《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『生命の實相』を必要としない「生長の家」なり!4月24日付け「通達」でそれが改めて明らかに! (13414)
日時:2021年05月21日 (金) 08時45分
名前:破邪顕正

4月24日付けで、全国の教化部長宛てに2021年6月度/7月度「地方講師・光明実践委員研修会」のテーマについて≠ニいう「通達」が送付されました。

その一面にある、ゴチックで記された文言に目が留まりました。

〈なお、生長の家総裁・谷口雅宣先生のブログ「唐松模様」、白鳩会総裁・谷口純子先生のブログ「恵味の日々」をはじめ、ブックレットシリーズ、機関誌『生長の家』、普及誌『いのちの環』『白鳩』『日時計24』も、常時テキストとしてご活用ください。〉

ここに明らかなように、現教団においては、講師の研修に、もはや『生命の實相』は不要…。

現総裁夫妻の書いたものさえあれば、それで十分、事足りるというわけです。

それでは、どんな研修を行うのでしょうか、具体的に見ていきます。

〈6月度〉のテキストは、谷口純子先生『森の日ぐらし』

サブテキストはSNIオーガニック菜園部編集『食卓から未来を変える』

で、この4頁に、こう結論が記されています。

〈肉食を減らし、可能な限り有機食品を利用し、地産地消を心がけよう。温暖化の原因になる生活を慎もう。〉

なるほど、こういうことがテーマならば、必ずしも尊師の聖典が絶対不可欠とは言えないでしょうね。

とにかく、今の教団は、尊師の教えを無視しても成り立ってしまう、そんな「生長の家」になってしまったということです。

そして、それでいいという信徒で現教団は支えられているというわけです。

何を申し上げたいか。

現総裁は、ご存じのように『生命の實相』の著作権が教団にあると言い張って、裁判沙汰にまで持ち込みました。

問題は、どうしてそこまで著作権に拘ったのかということです。

普通一般には、「著作権」というものは、どうしても出版したい、だからその権利が欲しいという思いから生ずるものであります。

「著作権=出版権」というわけです。

ところが、現総裁にとっては、驚くなかれ「著作権=絶版権」としてあるのです。

こんな愛国聖典≠ヘ、私の考えに反する…。

何とか出版できないようにできないものか…。

そうだ「著作権」を握ればいいのだ…。

出版するも、しないも、それは「著作権者」の思いのまま…。

ということで、現総裁は「著作権」に拘るようになったのです。

それが証拠に、現教団に著作権があるという理由から、いまだ33もの聖典が事実上の絶版に処せられているではありませんか。

「著作権」がなければ、どんなに願っても出版できない。

先の裁判で私どもが等しく痛感したのは、もし現総裁が『生命の實相』の著作権を手にしたら、おそらくは絶版に処すであろう…。

その瞬間、『生命の實相』はお蔵入りになり、日の目を見ることができない…。

そういう危機感でした。

だから、最高裁判決で、「著作権」が(公財)生長の家社会事業団にあると認定されたときには、欣喜雀躍。

これで『生命の實相』は守られたと思ったのです。

この悦びは、はっきり言って当事者でなければわからない感情なのかもしれません。

しかし、決してそれがオーバーな表現でないことは、今回の「通達」からも窺い知ることが出来るのではありませんか。

だって、『生命の實相』などなくても一向に構わない、そういう講師研修会になっているのですから…。

この研修会が、言うなれば、現教団の教義$髟zの場なのでしょう。

であれば、『生命の實相』を必要としない「生長の家」。

そう規定しても何ら不思議ではないと私は思うものであります。


7月度の研修の内容に関する疑問…生長の家の「神観」の特長を指摘した上で「内に宿る神」に言及すべきだし、しかもそれと「凡庸の唄」とはどう合致するのか?  (13416)
日時:2021年05月21日 (金) 16時01分
名前:破邪顕正


7月度のテーマは困難の中で「内に宿る神」の声を聴く≠ニなっています。

テキストは機関誌『生長の家』2021年4月号と同2020年12月号で、いずれも現総裁の文章を学ぶよう督促されています。

具体的には、『生長の家』誌創刊号から、「内に宿り給う神」が紹介され、必要にブツ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る≠ニいうご文章が引用されます。

そして、尊師のこのお言葉に学べば、「私たちの内部から勇気と力が湧き出してくるのではないでしょうか」と言って、こう結論づけるのです。

〈コロナウイルスを“憎むべき敵”だなどと思わず、私たちの無限の可能性を引き出してくれる“鞭撻者”だと考え、日時計主義を実践しつつ、明るく、しかし用心深く、神性開発と真理伝道の生活に邁進していきましょう。〉

さて、これを読んで私の思ったことは何か。

相変わらず、現総裁は、自分の都合の良いように尊師の教えをつまみ食いしているということでした。

なるほど「内に宿り給う神」これ自体は、まさしく真理そのもの、生長の家の独特の「神観」の一つです。

しかし、それだけが特長であるわけではありません。

少なくとも、講師の研修であれば、まずは「神観」の全貌を明らかにしておくべきだと私は考えます。

私どもが学んだことによれば、生長の家の「神観」は、次の5つに集約することができます。

@生長の家の神は宇宙の創造神・普遍の法則である

A生長の家の神は善なる神(神罰を与える神は偽り)で、愛の神である

B生長の家の神は一切に宿る大生命であり、人間の内に宿る「内在神」である(そうであるが故に「我が魂の底の底なる神よ…」と呼びかけて無限力が発揮されるのである)

C生長の家の神は万教帰一の神である

D生長の家の大神は本源神なる神が応化して住吉大神として働き給うて、尊師・谷口雅春先生を通して真理を説かれた

今の教団では、Dについてはとても学ぶことなどできますまい。

それはともかくとして、ここにいうBの「内在神」についても、大変、大切なことが抜け落ちています。

現教団では、何かと言えば、「日時計主義」が持ち出されますが、尊師の教えではどう説かれているか。

因みに、『生長の家』誌・昭和32年4月号にはこうあります。

《神の国は今此処にある。
そして神は自己に於いて顕現している。
神は余所(よそ)にあるのではない、「爾(なんじ)の内にある」それを見出さないで今此処を物質の国土と観(み)、人間を単なる物質の塊だと見る、其処に迷いがある。
その迷いを取去らなければ、人間は自縄自縛されている。
人間は物質でない、肉体ではない、この身このままに霊的実在である神を見出さねばならない。
人間は肉体ではない、霊的実在である。
この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。
神を頭脳で知っただけでは、神がわがもの≠ニはならないのである。
全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。
それをなすのが神想観である。
神想観を必ず怠らず行ぜよ。》

「神想観」の実修に言及しないのでは、「内在神」を体感体得することはできない…。

「日時計主義」で補えるものではないということです。

そういうところからしても、尊師の本当の教えが今の教団には伝わっていないと断じざるを得ません。

更に重大なことは、この「内在神」と現総裁の唱えた『凡庸の唄』とは相矛盾するのではないのかということなのです。

以前、これについては私なりに批判して投稿させていただきました。

関心のある方は、こちらをご覧ください。

※《特報!》いよいよ『凡庸の唄』が出版!この日を心待ちにしていました!これで「人間・神の子」の真理までもが否定されることになりました! (9098)
日時:2018年03月16日 (金) 09時27分
名前:破邪顕正

この『凡庸の唄』で、もう一つ、ぜひ読んでほしいと願っているのが、「遠島流也」さんのこの投稿です。

※一筋の道(3) (11164)
日時:2019年08月12日 (月) 18時57分
名前:遠島流也

その中で、「凡庸の唄」の決定的な問題点がズバリ指摘されているのがこの箇所です。

〈…最近「凡庸の歌」なるものを出した。
人間神の子、偉大であれとの雅春先生の言にあえて異を唱えているつもりなのであろう。
そして、「凡庸の歌」は人間讃歌だという。
宇治宝蔵神社で、この本のパンフレットを見て,なんだこれはと思った。
「人間讃歌」だとことさら言っていることに何とも言えない違和感を感じた。
この違和感は何だろう。
生長の家の真理は、もともと最高究極の人間讃歌なのではないか。
「甘露の法雨」の人間の項を見よ。
これに勝る人間讃歌があるのか。
今まで、生長の家には人間讃歌が無かったといわんばかりに、凡庸の歌などを書いて、これが「人間讃歌」だと殊更いうことがいかにも可笑しいではないか。
考えれば、「人間神の子」の内実が、三代目の中では、最高の人間讃歌ではなくなっているのだろう。
何しろ、法学者、共産党、マスコミ等がうるさく言う「立憲主義」の基になるのが「人間神の子」だとまで堕落させられたのだから。
立憲主義という、宗教的悟りとは異次元の、たかだか近代において流行りだした一政治思想の根拠にまで落ち込ませたことから、ここは一応宗教家を名乗る以上、「人間讃歌」なる文章を書かねばと思ったということか。
観世音菩薩讃歌と人間讃歌の両賛歌で、雅春先生が、この地上にお取り次ぎくださった、「人間神の子、万教帰一」の最高の不滅の真理の中核を,全く無みしているのが明白になっている。
生長の家三代目の道は、谷口雅春先生の教えを改竄し、唯神実相の世界を否定し、ひいては、実相世界からくる愛国の神髄を晦まし、生長の家が日本の実相顕現に果たしてきた役割を無にすることを目指した一筋の道であったのである。…〉

何も付け加えるべきところを見出せません。

どう考えても、「内在神」と「凡庸」とは相容れない考え方であります。

それを改めて証し立てる意味で、最後に『続真理の吟唱』「自然解脱を得る祈り」(87頁)の一節を引かせていただきます。

《わたしは神の子≠ナある。
神の生命が宿って生かされているのである。
…見よ、今、此処に神の生命が生きているのである。
その神の生命が本当の自分≠ネのである。
それゆえに、私は死することなく、病むことなく、老いることなく、永遠に若返り、生きつづけるのである。》

本当の人間讃歌とは「内在神」から来る…。

それが本当にわかっていれば、『凡庸の唄』などを著そうと思うわけがないのです。



「コロナウイルスを“憎むべき敵”だなどと思わず、私たちの無限の可能性を引き出してくれる“鞭撻者”だと考え」るというのは、尊師の教えに帰れ!でなければならない…。 (13418)
日時:2021年05月22日 (土) 13時02分
名前:破邪顕正


今回のコロナウイルスを“鞭撻者”として捉えるというのは、私に言わせれば尊師の御教えに帰る絶好の機会としましょう、そういうことに他なりません。

コロナ禍で、私たちは否が応でも恐怖≠ニ向かい合わざるをえなくなっています。

であれば、まずは、聖経『続々甘露の法雨』をしっかり読誦していかなければなりません。

《されば汝らは金剛不壊の実相身にして、物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、汝を害すること能わず》(74頁)

ここにある金剛不壊の実相身≠深く自覚する神想観が「金剛不壊眞身観」であります。

改めて、今、この実修を呼びかけてまいりたいと思います。

《(静かに息を吸いながら、神が自分に流れ入ると観じて)

神われを全領(ぜんりよう)したまえり
寸分の隙間(すきま)もなく、神われを全領したまえり
さればわれ金剛不壊(こんごうふえ)の眞身(しんしん)を得たり

(と念ずる。眼の裏に自分の全身に神氣(しんき)が充満して、光明燦然と輝いている全身の有様を瞑視する。
次に静かに息を下腹部におとして、神光輝く自身を凝視しながら)

四百兆の細胞、寸分の隙間もなく神が全領したまえるゆえ、どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷いの霊も自分の全身の何ものにも存在の余地はないのである

(と念ずる。また静かに息を吸いて前の思念を繰返す。)
(最後に次の如く念じて思念を終る。)

あゝわれは健やかなるかな、霊々妙々(れいれいみようみよう)たり、煌々(こうこう)たり、皎々(こうこう)たり、われ金剛不壊の眞身を得、一切の病脳を超えたり=t

尊師は、こんな素晴らしい神想観をご教示くださっていたのですから、それを今に甦らせなければなりません。

それこそ、尊師の教えに帰れ!であります。

また、『続真理の吟唱』「わが内奥秘密蔵の光を呼び出(いだ)す祈り」の中には、次のようなご文章もあります。

《…わが全身の細胞悉く、神の輝く生命に充ち満たされて、ひとつひとつの細胞ことごとく稀有(けう)の宝石の如く生命の霊光≠放っているのである。
その光眩(まぶ)しくして如何なる病原体もわが身体に近づくことなく、若し近づけば、生命の光に同化せられて、わが身体に栄養を与うる善良なる微生物となってわが健康を養うのである。》

病原体も善良なる微生物とな≠驍ニは何という悟りでありましょうか。

『真理の吟唱』は、尊師のお悟りが凝縮されていると言われます。

日々、その一章ずつでいいですから、拝読に努めてまいりましょう。

本来ならば、こういう指導をこそ、「生長の家」教団がやるべきことなのではないでしょうか。

しかし、それが出来得ない…。

尊師の教えを無視しているが故です。

であれば、それこそ、吾等がそれに取って代わって、尊師の本当の教えを弘めなくてはならない…。

現教団は、三代目総裁の教えを弘めるところ。

それに対して、「谷口雅春先生を学ぶ会」は尊師の教えを弘めるところ。

見事な棲み分けではありませんか。

この棲み分けを称して分裂≠ニ言うのです。

分裂≠ヘ、果たして悪いことでしょうか…。

コロナ禍にあって、果たして、信徒の皆さんはどちらの指導に、より共感を覚えられますか。

そういう意味ではまさしく、コロナ禍とは“鞭撻者”であると私も思うものであります。



“新しい文明”(=神・自然・人間の大調和)が現総裁の願いであるのに対して、尊師の教えは「神−国家−人間を貫く真理」にある… (13420)
日時:2021年05月23日 (日) 12時11分
名前:破邪顕正


7月度のテキスト、機関誌『生長の家』2020年12月号を使って何を学習するのか。

その目的がこう綴られています。

〈地域においては、新型コロナウイルスの感染防止対策を講じながら可能な方法で、地元の人々との繋がりを深め、“新しい文明”の基礎づくりを前進させる。〉

ここに出て来る“新しい文明”、それが現教団の目指すものであります。

そのことは、会員必携の本が『“新しい文明”を築こう』となっていることからも明らかです。

現教団が、この本の頒布に如何に力を入れているかは、教団御用達の「朝日新聞」5月20日朝刊の第一面の下段に、これが新聞広告されていることからも明らかです。

第一面に掲載するのには、おそらく大変な費用がかかるものと思われます。

こうして、経営状態が芳しくないと噂される「朝日新聞」を少しでも手助けしたいという、現総裁の思惑が働いているような気がします。

だって、これは会員必携であって、一般の人に購読してもらうものとは、およそスジが違うように思うからです。

ともあれ、信徒の皆様の浄財は、こうして「朝日新聞」を助けるためにも使われているということをぜひ、知ってほしいと思う次第です。

ところで、この上巻において、現総裁は何を述べているか。

〈生長の家の新たな行事として「神・自然・人間の大調和祈年祭」と「万教包容の御祭」が設けられました。
これらにより、生長の家の祭祀の重点は「鎮護国家」から、自然との調和による「世界平和」の祈念へと明確に移りました。〉(58頁)。

つまり、これが言うところの雅宣教≠フ教義だということです。

ここに明らかなように、現総裁の一番の狙いは、「生長の家」の教えから「鎮護国家」を外すということにあったのです。

これが、如何に尊師の教えに反するものであるか。

例えば、『生長の家』誌・昭和38年3月号所収の「天照大御神の御生命のあらはれ神・国家・人間を貫く神の子≠フ具体的自覚」をお読みください。

《…黒住宗忠の「もはや我生くるに非ず、天照大御神のいのち此處にありて生くるなり」といふあの悟りはですね、皆さん一人々々の悟りでなければならないといふことです。
…天照大御神様のいのちが日本国家としてそこに現れてゐるとすれば、日本国家のいのちと吾々のいのちとは一つであるといふことであり、同時に、天皇の大御(おおみ)いのちとわれわれのいのちとは一つのいのちである。
それを本当に自覚した時に、それが本当の日本精神といふのではないかと思ふのです。
それが即ち新たに生まれるのであって、今まで単なる「人間神の子」と思つてをつてもですね、個人個人のばらばらの「神の子」ぢやなくて、われわれの「神の子」なるいのちは「日本国家のいのち」と「天皇陛下の御(おん)いのち」と「天照大御神様の御(おん)いのち」と一つにつき貫いて一つの存在であるといふこの自覚に立たなければ、単に「神の子」であるといふだけでは本当の悟りではない。
ここに生きてゐるのは、皆さんの一人々々の中に生きてゐるのは、日本国家のいのちが生きてをるのであり、天皇の御いのちが皆さんの中に生きてゐるんだといふこの大自覚を新たに持つて戴いて、今年を日本国家の前進の年としていたゞきたいのであります。》

「人間は神の子である」というのは、決して抽象的なことではないのであって、実に具体的に、われわれの「神の子」なるいのちは「日本国家のいのち」と「天皇陛下の御いのち」と「天照大御神様の御いのち」と一つにつき貫いて一つの存在であるといふこの自覚に立≠ツことであるのですね。

「神の子」の自覚と「鎮護国家」とは表裏一体である…。

それが尊師の教えの根幹ではなかったのでしょうか。

それを外すということは、それは取りも直さず、尊師の教えの否定に他ならないと私は思うものであります。

そういう現教団の姿勢に、とても納得がいかない…。

このままでは、尊師の教えを後世に伝え遺すことは出来得ない…。

そう思ったとしても何ら異とするに足らない…。

かくなる上は、現教団から分かれて、新たに尊師の教えを護り伝えていく組織を別個に構築するしかない…。

その判断の当否は、いずれ、歴史が明らかにするであろうと思うものであります。


こんな総裁擁護論が出ました…。この投稿者に言いたいのは、これで「尊師の教えの本質は変わっていません」と言い切れるのかということです。 (13422)
日時:2021年05月24日 (月) 10時27分
名前:破邪顕正



<愛国本流掲示板>にこういう投稿がありました。

…………………………………………

「心暗ければ世暗し、心明るければ世明るし、心深ければ世深し、心浅ければ世浅し」 (30071)
日時:2021年05月24日 (月) 06時18分
名前:Y.M

総裁は、それこそ近代以降の無理矢理人民を鍛冶し人工的につくり上げた近代国家日本が成立した以降の国民、生存することにも多大な苦労が伴う、特にある階層以下の民を可哀そうに思っていらっしゃる。

そのような、ある階層以下の人に信仰を窮めて、ある意味「凡庸」とは正反対、対極にあるとも言える宗教的悟り、「内在神」の自覚を持たせるということは、ある階層以上の、特段に自身の生存に直接関わるような深刻な苦悩がない恵まれた人、むしろ既に救われていると言える人に「内在神」を自覚させるよりも困難と苦労が伴うことをいやというほど知っておられる。そういうある意味、弱い立場にいる人ほど強い立場の人や権力におもねるしか自身の生存を保つ方法がないということを身に染みて分かっておられるので、権力を法で縛るということを大目的とした立憲主義という一政治思想が重要であるということを主張なさる。

そのような近代国家日本の成立に伴う、強権に基づいた民に対するある種の人工的な残虐性、天皇でさえ〈玉〉として利用され至高の権力の淵源として民に殉教を強いる存在にまである意味貶めるに至ってしまった、強いて言えば、近代以降の国家体制の残忍性を宗教家の立場において払拭したいという願望が潜在意識の底から沸々と込み上げてくるがために大自然に深く傾倒されているのです。

…………………………………………

これは、私の一連の

〈『生命の實相』を必要としない「生長の家」なり!4月24日付け「通達」でそれが改めて明らかに! (13414)〉

これに対する反論≠ニして投稿されたものであります。

この投稿者は、その言葉使いからして、現総裁を支持されている方だと推測されます。

もとより、現総裁を擁護する信徒がいてもいいわけです。

大事なのは、その擁護の視点、論点なのだと私は思っています。

ある意味、『凡庸の唄』を擁護するには、こういう視点、論点しかないのかなと感心して読ませていただきました。

ただ、この方に言いたいのは、それは尊師の教えと同じものですか、その一点なのです。

何故かというと、これまで、現教団は「教えの本質は何ら変わっていません。ただ時代の変化に従って説き方が変わってきているだけです」というような言い方をしてきたからです。

本当に尊師の教えの「本質」は、現教団でも変わっていませんか。

変わってしまっているではありませんか。

だって、この投稿者自身、いみじくもこう言っているではありませんか。

〈ある意味「凡庸」とは正反対、対極にあるとも言える宗教的悟り、「内在神」の自覚を持たせる〉

「人間神の子」と「凡庸」とは対極にあると自ら認めているわけです。

だったら、正直に、「人間神の子」の教えがあるというのに、どうして『凡庸の唄』を拵えたのか…。

それは「人間神の子」「内在神」を悟りきれないある階層以下の民を可哀そうに思って≠ナす、そう言えば好かったのです。

そうしたら、スッキリしたと思うのです。

とにかく、私が何が嫌かと言って、現総裁を擁護する常套句が「教えの本質は少しも変わっていません」というそれなのです。

これって、詭弁以外のなにものでもありはしません。

そのことは、この投稿者もよく判っていると思うのです。

尊師の説かれた教えと、現総裁の説いていることは「本質」からして違っていると…。

それを詭弁で誤魔化すのは、騙し≠ナはないのですか…。

私の現教団への異議申し立ては、そういう信徒騙し≠ェ横行しているがゆえなのです。

更に、この投稿者に申し上げたいのは、弱い立場にいる人ほど強い立場の人や権力におもねるしか自身の生存を保つ方法がない≠ニ書いていますが、それでは、現教団にあって、権力者とはどなたですか?

紛れもなく、現総裁そのものではありませんか。

よく、こういうことが言われます。

その人間を見分けるときの3つのポイント。

@大酒を飲ませた時、どう変わるか?

A大金を持たせた時、どう変わるか?

B権力を持たせた時、どう変わるか?

現総裁は、総裁代行となって権力を握ってからガラッと変わった、よくそういうことが言われます。

そのときから、両親や他のきょうだいとの間も変化していったとも…。

ともあれ、もはや現総裁には怖いものなしでしょう。

そういう体制下で、はっきりとモノが言えない、そんな雰囲気が醸成されてしまっているわけです。

にもかかわらず権力を法で縛るということを大目的とした立憲主義=c。

一体、どの口が言うのかと、現教団の内情を知悉している人は、おそらくそう思うのではないでしょうか。

最後に、何を申し上げたかったか。

「教えの本質は少しも変わっていません」という詭弁を弄せず、もはや尊師の創始せられた「生長の家」ではありません。

雅宣総裁の「生長の家」です!

総裁が変われば、教えが変わるのも当然です!

はっきりとそう宣言してほしい、それだけです。

以上、私なりの感想を述べさせていただきました。


今回の擁護論の致命的問題点は、「実相」と「現象」との二元論≠ノ陥っていることにある… (13423)
日時:2021年05月25日 (火) 10時48分
名前:破邪顕正

《二元論は悉く誤れり》(聖経「甘露の法雨」)

《生命が 肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない》(「帰幽の神示」)

《虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。
『生長の家』誌友の中で近頃脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。》(新編『生命の實相』第24巻「倫理篇」90頁)

《私たちは「物質は無い」「肉体は無い」という大宣言によって肉体を否定するのです。
「肉体は無いんだ」「物質は無いんだ」と。
それでは此の肉体と見えているものは一体何であるか。
これは物質的肉体ではなく、「霊の自己表現」であるんだという事を自覚したならば、「霊」と「肉」との二元的対立というものが、消えて無くなる。》(『第二青年の書』57頁)

《病気が何故治らなかったかと云うと、実相は完全だが、実相の外に罪業と云うものがまだあると思って居ったからであります。
実相のみ実在である、実相独在だと云うことが、まだハッキリしていなかった。
実相もあるが、罪業と云うものもまだ他に別にあると二元的な観に陥って居ったのです。
それが間違っておったので病気が消えなかった。
慧可から「罪業を出して見せよ」と云われたときに、初めて罪業と云うものは実体がない、と本当に分ったときにりうまちが消えてしまったのであります》(『善き人生の創造』234頁)

「Y.M」さんの今回の投稿は、『凡庸の唄』を擁護する視点で書かれています。

しかし、ここで私が問題提起したかったことは、〈7月度〉の学習が「内在神」についてであり、その「内に宿り給う神」を自覚すれば吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る≠ニいう教えは、現総裁が拵えた『凡庸の唄』とは相矛盾する、齟齬を来すのではないのかということでした。

それに対して「Y.M」さんは(これはあくまでも私なりの解釈であることを予めお断りしておきますが)、「内在神」の自覚を持たせるということは、ある階層以上の、特段に自身の生存に直接関わるような深刻な苦悩がない恵まれた人、むしろ既に救われていると言える人≠ノ向けての教えであり、その一方、中には近代以降の無理矢理人民を鍛冶し人工的につくり上げた近代国家日本が成立した以降の国民、生存することにも多大な苦労が伴う、特にある階層以下の♂ツ哀そうな人民もいる…。

そういう人達に向けて、総裁は『凡庸の唄』を書かれたのだという論を展開したわけです。

ということは、私に言わせれば、〈7月度〉は前者向けの学習であり、それは後者の皆さんにとっては「内在神」を自覚させるよりも困難と苦労が伴う≠ニいう話になってしまうのではないのか…。

何を申し上げたいか。

「Y.M」さんの立論は、前者、後者との間には明確な階層があり、それぞれに合わせて「内在神」の教えと『凡庸の唄』の教えとが、適宜、説かれているのだということになり、これは完全な「二元論」ではないのかということなのです。

そういう「二元論」に立つ限り、尊師の教えとは全くの別モノ。

というよりかは、尊師の教えからすれば、完全に誤った教えなのです。

その誤った教えを「生長の家」の教えとして容認していっていいのか、それが今、根本的に問われているのだと私は考えています。


「宗教」と「共産主義」とは本来、相容れないはずであったのに、それがどうして今の教団に入り込むことができたのか? (13425)
日時:2021年05月26日 (水) 08時46分
名前:破邪顕正


私が、今回の「Y.M」さんの投稿に高い関心を覚えるのは、現総裁を擁護する人の中に、「日本共産党」へのシンパシーを隠そうともしない人がいるということをはからずも露呈したと思うからです。

だいたい、その言葉使いだけを見ただけで、それがよく判ります。

〈無理矢理人民を鍛冶し人工的につくり上げた近代国家日本〉

〈ある階層以下の民〉

〈強権に基づいた民に対するある種の人工的な残虐性〉

〈天皇でさえ〈玉〉として利用され至高の権力の淵源として民に殉教を強いる存在〉

〈近代以降の国家体制の残忍性〉

そこに通底している考え方の特徴が2つあります。

一つは、世の中を見る目が「階級史観」に立っているということです。

今一つが、「反国家」国家権力への憎悪が剥き出しになっているということです。

実は、この2つこそが、表題に対する答えにもなっているのです。

巷間、こういうことがよく指摘されます。

最近、アカい坊さん≠竍アカい牧師≠ェ増えてきたと…。

その理由は、仏教もキリスト教も、まずはこの世界を「階級史観」で見るようになったからです。

即ち、この現象世界には、虐げる側と虐げられる側とがいる。

宗教とは、後者に立って、それを救う使命がある、こういう建前にたつのです。

次に、どちらも、国家を否定します。

国家は、常に宗教を弾圧してきた。

その国家権力に立ち向かうのが宗教の使命である…というわけです。

ここに、「宗教」の世界にアカ思想が入り込む隙を与えてしまったのです。

そして、その典型が、現総裁であるのです。

それを直観的に感じ取っているからこそ、「Y.M」さんのような人が「生長の家」に入り込むようになったのです。

はっきりいって、尊師がおられた頃であれば、「Y.M」さんのような考えの人は信徒にはなりえませんでした。

それどころか、逆に、尊師の教えに触れて、赤旗を振っていた人が日の丸を振るように変わったものです。

それだけを見ても、もはやかつての「生長の家」ではなくなったということが言えるのです。

アカ思想が入り込むような「生長の家」はもはや尊師の「生長の家」ではあり得ません。

分裂≠オない方がよほどオカシイ!

それが私の結論です。


「階級史観」は、尊師の創始せられた人類光明化運動≠真っ向から否定するものになるのではないでしょうか… (13427)
日時:2021年05月27日 (木) 15時38分
名前:破邪顕正


どんな階層の方であろうとも、皆「神の子」であって、等しく救われるというのが尊師の本来の教えではなかったでしょうか。

だからこそ、尊師は、立教当初から人類光明化運動≠ニして運動を展開せられたのだと思うのです。

それなのに、そこに上の階層、下の階層というような腑分けをし、なおかつ尊師のお悟りが理解出来ない人もいるからというような見方をするのは、その人類光明化運動≠サのものを否定することになりはしないでしょうか。

ただ、私が「Y.M」さんの投稿に注目するのは、現総裁は、尊師のお悟りを理解できない人民に、救いの手を差し伸べられたのだという捉え方なのです。

それって、案外、現総裁の本質をついているのではないのか。

こういうことです。

ご承知のように、現総裁は、「経本」を拵えたのは、「聖経」に環境問題への言及が少ない…。

だから、それを補強≠キる必要があったと公言してきたわけです。

でも、それは建前で、「Y.M」さんが指摘するように、現総裁が補強≠オなければならないといったのは、尊師の教えでは悟ることのできなかった人々がいると思っていたからではないのか。

つまり、現総裁の深層心理の中には、「実相独在」「現象なし」という尊師のお悟りは容易に理解できるものではない…。

実際、自分自身だって納得できてはいない…。

自分が理解していないことを信徒に説くなどということは、できればしたくないし、またできない…。

であれば、自分なりに理解し、納得し、これならば説けるというものだけにしたい…。

そう考えると、やはり、自分としては「現象あり」という視点から話をしていきたい…。

時代は「環境問題」に移っているから、これならば「現象あり」の視点から如何様にも説くことができる。

それでもって、自分と同じように尊師のお悟りについていけない人にも耳を傾けてもらうことができる…。

今まで、尊師の教えについてこれなかった階層にも、声が届けば、これぞ誠の補強≠ニ言えるではないか。

これを今の教え≠ニして、自分の個性、特長として、尊師とは違う世界を切り拓いていこう…。

それが現総裁の深層心理にあった思惑ではなかったか…。

「Y.M」さんの投稿で、却って、現総裁の、その本音≠垣間見たような気がしております。



所謂、目に一丁字なきような「無学」の方が救われていったからこそ「人類光明化運動」が成り立ったのです! (13436)
日時:2021年05月31日 (月) 10時33分
名前:破邪顕正


「Y.M」さんが提起したことは、尊師の「人類光明化運動」に対する無理解から来ているように思えてなりません。

「内在神」の自覚による救いは、何もある階層以上の、特段に自身の生存に直接関わるような深刻な苦悩がない恵まれた人、むしろ既に救われていると言える人≠ノ限られたことでは決してありません。

それは、数々の体験が雄弁に物語っています。

例えば、「山新田のおかか」で知られる小出タケさんなどはその端的な事例と言えましょう。

新装新版『真理』第2巻にこうあります(216頁)。

《新潟県の小出タケさんは、無学であるけれども実に信仰の深い人で、この人に救われた人は数多いと小林春恵さんが長岡の講習会を終って新発田へ行く途を、汽車の中で云われた。小出さんは「お腹に雁(癌)がおろうが、鴨がおろうが、鳩がおろうが、人間神の子だからそんなことを心配いらん」と云うような調子で、直腸癌と診断されて心配している患者を治してしまったと云うのである。》

何故、こういう体験が生まれるのでしょうか。

2つのことが挙げられると思います。

一つは、そこに高級霊の導き、働きがあるからです。

尊師は、こうお諭しくださっています。

《肉体を構成している物質は最初は精神という動力によって一定の方向に動いて、肉体を健康にしたり、病気にしたりしていますが、その病気にしていた精神(心の持方)を抜いてしまっても、その後、ある期間は惰力でやはり同じ方向に働いているのです。それだから吾々の内臓に行われている病的傾向も、最初は自分の心の憎しみや怒りが動力になって生じたものであっても、その後、憎しみや怒りを棄てても、惰力が働いて居るから、一遍には良くなる方向には向わないことがあります。その場合、人間だけの反省や努力によって、唯単に自分の家庭が良くなったというだけでは、治らん時があるのでありまして、それを治すには、神からの癒しの霊波を直接受け、神様からつかわされたところの高級霊に援けて貰うということが必要なのであります。その為に聖経『甘露の法雨』の読誦をお勧めしているのであります。『甘露の法雨』を読誦しますと、『甘露の法雨』の言葉のリズムに乗って、生長の家の人類光明化運動に携わって居られる所の観世音菩薩をはじめ、霊界の諸々の天使・高級霊たちのうちの病気治しに特に優れていられる霊がやって来て、他力的に癒してくれることになるのです。…》 (『光の泉』誌・昭和38年4月号9頁〜)

病気が治ったり、奇蹟的な事が起こるのには、やはり高級霊の大いなるお導きがはたらいているというわけです。

今一つは、尊師の教えをそのまま素直に信ずる、その信仰姿勢がもたらしていると言えます。

かつて奈良の教化部長をしていた北尾巳代次講師が、昔、宇治で開催された全国地方講師研修会で次のようなエピソードを紹介されたことがあります。

昭和の頃、長期にわたって日照りが続き、農作物への被害が出始めたことから奈良のある村で雨乞いをすることになった。

炎天下、神社に、村人たちは団扇(うちわ)や扇子(せんす)を片手に集まってきた。

その雨乞いの御祭に、一人だけ傘を持ち、雨靴を履いてきた男の子がいた。

北尾講師は「結局、本当に神さまを信じ雨が降ると素直に信じていたのはこの子だけだったということだ。この幼な子のような心でなければ神さまと波長が合いませんよ」とご指導されたのでした。

このような姿勢こそが、数々の奇蹟を生み出したといえるのではないでしょうか。

この、高級霊の導き、素直に信ずる心、これを常に肝に銘じて「人類光明化運動」にともに邁進してまいりましょう。






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