《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人となったことを喜ぶ人、歎く人。その背景にある心情を紐解いてみると… (13383)
日時:2021年05月11日 (火) 12時59分
名前:破邪顕正


ご存じのように、昨年の3月1日、「生長の家立教記念日」という誠にめでたい日に、「谷口雅春先生を学ぶ会」は長年の念願であった宗教法人の認証を取得いたしました。

あれから、1年以上が経過し、このことについて、どうも二つの反応があるような気がしています。

まず、喜んでくださった方は、異口同音にこう仰います。

「これで尊師の御教えが後世に間違いなく伝え遺されていく、その永遠性が担保できた」

こういう方達は、「よくぞ、谷口雅春先生を学ぶ会を起ち上げてくれた」と心から感謝なさいます。

その一方で、歎く方もおられます。

そういう方はどういう言い方をするか。

「生長の家だけは分裂しないと思っていたのに、とうとう分派≠ェ生まれてしまった。残念でならない」

で、この歎く、後者の方については、その中身を子細にみていくと、これまた二つに分かれるような気がしています。

一つは、現総裁絶対支持派からの嘆き。

これは当然でありましょう。

「どうせたいしたことない」「そのうちに潰れるから」そう見下していたのに、まさか「宗教法人」を取得するとは思ってもいなかった…。

そういう驚きをともなった悔しさが、そこにはにじみ出ているような気がします。

今一つは、現総裁にはついてけないが、かといって「谷口雅春先生を学ぶ会」にもなじめないという人たちの嘆きというものがあるように思います。

こういう人たちは、一方で、尊師に申し訳ないという言い方もします。

尊師が創始せられた教団が分裂したことをもって申し訳ないという気持ちを抱くというわけです。

こういう方たちのことを、私はこれまで教団内本流派≠ニ称してきたわけですが、折角、私どものことを分派≠ニ称していただいていますので、それをもじって、ここでは教団内分派≠ニ申し上げたいと思います。

だって、現総裁にはついていけないというわけですから、現総裁絶対支持派からすれば、これもまたも立派な教団内分派≠ノ他ならないと思うからです。

それでは、ここから、この教団内分派≠フ皆さんの歎きが果たして至当と言えるのか、それを稿を改めて書いてみようと思います。


教団内分派≠ヘ家庭内別居≠ニ同じ。尊師からすればそれもまた歎きの対象とはなりませんか… (13384)
日時:2021年05月11日 (火) 13時33分
名前:破邪顕正


分派≠ェ宗教法人となったことで、尊師が歎かれるという言い方をする人は、自分達が教団内分派≠ニして見られているという自覚がないのではないかと思われてなりません。

いくら現教団に所属しているからと言って、その存在は、現総裁にとっては、決して快く思われてはいないわけです。

それが証拠に、現総裁は、そういう人達をスリーパーセル≠ネどと称して指弾したではありませんか。

つまり、現総裁は、自分についていけないと思うのであれば、サッサと退会して出て行ってほしいと言ったわけです。

にもかかわらず、退会しないで、なおかつ現教団に留まって、内部で尊師の学びをするということは、現総裁が最も忌み嫌うことをやっているということになりはしませんか。

これを解りやすく言うならば、教団内分派≠フ存在は、いわば家庭内別居≠ノも当たるということなのです。

尊師からすれば、この家庭内別居≠烽ワた歎かれる、悲しまれるお話なのではありませんか。

谷口輝子先生が、尊師の最期のご様子を『白鳩』誌・昭和六十年十月号にお書き下さっています。

その中に、こういうご文章があります。

〈…十二日の午後十二時過ぎ、先生は、
「病院には食事が出るんじゃなかったですか」
 と言われたので、看護婦さんに伝えると、午後五時三十分頃食事が届けられた。先生に、
「お粥と梅干でございます」と申上げ、お見せすると、先生は、
「僕は病人ではないから、お粥はいらない」
 と言われた。その看護婦さんがお食事をすすめると、先生は顔を横にふられて、
「食事というものは一家団欒で食べるのを食事というんです」
 と言われ、食事はなさいませんでした。〉

家庭内別居≠ヘこの一家団欒を壊すものに他なりません。

そうであれば、教団内分派≠フ皆さんが、外に出た吾々の宗教法人取得を尊師は悲しまれていると断ずるのには、とても納得がいきません。

だって、そういう皆さんもまた家庭内別居≠ニして尊師は悲しまれている存在して見られていると思うからです。

こちらへ向けたブーメランは、皆様も受けなくてはならいということです。


教団内分派≠フ皆さんは、尊師の教えを永遠に残すにはどうすればいいとお考えですか? (13386)
日時:2021年05月11日 (火) 14時18分
名前:破邪顕正


教団内分派≠フ皆さんが、密かに、尊師の教えの学びを積み重ねておられることは知っています。

そういう学びの会は、これまでにもありました。

しかし、そのいずれもが主宰者が逝去されるとともに消え去っていきました。

何故、そういう運命を辿るのか。

それは、失礼ながら、主宰者のファンの集い≠フ域を出ないでいたからだと私は思っています。

だから、その主宰者がいなくなれば、当然、そのファンの集い≠熄チえてしまう…。

それを乗り越えるには、ファンの集い≠、如何にして「組織化」するか、そこにかかっています。

そして、その「組織」が永遠性をもつのには、社会的な、公的な認知を得ることが必要不可欠となる…。

そう思えばこそ、私たちは「宗教法人」の認証を目指したのです。

総ては、尊師の教えを如何にして永遠たらしめるか、その一点にあったのです。

そのことをもって、尊師は歎かれているというのであれば、だったら、教団内分派≠フ皆さんは、どうやって、尊師の教えを永遠たらしめようと考えているのか。

それに応えなければなりません。

その構想もなく、ただ気にくわないからといって批判するというのでは、余りにも感情的に過ぎはしないでしょうか。

どうして、先人たちの真理の学びの集いは、主宰者の逝去とともに消え去ってしまったのですか。

少なくとも、私どもは、それを見据えて、単なるファンの集い≠ノ終わってはならない、それをまずは組織化すること。

その上で、宗教法人の認証を得ること。

そこまでを構想して、一歩、一歩、歩んできたのです。

その歩みを、とうとう分派≠ェできてしまった、尊師も歎かれているという一言で断罪されたのではたまったものではありません。

先人の同じ轍は踏まない、それが私たちの信念であり覚悟なのです。

それだけは、最低限、ご理解いただきたいと思います。



たとえ分派≠ニ言われようとも、立たざるをえなかったのです!教団内分派≠フ皆さんは、非難すべき相手を間違えています! (13387)
日時:2021年05月11日 (火) 16時54分
名前:破邪顕正


「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人となったことを歎く前に、どうしてそういう事態に立ち至ったかを考えてみるべきではないでしょうか。

『谷口雅春先生を学ぶ』の創刊の言葉には、こうあります。

〈我々には谷口雅春先生のみ教えの真髄がどこにあったのかを正しく研鑽して、それを世に問い、次の世代に残していく責務があります。我々は立ち上がります〉

ここにはっきりと示されているように、尊師の教えがこのままでは歪められてしまい、後世にそのまま伝え遺すことはできない…。

そういう危機感から「谷口雅春先生を学ぶ会」は生まれたのです。

もっと直截的に言えば、何故、分派≠ェ生まれざるを得なかったのか、それこそが本質的な問題だと言うことです。

総ては、現総裁が尊師を否定し、尊師の教えを踏みにじるようなことをやってきたからではないのですか。

ここで、私は、『明窓浄机』「発展篇」のご文章を紹介したいと思います(235頁)。

時代は昭和15年です。

ある信徒が、尊師にこう訊ねます。

《こんな事を云っては甚だ失礼ですが、現在の誌友の状態を見ていると、先生一人に信頼が集っていて、こんなに聴衆が集って来るのも、先生があればこそ。先生が亡くなったら生長の家はどうなるかと心配している誌友もあるようですが、そう云う時の備えに組織と云うことも御考えになりませんか。》

これに対して、尊師はこうお答えになっておられます。

《生長の家も私が亡くなったらどうなるか。私は屹度、適当な人が出て来ると思います。生長の家は他の宗教のように御筆先と云うような何方(どちら)にでも解釈出来るような漠然としたものが中心教義になっていないで、実に詳細を極めた教え「生命の實相」が教義になっていますから、教義の解釈が二様三様になって生長の家が分裂するなどと云うことはないと思います。》

尊師は、ここではっきりと、「生長の家が分裂するなどと云うことはない」と仰っています。

その根拠となるものは、生長の家の教義は御筆先≠ノよらない。

実に詳細を極めた教え「生命の實相」が教義になっていますから

ということであったわけです。

ところが、今や、どうですか。

肝心の、その「生命の實相」が現教団にはないわけです。

なくても構わないという雰囲気だし、あまつさえ「聖経」に取って代わって「経本」が幅を利かすような事態まで招いているわけです。

《教義の解釈が二様三様になって…分裂する》

解釈もなにも、「生命の實相」そのものが現教団にはないというこの異常事態!

これでは、却って「分裂」しない方がおかしいのではありませんか。

「分裂」もやむなしの状況を生み出したのは他ならぬ現総裁だということです!

そのことは皆さんも感じておられるからこそ、教団内分派≠ナあるわけでしょ。

まずは、自分達のことを教団内分派≠セと認識することです。

そうすれば、外に出て宗教法人を取得した私どもを批判することなど、出来ない筈です。

事ここに到っては、「分裂」してはじめて尊師の創始せられた本当の正しい「生長の家」を後世に伝え遺すことができる、そう自負している次第です。

ですから、批判すべきは「分裂」を招いた現総裁であって、それをこちらに向けるのはお門違いも甚だしい、そう思う次第です。

よし、私どもが宗教法人を取得したのが好くなかったというのであれば、それではどうすべきであったのか。

それもきちんとお応えしてほしいと思うものであります。


本当は、「生長の家教団」こそが分派ですね。嘆かわしいです。 (13388)
日時:2021年05月11日 (火) 22時22分
名前:そーれ!!

「聖経」「聖典」の横取りに失敗し、
御神祭も勝手に変え、嘆かわしい限りです。

誰が見ても、教団こそが分派ですね。

観音棒、何なんですかね・・・。
総裁は、身も心も浄めて彫ったのでしょうか。

神仏を、一体何と心得ているのでしょう?

神界から見れば、教団こそが分派ですよね。

その分派教団内が、更に分裂状態。

中心帰一を唱えても、求心力は全く無し。



ウサギと亀の話はあまりにも有名です。

教団が、「学ぶ会」に吸収合併される日。

そう遠くはないかも知れません。

「学ぶ誌」と「普及誌」を比べたら、

誰が見たって解ります。

今夜も、私の独り言です。

毎度、辛口ですみません。

それにしても、福岡教区。

先祖供養祭は、真面目にやるべきです。

総裁のご機嫌取りに、誌友の御先祖様を人質に。

如何なんでしょうかね?

分裂≠歎く一方で、現総裁を批判して已まない人は、それでは一体、どうせよと言うのでしょうか? (13419)
日時:2021年05月23日 (日) 11時09分
名前:破邪顕正


「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したことで分裂≠ェ決定的になったと歎き、あまつさえ、それをもって尊師が歎き悲しんでいると言われる方に、改めて申し上げたいことがあります。

それは、それでは、今の総裁、現教団に対して、どういう行動を取るべきか、はっきりとした方向性を示すべきであるということです…。

私の見るところ、そういう方に限って、現総裁のことを、尊師の教えを少しも理解していない、勉強不足であると難じられます。

分裂≠ヘいけないといい、その一方で、現総裁も駄目である…。

では、どうすべきか。

ただ、不平、不満、不足を言い募るだけなのですか…。

こういうと、いや、尊師の真理の勉強会をやっていると反論されるのかもしれません。

それに対しては、尊師のこのお言葉を呈したいと思います。

『白鳩』誌・昭和40年8月号にあるご文章です。

《どんな立派な邸宅に、その人が住んでいようとも毎日その美しい邸(やしき)の床の間に坐らされていたならば、飽きて来て、その邸宅から出て何処かへ行きたくなるに違いないのである。
…生長の家がどんな立派な宗教であっても、ただ坐って聖典聖経を読誦し、神想観を修して瞑想しておれというだけだったら、飽きて来て生長の家を出て、もっと低級な宗教であっても行動的な団体運動をしている宗教に参加したくなるかも知れないのである。
…その宗教が行動化して伝道や、救済事業や、政界の浄化などの問題などに具体的に動き出して来たとき、宗教の静的修養が動的救済運動に変って、そこに休眠火山が活火山になるように、活気と情熱とが湧いて来るのである。
情熱のない宗教は活きた宗教ではないのである。
多くの既成宗教が眠ったようになっているのは伝道と救済の情熱と行動とを失っているからなのである。》

私は、このお言葉は実に重要であると思っています。

尊師は、最初から「人類光明化運動」を提唱なさったのです。

ある人が、言った言葉が忘れられません。

「体操」は一人でもできる。

しかし「運動」は一人だけでは「運動」とは言えない。

だから、尊師は、立教当初から「組織」の構築を目指されました。

「運動」を志向なされたからです。

私は、尊師の、そのお志に従い、静的修養が動的救済運動≠ニなるよう努めていきたいと思っております。


分裂≠歎く人は、霊牌供養等はどうされているのでしょうか…? (13421)
日時:2021年05月24日 (月) 09時08分
名前:破邪顕正


私が、疑問に思うのは、分裂≠歎かれる方は、霊牌供養や大祓人型等はどうされているのかということです。

当然、分裂≠好くないと言う以上は、現教団に託されるほかはないと思うのです。

しかし、そこでは、現総裁が人間知で拵えた「経本」が読誦せられているわけです。

今や、現教団で「経本」を誦げていないというところはありませんし、総本山では大祓「人型」の焼納が『観世音菩薩讃歌』の読誦のうちに執り行われています。

分裂≠難ずる人は、まずはこの現状をどう見るのか…。

そういうことには眼を瞑って、現教団に託されるのでしょうか。

それならそれで結構です。

しかし、それにはとても納得がいかないという信徒もいるわけです。

実際、こう言ってこられる教団信徒さんがいます。

退会はできないけれども、「経本」での供養だけは我慢できない。

だから、「谷口雅春先生を学ぶ会」の会員ではありませんが、そちらで供養していただけますか?

勿論、よろこんで受けさせていただいております。

で、今や、先祖供養祭では、現教団の霊牌がどんどん増えてきてもいるのです。

そういうのを目の当たりにすると、改めて「谷口雅春先生を学ぶ会」を起ち上げて本当に好かったと思うのです…。

これもまた「宗教法人」として認証せられたが故である、社会的認知を得たからこそであると思う次第です。

分裂≠歎く方には、一方で、こういう現実があるのだということをぜひ、知っていただきたいと思う次第です。

要は分裂≠ニ見るか、それとも選択肢≠ェ広がったと見るか、そこなのだと思うのですが…。





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