《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《特報!》福岡県教化部における先祖供養祭では、「観世音菩薩讃歌」で招霊されています!「聖経」で招霊されないで、果たしてご先祖様は納得なさるのでしょうか? (13377)
日時:2021年05月09日 (日) 11時04分
名前:破邪顕正

知人から教えてもらい、福岡県教化部での先祖供養祭の様子を視聴させていただきました。

招霊の祭、読誦されているのは「観世音菩薩讃歌」であることを、はっきりと確認いたしました。

現在の福岡教区の教化部長は、以前、参議長でした。

そういう方のもとで、こういう「観世音菩薩讃歌」による招霊が行われているということは、これが他の教化部にも伝播していく…。

今後の教団の流れとなっていくのではないでしょうか。

問題は、果たして、信徒は「観世音菩薩讃歌」で招霊されるという事実を知っていて、それを納得づくの上で、霊牌を出しているのかということです。

もし、そうではなくて、今まで通り「聖経」で招霊されるものと思い込んで霊牌を出しているとすれば、これは由々しき問題となるのではないでしょうか。

だって、それはまさしく騙し≠ノ他なりませんから…。

こういう重大なお祭り、儀式等の変更については、まずは当然、信徒に告知すべきである…。

何故、変更しなければならなかったのか。

その理由も含めて、きちんと機関紙等でお知らせしなければならないと私は思います。

よし、その変更事実も、変更理由も示さず、信徒が与り知らないところで、勝手に変更したとすれば、それは何か後ろめたい思いがあるからに他ならない…。

その変更を、関係者自身も決して納得してはいない…。

寧ろ、好からぬことだと思っているからではないのか…。

そう勘ぐられても致し方ないと私は思います。

逆に、ちゃんと告知しているとすれば、どういう理由で変更するにいたったか、その経緯をきちんと知りたいと思います。

それはそれで大いに関心のあるところだからです。

その真偽のほどについて、続報を待ちたいと思います。


『“新しい文明”を築こう 中巻 実践篇』において、先祖供養祭で「讃歌」を読誦することが、はっきりと記されています!つまり、これが現教団の方針なのです! (13378)
日時:2021年05月09日 (日) 17時22分
名前:破邪顕正


東京第二教区の三浦教化部長、福岡教区の大塚教化部長はいずれも参議長経験者です。

前者は、教区の機関紙において、こう書いています。

〈聖経『甘露の法雨』など聖経等の読誦は、最も貴い「法施」であると云えます〉

何故、「聖経」といわず、わざわざ聖経等≠ニ記さなければならなかったのか。

で、後者は、堂々と『観世音菩薩讃歌』での招霊を実修しています。

つまり、この二人の参議長経験者によって、もはや現教団の先祖供養祭においては、『讃歌』を読誦することが一つの既定路線であるということなのです。

それもその筈、表題に掲げたように、そのことは既に『“新しい文明”を築こう 中巻 実践篇』に、「祖先供養及び霊魂祭祀の方法(要項)」と題して、次のように記されているのです(251頁)。

〈四、聖経または讃歌の読誦

 次に、聖経または讃歌を読誦します。その前に次のように唱えます。
「唯今、これより生長の家の『○○○○』という聖経(讃歌)を読みます。この聖経(讃歌)はあなたが先祖代々伝承して来られた××教の教えの真理を、わかり易く現代語に表現したものですから、心を集中してお聴き頂き悟りを開き、仏の境涯に達し給え。今後は毎日この時間に読誦いたします」〉

ここで、興味深いのは、三浦教化部長は、どうして聖経等≠ニいう表現を用いたのかということなのです。

はっきりと、現教団の方針にあるとおり、こう書けば好かったのです。

〈聖経『甘露の法雨』や『観世音菩薩讃歌』の読誦は、最も貴い「法施」であると云えます〉

私は、そう書けなかったところに、三浦教化部長の本心が透けて見えたような気がしています。

つまり、三浦教化部長にしてからも、『観世音菩薩讃歌』の読誦は、最も貴い「法施」である≠ニまでは言い切れない…。

内心、先祖供養は「聖経」だけでいいのだがな…という思いが、心のどこかにある…。

かといって、参議長経験者としては、本部方針に反することはできない…。

だから、聖経等≠ニいう表現で、苦渋の誤魔化しをした…。

そういうことではなかったか。

何を申し上げたいか。

結局、みんな、本音では、「聖経」だけの読誦でいいと思っているということなのです。

そういう本音を隠したところで実修される現教団の先祖供養祭。

それで、果たして、本当にご先祖さまの御霊が救われるものなのでしょうか。

そこのところをぜひ、お考えいただければと思うものであります。



「聖経」と「讃歌」とを同じ扱いにして、果たして、ご先祖様は納得されるのでしょうか…? (13380)
日時:2021年05月10日 (月) 10時42分
名前:破邪顕正


ここで思い出していただきたいのは、「讃歌」が当初、発表された際には、これは「聖経」に取って代わるものではないと言われていたことです。

ところが、『“新しい文明”を築こう 中巻 実践篇』を見れば、明らかなように、「聖経」と同じ扱いに格上げされ、堂々と「聖経」に取って代わるものとされています。

そして、驚くべきことは、ここまではっきりと言い切っていることなのです。

〈…この聖経(讃歌)はあなたが先祖代々伝承して来られた××教の教えの真理を、わかり易く現代語に表現したものですから、心を集中してお聴き頂き悟りを開き、仏の境涯に達し給え…〉

どうですか、この自信に満ちたあらわれようは。

『讃歌』を読誦すれば、悟りを開き、仏の境涯に達し給≠、ことができるというわけですから…。

果たして、それは、ここまで自信をもって言えるほど、至当と言い得るものなのでしょうか。

例えば、『観世音菩薩讃歌』には、こういうくだりが出てまいります。

〈大規模なる火山活動にて
山崩れて海に入(い)るとも
その結果に善悪なし。
猛獣走りて鹿を倒し
カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、
その結果、必ずしも悪に非ず、
善に非ず、
定められたる法則の産物にすぎざるなり。
そこに善悪を見、
善悪の意味を問うは、
人間の心働くが故なり。
人間の心関与せざる世界は
善に非ず、
悪に非ず。…〉

一目瞭然、これは苛烈なる「自然現象」や弱肉強食の「現象世界」が謳われています。

何故、「聖経」が先祖代々伝承して来られた××教の教えの真理を、わかり易く現代語に表現したもので…悟りを開き、仏の境涯に達し給…≠、ことができるか、それは一にかかって「現象なし、實相独在」の教えを説いているからに他なりません。

ところが、『観世音菩薩讃歌』は、明確に「現象あり」の世界を謳っているわけです。

これで、どうして悟りを得られるでありましょうか。

そもそも、招霊されるとき、猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らうれども≠ネどという文言を聞かされて、果たして御霊さまは喜ばれるでありましょうか。

本当に、こういうもので招霊されていいのか、ぜひ、お考えいただきたく思います。


福岡教区では、「讃歌」での招霊を、信徒には告知していないようです… (13382)
日時:2021年05月11日 (火) 11時32分
名前:破邪顕正


福岡教区には、地方道場もあります。

そちらでは、これまで通り、「聖経」だけでの先祖供養祭が執り行われています。

「観世音菩薩讃歌」での招霊はなさっていないのですね?

そう問い合わせたら、間髪を入れず

そんなことはしません

との回答だったということです。

ということは、あくまでも、「讃歌」での招霊は、福岡県教化部だけのことのようです。

やはり、予想していた通り、この祭祀変更を信徒に告知することはしていなかったということです。

逆に言えば、これを通知したときの、信徒の反発が怖かったということがあるのかもしれません。

岡山教区でも、「聖経」のみの先祖供養を執り行っていると言います。

「讃歌」による招霊は、前途多難ということでしょうか。

なるほど、今は様子見の段階かもしれませんが、これまでの教団のやり方を見ていると、いずれは強引に推し進めるような気がしています。

果たして、この先、「讃歌」による招霊がどこまで広がるか…。

これまた注目してまいりたいと思います。


「讃歌」で招霊したら。 (13389)
日時:2021年05月12日 (水) 00時28分
名前:そーれ!!


悟ったご先祖様、来られるでしょうか?

何故、「観世音菩薩讃歌」での招霊が問題なのか… (13390)
日時:2021年05月13日 (木) 10時18分
名前:破邪顕正


一言で言えば、それは、ご先祖の御霊さまが、聞いたこともないような「経本」を読まれることを嫌がられるに相違ないと思うからです。

私自身、一度、読んで投げ出してしまったような「観世音菩薩讃歌」を、どうして霊界のご先祖様が喜ばれるはずがありましょう。

霊界で修行なさっているご先祖様は、現界にいる私ども以上に、真贋の目利きは鋭いのではないでしょうか。

新編『生命の實相』第26巻「人生問答篇」に、こうあります(188〜189頁)。

《…この「肉体の死」ということは何であるかといいますと、あなたは画家ですが、肉体というものは、吾々の「生命」という画家の描いた絵の一つです。
肉体が死ぬということは、その絵の一つを終るということであって、画家自身が死ぬことではないのです。
吾々は一つの絵を書き終ったら、また他の画布(カンパス)に描くのです。
肉体は吾々が「現界」という画布に描いた絵です。
吾々は「念(こころ)」という手法(テクニーク)で「現界」という画布に絵を描く。
それが吾々自身の現実の肉体であり、現実の境遇であります。
それが終ったら吾々は画布を変えて「霊界」という画布に同じく「念」という手法で絵を描くのです。
画布が異っているから絵の表現も異う。
一方は現界という粗い画布に描くから「肉体」という粗っぽい絵ができる。
一方は霊界という精練された画布に描くから「霊体」という精緻な絵が描かれる。
しかし要するに「体」というもの吾々自身ではなく、吾々の描いた絵であるから、いくら現界、幽界、霊界と画布を変えても、自分の「念」という手法が変わらない限りは、同じような出来栄えの絵が出来るのです。》

ここでは、霊界が精練された画布≠ノたとえられ、「霊体」という精緻な絵が描かれる≠ニ記されています。

現界にいては、なかなか「肉体なし」と言われてもピンと来ません。

しかし、霊界では、それなりの修行を積んだ霊魂であれば、すんなりとそれを受け容れることができます。

そういう御霊さまが、「現象アリ」を説く「観世音菩薩讃歌」で招霊されたら、どう思うか、おおよその察しはつこうというものです。

生前、「生長の家」の教えに触れた御霊さまであれば、間違いなく「聖経」で招霊されるものと信じて降りてこられるはずです。

ところが、それが聞いたこともない「観世音菩薩讃歌」だったら、「降りるところを間違えた」と不信に思われるのではないでしょうか。

降りるに降りられなくなった…。

これでは、折角の先祖供養祭が台無しです…。

改めて、「観世音菩薩讃歌」による招霊は、大変な問題を招来させると思うものであります。


神授の『甘露の法雨』、人間力の『讃歌』 (13393)
日時:2021年05月13日 (木) 17時26分
名前:毘沙門天

破邪顕正様、教化部で行われている最近の先祖供養祭の実態、そしてそれが員必携と称する『“新しい文明”を築こう中巻 実践篇』において、先祖供養祭で「讃歌」を読誦することが規定され、行われているとの情報を伝えて下さり、ありがとうございました。

 谷口雅春先生は、かつて、「宗教の成立と神癒について」と題するご文章の中で、似非お経≠フ害について次の如くお書き下さっています。

「自分の人間力で『甘露の法雨』の真似をしたお経類似のものを創作して、それを読むことを勧め、その経本を売る。それで本部へ奉納される奉納金は全部御自分の牧入になる。これほど旨いことはないのでありますが、その代り、こういう狡猾な個人的な利慾的な行為をしますと、霊界からの守護がなくなります……」(『理』誌32年4月号)

雅宣総裁は平成24年5月27日、氏のブログで、
(『甘露の法雨』が)「生長の家の礼拝の本尊”とされている観世音菩薩について、あまり言及がないことだ。この長編詩「観世音菩薩讃歌」も、前回のものと同様に「聖経に取って代わるもの」を意図していない。諸処に聖経から引用しながら、聖経では触れられていない方面への補強を試みている。」と記しています。

 これを読めば『讃歌』は正に意図して、つまり人間力≠ナ書いたものであると明かしています。しかも最後のところでは「補強を試みている」とまで言い放っています。そして今は大事な供養祭で同等の扱いとなっている現状を知ると、この先、いつまで『甘露の法雨』が読まれるのだろうかとの思わざるを得ません。

 それに対して、谷口雅春先生は、先に紹介したご文章の中で、聖典・聖経が高級神霊に守護されていることをお説きくださっています。
 「人類救済のための真理の書物などにも、皆一冊一冊霊のメンバーが守護している。直接守護していない場合でも、分霊というべきか、一種の放射能の分れというものがその真理の書についている。ですから、聖経や神誌を持っているだけで功徳を得たという人も沢山ある。それで、『甘露の法雨』が身代りになって、自分は助かったというような出来事も起つて来るのであります……」

神授の聖経『甘露の法雨』が人間力の『讃歌』と同等の扱いで読誦されるようになって、このような讃歌を365日聞かされれば救われるべき先祖の霊も迷いの淵に沈むことでしょう。

「毘沙門天」さんの投稿にますます勇気づけられました! (13398)
日時:2021年05月14日 (金) 09時58分
名前:破邪顕正


まずは、タイトルに感服いたしました。

神授の『甘露の法雨』、人間力の『讃歌』

神さまから授かったものと人間知で拵えたもの、その出発点からして、それこそ「天と地」ほどの違いがあるにもかかわらず、それを同等に扱ったというところに、すべての間違いがあったのだと思うのです。

私事で恐縮ですが、毎朝、「神想観」を実修し、その後「聖経」を読誦する前に、『真理の吟唱』を一節ずつ拝読させていただくことにしています。

本日は、『続 真理の吟唱』「地上天国実現の祈り」でした。

その中にこうあります。

《万物の霊長たる人間の心の波≠アとごとく相和してすべての生きとし生ける者の心を支配するが故に、すべての生物互いに亦相食むものなく争う者なく、傷つけ合うものなく、ことごとく大調和して睦び合う》(74頁)

これがまさしく「地上天国=実相世界」でありましょう。

「神があらわれた世界が実相世界」でありますから、聖経「甘露の法雨」にもこうあるわけです。

《神があらわるれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。》

「大日本神国観」にも「みこころの天に成る世界」がどういう世界であるか、こう示されています。

《中心帰一、万物調和の永久平和の世界今現ず。一切の生物ところを得て争う者なく相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。》

聖経「甘露の法雨」にあるのと同じ一節がここにも出てくるわけです。

これこそが、尊師のお悟りであったと思うのです。

ところが、「観世音菩薩讃歌」では、こういうわけでしょ。

〈猛獣走りて鹿を倒し
カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、
その結果、必ずしも悪に非ず、
善に非ず、
定められたる法則の産物にすぎざるなり。〉

どうして、これが「聖経」と同等の扱いになるのですか。

これを招霊する際に読んでいる元参議長等は、いったい、何を考えているのかしら…。

信じられない思いで私は見ています。

更に、私が耐えられないのは、この「観世音菩薩讃歌」の始まりの言葉なのです。

〈天使(てんのつかい)、ふたたび生長の家に来りて教え給う〉

ということは、端っから、現総裁は「聖経」に取って代わるものとして拵えようとしていたということでしょ。

そうでなければ、書き出しに、こういう文言をもってくることはあり得ません。

で、ここで深刻な問題が実はあるのです。

「聖経」にある天使≠ニ「讃歌」の天使≠ニは果たして同じ天使≠ナあるのかということです。

先ほど、申し上げましたように、前者の天使≠ヘ

《一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく》

と教えています。

ところが、後者の天使≠ヘ、それとは全く違って

〈猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らう〉

と言うのです。

どう考えても、同じ天使≠ェ言っているとは思えません。

その疑問を訴えたら、相手の口さがない知人がこう言いました。

天使は天使でも、総裁が拵えた天使にはそのまえに「ぺ」がついているんだよ

ともあれ、こんなシロモノに「聖経」がどんどん取って代わられていくとしたら、これは尊師の教えを根本から否定し、崩壊させる以外のなにものでもありはしません。

その意味で、今後、この「讃歌」がどう広がっていくのか、関心をもって注視していきたいと思います。


ご先祖の御霊さまは、神授の「聖経」で招霊されることをこそ願っておられると確信します。 (13401)
日時:2021年05月15日 (土) 12時25分
名前:破邪顕正


新版『人生を支配するを先祖供養』を拝読させていただきますと、ご先祖の御霊さまは、子孫が勝手に宗旨を替えること、とりわけ耶蘇教に替えることを嫌悪されるということが、次のように示されています(30〜31頁)。

《日本人の祖先の霊魂たちの多数は、国粋的とでもいうか、多少排他的な褊狭な霊魂があるのであって、耶蘇の耶の字を聞くだけでも嫌いだというような人の霊魂がある。
…そういう霊魂たちの霊界へ行って、われわれの子孫が耶蘇教信者という名前を附けて入ったら、「えらいことだ。こいつは汚れた奴になってきた」という偏見をもって毛嫌いして、容易に子孫を霊界の生活に馴れるまで導いてくれないのである。》

この箇所を引用したのは他でもありません。

ご先祖さまは、宗旨替えについては実に厳しいと思うからです。

私が恐れるのは、「讃歌」で招霊されたら、ご先祖様は、子孫が勝手に宗旨を替えたのではないのか。

「聖経」という神授の素晴らしいお経があるというのに、どうしてそれとは内容が根本的に違うお経≠読むのか…。

えらいことだ。こいつは汚れた奴になってきた

そう思われる恐れなしとはしないからです。

「讃歌」で招霊するのは、恰も、宗旨替えをするも同然のことなのだと思い知るべきではないでしょうか。

それぐらいの、信仰上、実に深刻な問題である…。

そういう認識をどんどん広げていく必要があると思うものであります。




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