家』誌・昭和32年4月号にはこうあります。
《神の国は今此処にある。 そして神は自己に於いて顕現している。 神は余所(よそ)にあるのではない、「爾(なんじ)の内にある」それを見出さないで今此処を物質の国土と観(み)、人間を単なる物質の塊だと見る、其処に迷いがある。 その迷いを取去らなければ、人間は自縄自縛されている。 人間は物質でない、肉体ではない、この身このままに霊的実在である神を見出さねばならない。 人間は肉体ではない、霊的実在である。 この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。 神を頭脳で知っただけでは、神がわがもの≠ニはならないのである。 全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。 それをなすのが神想観である。 神想観を必ず怠らず行ぜよ。》
「神想観」の実修に言及しないのでは、「内在神」を体感体得することはできない…。
「日時計主義」で補えるものではないということです。
そういうところからしても、尊師の本当の教えが今の教団には伝わっていないと断じざるを得ません。
更に重大なことは、この「内在神」と現総裁の唱えた『凡庸の唄』とは相矛盾するのではないのかということなのです。
以前、これについては私なりに批判して投稿させていただきました。
関心のある方は、こちらをご覧ください。
※《特報!》いよいよ『凡庸の唄』が出版!この日を心待ちにしていました!これで「人間・神の子」の真理までもが否定されることになりました! (9098) 日時:2018年03月16日 (金) 09時27分 名前:破邪顕正
この『凡庸の唄』で、もう一つ、ぜひ読んでほしいと願っているのが、「遠島流也」さんのこの投稿です。
※一筋の道(3) (11164) 日時:2019年08月12日 (月) 18時57分 名前:遠島流也
その中で、「凡庸の唄」の決定的な問題点がズバリ指摘されているのがこの箇所です。
〈…最近「凡庸の歌」なるものを出した。 人間神の子、偉大であれとの雅春先生の言にあえて異を唱えているつもりなのであろう。 そして、「凡庸の歌」は人間讃歌だという。 宇治宝蔵神社で、この本のパンフレットを見て,なんだこれはと思った。 「人間讃歌」だとことさら言っていることに何とも言えない違和感を感じた。 この違和感は何だろう。 生長の家の真理は、もともと最高究極の人間讃歌なのではないか。 「甘露の法雨」の人間の項を見よ。 これに勝る人間讃歌があるのか。 今まで、生長の家には人間讃歌が無かったといわんばかりに、凡庸の歌などを書いて、これが「人間讃歌」だと殊更いうことがいかにも可笑しいではないか。 考えれば、「人間神の子」の内実が、三代目の中では、最高の人間讃歌ではなくなっているのだろう。 何しろ、法学者、共産党、マスコミ等がうるさく言う「立憲主義」の基になるのが「人間神の子」だとまで堕落させられたのだから。 立憲主義という、宗教的悟りとは異次元の、たかだか近代において流行りだした一政治思想の根拠にまで落ち込ませたことから、ここは一応宗教家を名乗る以上、「人間讃歌」なる文章を書かねばと思ったということか。 観世音菩薩讃歌と人間讃歌の両賛歌で、雅春先生が、この地上にお取り次ぎくださった、「人間神の子、万教帰一」の最高の不滅の真理の中核を,全く無みしているのが明白になっている。 生長の家三代目の道は、谷口雅春先生の教えを改竄し、唯神実相の世界を否定し、ひいては、実相世界からくる愛国の神髄を晦まし、生長の家が日本の実相顕現に果たしてきた役割を無にすることを目指した一筋の道であったのである。…〉
何も付け加えるべきところを見出せません。
どう考えても、「内在神」と「凡庸」とは相容れない考え方であります。
それを改めて証し立てる意味で、最後に『続真理の吟唱』「自然解脱を得る祈り」(87頁)の一節を引かせていただきます。
《わたしは神の子≠ナある。 神の生命が宿って生かされているのである。 …見よ、今、此処に神の生命が生きているのである。 その神の生命が本当の自分≠ネのである。 それゆえに、私は死することなく、病むことなく、老いることなく、永遠に若返り、生きつづけるのである。》
本当の人間讃歌とは「内在神」から来る…。
それが本当にわかっていれば、『凡庸の唄』などを著そうと思うわけがないのです。
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