《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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〈教団信徒の方へ/シリーズ@〉現教団を退会しないことが、果たして信仰の節操≠守るということになるのか… (13350)
日時:2021年04月28日 (水) 14時57分
名前:破邪顕正


私どもの会員さんから、こういうご質問をいただきました。

現教団で幹部をしている妹が悩んでいたので、思い切って、「そんなに悩んでいるのならば退会したら」と水を向けたら、「これまで何かとお世話になってきたのに、今更退会なんて、そんな節操のないことはできない」そう言われてしまいました…。

これをどう考えたらいいのでしょうか?

そういう質問を受けました。

いつも思うことですが、こういう場合、大切なことは、具体的な事実や事例をもって応えるのが一番だということです。

今回は、果たして「退会=無節操」かという問題提起となります。

私ならば、いの一番に、尊師が大本教を脱退なされた事実を申し上げます。

そのことをもって、果たして尊師に対して、信仰者としての節操がない≠ニ言えるでしょうか。

言えるわけがありません。

ご存じのように、本当の神は裁かない、その本当の神を求めたが故に、尊師は敢えて脱退の道を選ばれたわけですから…。

つまり、退会しないことが信仰の節操を守ることになると言い張るには、現教団に本当の神がおられる、そう断言できなければならない…。

この妹さんは、色々と悩んでおられるようです。

何故、悩んでおられるのでしょうか。

私に言わせれば、現教団にはもしかしたら本当の神様はおられないのではないのか、うすうす、そう感じ取っていられるからではないのか。

だからこそ、尊師が大本教を脱退せられたことの重要性が意味を持つのです。

今、こういう悩みを抱えた教団信徒の方は、思いのほか、多いのではないでしょうか。

そういう悩める信徒に、どうお声かけしていったらいいのか。

今や、現場では信仰の本質、根幹に関わる重大な問題が生じている…。

これまで投稿してきたことの繰り返しになる場合もあるかもしれませんが、現教団の信徒さんとのやりとりにおいて、こういうお声かけはどうでしょう…。

そういう観点から、シリーズで、思うところを書いていきたいと思います。


教団信徒の方へ/シリーズ@〉現教団を退会しないことが、果たして信仰の節操≠守るということになるのか (13351)
日時:2021年04月28日 (水) 15時21分
名前:国内最北教区を脱退したもの

ありがとうございます。
破邪顕正様、初めて書き込みさせて頂きます。
私は過去、4年程前に夫婦そろって、現教団を退会しました。
嫁さんは、地方講師まで受験して合格し、何回か出稿も
しました。
別に私は退会しても全然問題ないと思います。
現教団の教えに夫婦そろって納得がいかなかったのですから。
でもことあるごとに、生命の実相は拝読しています。
自分は2年程前に一人でしたが、学ぶ会の全国大会にも参加
させて頂きました。
つたない返信で申し訳ございません。

再拝

「国内最北教区を脱退したもの」さん、投稿ありがとうございました。 (13352)
日時:2021年04月28日 (水) 18時47分
名前:破邪顕正


初めての書き込み、嬉しいです、有難いです。

拙稿にすぐさま反応していただき、感謝しかありません。

現教団に大変、お世話になった者の一人として、私自身、脱退するということがどれほどの苦悩を伴うものか、痛いほど分かります。

よくしていただいた信徒の皆さんからすれば、「私たちを見捨てていくのですか」そういう思いに駆られたとしても何ら不思議はありません。

長年、培ってきた人間関係もあります。

脱退するとなると、そのすべてを失う…。

これまでの過去の実績もすべてご破算になる…。

また、ゼロからのスタート…。

煩悶しないわけがありません。

しかし、結局はこの一言につきます。

真理は曲げられん

これを伝え続けるしかないと思っています。

同じような思いをしておられる教団信徒の方に、何かお伝えできるものがあるとしたら、やはりこれだと思うのです。

何が真理なのか。

それを改めて、このシリーズで問い直していきたいと考えています。

お読みいただければ幸いです。



〈教団信徒の方へ/シリーズA〉「先祖供養感謝祭」と何故、名称を変更したのか…。先祖供養に「経本」が入り込んでいいのか…。 (13354)
日時:2021年04月30日 (金) 15時30分
名前:破邪顕正


知人から、東京第二教区の機関紙「多摩の光」5月号をいただきました。

そこに、こう書いてありました。

〈令和3年度から、先祖供養祭はその趣旨を明確にするために、「先祖供養感謝祭」と表記します。内容に変更はございません。〉

これを読んで、「国際平和信仰運動」が提唱されたときのことを思い出した方も多いのではないでしょうか。

これまでの「人類光明化運動」と何も変わりません、ただ国際平和を目指すという趣旨を明確にするために「国際平和信仰運動」という名称を用いるのです。

何も変わりません、と言いつつ、結局は環境運動へと変わっていったわけです。

またぞろ、同じ手口を使おうとしているのではないのか…。

こういうことです。

機関紙の一面に三浦教化部長がこう書いています。

〈先祖あっての子孫です。植物の根に養分が必要であるように、生命の根である先祖にも供養が必要です〉

そういう三浦教化部長は、現総裁の意向を受けて尊師の『聖典』絶版に暗躍したわけです。

ということは、〈先祖あっての子孫〉とは言い得ても〈尊師あっての生長の家〉とは思っていない…。

〈生命の根である先祖にも供養が必要です〉とは言い得ても、だからと言って、そのためには「聖経」による真理供養が必要だとは思っていない…。

それが証拠に、三浦教化部長は、こう書いています。

〈聖経『甘露の法雨』など聖経等の読誦は、最も貴い「法施」であると云えます〉

どう読んでも、この文章はオカシイでしょう。

〈聖経『甘露の法雨』の読誦は、最も貴い「法施」であると云えます〉

これでいいわけです。

実際、その後の文章で、三浦教化部長は、『如意自在の生活365章』174頁から尊師のお言葉を引いています。

そこにははっきりとこうあります。

《真理の言葉(聖経)を読んであげることは非常な功徳があることなのであります。だから、常に、仏壇または祖霊祭祀の宝壇の前で聖経『甘露の法雨』を読んであげることは、霊界の諸霊を救済するところの非常な功徳ある法施(真理の供養)となるのであります。》

なのに、どうして、三浦教化部長は「聖経等」と言うのでしょうか。

言うまでもなく、この「聖経等」という文言には、現総裁が拵えた「経本」が含まれています。

つまり、新年度、名称変更となった「先祖供養感謝祭」では「経本」も読誦するということを暗々裏に示しているのです。

「内容に変更はございません」と謳ってはいますが、「聖経等」と言っている以上、それは大きな変更になるのではありませんか。

現教団の信徒の皆さんには、先祖供養に「経本」が入り込んでもいいと思われるのか、そこを是非、お考えいただきたいと思うものであります。


〈教団信徒の方へ/シリーズB〉創始者を蔑ろにしていて、どうして先祖供養の大切さを訴えられるのでしょうか… (13356)
日時:2021年05月01日 (土) 08時06分
名前:破邪顕正


谷口輝子先生三十三年祭を執り行うべき日の4月24日、現教団は自転車リレーに一所懸命であったことは既報の通りです。

そういうことをやってのける現教団が、一方で、先祖供養の大切さを説いても、何ら説得力を持ちはしない、私はそう思います。

何故と言って、先祖供養で最も大事なことは、「先逝きし人を忘れない」それに尽きると思うからです。

だから、日本人は、祥月命日だけでなく月命日も大事にしてきたし、何回忌供養ということで、とにかく「先逝きし人を忘れない」ように努めてもきたのです。

勿論、ただ忘れないだけではいけない、「先逝きし人」がどういう人生を送ったのか、それを偲ぶようにもしてきたのです。

果たして、現教団は、尊師を心から偲ぶように努めているでしょうか。

偲ぶということは、尊師のお志を受け継ぐことと同義であらねばならないと私は思っています。

それと真逆のことをやっているのでは、それはとても偲ぶということにはあたらない。

それでいて、いくら先祖供養を説いても、少しも心に響いてはきません。

尊師を蔑ろにしていて、果たして本当の先祖供養が成り立つのか。

「先祖供養感謝祭」と名称変更をしたようですが、現教団では、どのように尊師への感謝の真心を捧げているのか。

どのように報恩の誠を尽くそうとしているのか。

その当たりのこともぜひお考えいただければと思うものであります。





観音棒だとさ・・・ (13359)
日時:2021年05月01日 (土) 19時05分
名前:なんだこれはっ!

谷口雅春先生は「自分には休日はない」と仰り、生涯伝道されましたが、講習会も軒並み中止にして、現生長の家総裁はお暇なようですね。
なんなんでしょうか?この気味の悪い「観音棒」とは?
https://www.facebook.com/watch/?v=550648522581873

なんなんでしょうか?ノンロックリレーとは?
谷口輝子先生の三十三年祭より重要なんでしょうか?

〈教団信徒の方へ/シリーズC〉「現総裁は裸の王様≠セ」という声をあげるべきではないでしょうか? (13361)
日時:2021年05月02日 (日) 10時25分
名前:破邪顕正


「なんだこれはっ!」さん、投稿、ありがとうございました。

石≠フ崇拝の次は、観音棒≠ナすか…。

教団トップが、得意満面で観音棒″成に夢中になっているのを見て、信徒はこれを誇りに思うのでしょうか。

でも、沢山の書き込みを見ていると(殆ど女性ですが)、「いいね」と思っているみたいですね。

で、どうなんでしょう。

だったら、もう「いいね」と本気で思っている信徒だけで教団を運営していったらいいのではありませんか。

一方で、それにはどうしてもついていけない、という人もあるだろうと思うのです。

現総裁に絶対の忠誠を尽くす人。

方や、現総裁にはもうついていけないと思う人。

どんどん、その懸隔が大きくなっていっているように思うのです。

今回の観音棒≠ノは、ほとほと愛想もこそも尽き果てた、そう思った信徒は少なくないのではないでしょうか。

そういう人は、遠慮無く退会していただいても結構です…。

そういう太っ腹なところを現教団は見せたらどうでしょうか。

だって、何人にも「信教の自由」はあるのですから…。

でも、そんな太っ腹は見せられないでしょうね。

それを許したら、雪崩を打って退会者が出る…。

その危惧が現実のものとなると思うから…。

だから、結局は、今まで通り信徒を縛り付けるしかない、そうなるのでしょうね。

ならば、信徒の方がはっきりと声を上げたらどうでしょう。

観音棒≠フ作成が、今、「生長の家」が為すべき一番のことだとはとても思えません…。

そういう方向に教団が行くのであれば、私が思っていた生長の家とは根本的に違ってきているように思いますので、退会させていただきます。

そういう声がぜひ欲しい…。

私に言わせれば、今の総裁は裸の王様≠ニしか思えません。

周りが「いいね」とヨイショしているから気づかないのでしょうが、見ている人は見ていると私は思います。

現総裁の有り様を見て、眉を顰めている信徒は必ずいる、私はそう確信します。

誰かが裸の王様≠セと言わないといけない…。

もうそこまで来ていると私は思っています。


〈教団信徒の方へ/シリーズD〉「生長の家」と名乗ることが恥ずかしい。観音棒≠バトンにしてはいけないでしょう… 創 (13364)
日時:2021年05月03日 (月) 11時38分
名前:破邪顕正

「生長の家の信徒です」

昔ならば、胸をはってそう言えたのに、今は、それが言えない…、それが辛い。

これはよく耳にする話です。

今回の観音棒≠ナ、ますますその思いを強くされた方も多いのではないでしょうか。

それとも「総裁のことは関係ありませんから」と知らぬ顔の半兵衛を決め込みますか。

さて、今回の観音棒≠ナすが、世間には観音信仰の信徒はたくさんおられます。

創業者がその観音信仰だったことで「Canon」という会社名にしたことはよく知られた話です。

そういう観音信仰に立つ信徒が、観音様を掘って、それを拝むのではなくバトンにするというのを知ったらどう思うでしょうか。

それが一信徒ならばまだしも、教団トップがやり、それを映像にして公開しているわけです。

恥ずかしい≠ニいう感覚はないのでしょうか。

宗教家としてのセンスを疑います。

だって、仏像をもってバトンの代わりにすれば、それはみんな異常だと思うでしょう。

見方によっては、そういう異常なことを現総裁はやってのけているわけです。

とにかく、何が嫌かと言って、自分が趣味でやっていることを教団の方針にしてしまうことです。

公と私との境目を無くしてしまっているのではないのか。

自分が宗教家である、そしてそのトップに立っているという自覚が根本的に欠如しているのではないのか。

そんな疑問、不信感が次から次へと湧いてきます。

にもかかわらず、それを「いいね」といってヨイショする信徒がいるわけです…。

総裁も総裁ならば、ヨイショする信徒も信徒だと私は思います。

そういう団体に所属しているということを教団信徒の皆さんが、どう思うかです。

「私どもの総裁は、こういう方です」

それを胸を張って言い切れないようになってしまっている…。

今日の教勢の長期低迷とそれとは決して無縁ではないと思うのですが…。


〈教団信徒の方へ/シリーズE〉ムスビ≠ゥら「造化の三神」の勧請となり、それが石≠フ崇拝となり、今度は観音棒≠ナすか… (13368)
日時:2021年05月04日 (火) 12時44分
名前:破邪顕正

表題は、「唐松模様」2021年4月26日 (月)付けの記事「第1回ノンロック・リレー」が終わる≠読んでの感想です。

現総裁は、こう言っています。

〈…この観音棒の額にある三角形のことを話します。分かりますね。この観音さまの額のところには、大きな三角形が彫られています。そして、私は過去に何回も、「ムスビの働きを形で表せばそれは三角形になる」と申し上げました。私たちは、その三角形を刻んだ観音さまをバトンとして、山梨県の大泉町から福島県の西郷村まで…79人のリレーにより、約691kmの距離を走りました。このイベントの象徴的意味を皆さんには考えほしいのです。

 これは多くの信仰者が同じ信仰を受け取り、次に渡しながら「ムスビの働き」を広げていく活動を進めていく、ということです。〉

ここで私が注目したのは、同じ信仰≠ニいう表現です。

勿論、これが尊師のお説きに成られた信仰でないことは明白です。

現総裁が唱えはじめた「ムスビの働き」という信仰なのでしょう。

この「ムスビ」でまず思い出すのは、総本山のご祭神を「住吉大神」から造化の三神≠ノ変えたことです。

それから、今度は石≠フ崇拝へと移っていきました。

その間の事情は、拙稿「トキ」さんの投稿にあった石を拝み出した≠ニいう意味をご紹介します。どうも現教団は、石≠フ信仰に突入したようです… (13284)≠ノ書いております。

その中の、肝心な部分を、機関誌『生長の家』2020年9月号「石と信仰(1)」から引きます。

<今日は皆さんに、最近“森の中のオフィス”で始まった新しい儀式についてご紹介したいと思います。オフィスの敷地内のエネルギー塔と呼ばれる場所の北側に、祠があります。今までは小川のほとりにあったのですが、このたび移設しました。皆さんもご存知だと思いますが、天之御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神の造化の三神を祀ったお社です。この祠のすぐ後ろに、大きな岩があり、私たちはこれを「ムスビ岩」と呼んでいます。なぜムスビかというと、もともと一つだった岩が二つに割れているからです。
 このムスビ岩の周りに石を並べました。ピンと来る方もいらっしゃると思いますが、縄文時代からある風習といいますか、宗教儀式の原型――最も古い形のものを再現いたしまして、「ムスビの庭」を作りました。環状列石という言葉を使うこともありますが、そういうものを作り、この一番大きなムスビ岩の北側に、私たちが三角形を刻んだ石を納めるという儀式を始めたのです。〉

そして、今回、観音棒≠ニなったわけです。

これをバトンにしてリレーすることが、果たして「ムスビの働き」を広げていく活動≠ニ言えるのでしょうか。

それより何より、私が理解できないのは、それをもって「信仰」と言えるのか、ということなのです。

そこのどこに尊師のご教示くださった「信仰」の香りがあるというのでしょうか。

もはや、これは完全に、尊師の教えとは違う異形の信仰≠ニいうほかはありません。

それを「生長の家」の名でやっていることに、私は実に耐えられない思いが湧いてくるのです。

これは、尊師の創始せられた「生長の家」を冒涜する以外のなにものでもない…。

こんな冒涜を拱手傍観していていいのか、その思いがどうしても禁じ得ないのです。

信徒の皆さん、本当に、これを「生長の家」の教えとして、信仰として受け容れられるのですか?

現総裁が「第1回ノンロック・リレー」が終わる≠ニ言っている以上、当然、第2回、第3回もあると心得ておかなければなりません。

まだまだ、こういうものが続くわけです。

本当にそれでいいのですか?



〈教団信徒の方へ/シリーズF〉酒乱の父親を祈りにより立ち直らせたという体験談をもってこられても… (13379)
日時:2021年05月10日 (月) 09時16分
名前:破邪顕正


表題は、こういうことです。

現教団が左傾化して、本来の「生長の家」ではなくなっていることをどう思うのか…。

かつて一緒に活動していた教団信徒に、会員がこう尋ねた…。

すると、こんな答えが返ってきたというのです。

〈酒乱の父親の実相を祈って癒やしたという体験があるでしょう。総裁先生を非難するのではなくて、そういう祈りをするのが信徒のあるべき姿なのです〉

これを聞いて、私が何に驚いたと言って、現総裁のことを酒乱の父親になぞらえたということなのです。

で、私は思いました。

血の繋がった父親であれば、たとえ酒乱であっても見捨てることは出来ないでしょう。

しかし、相手は、「生長の家総裁」なのですよ。

それを酒乱の父親に見立てるということ自体、もはや常軌を逸していると言わざるをえません。

普通は、総裁先生が信徒のことをお祈りくださっているというのが当然でしょう。

それが、逆に、信徒が総裁先生のことを祈っていかなければならないなんて、おかしい話たとは思われませんか。

私は、そういう教団信徒の方には、こう問いたいです。

そういう信仰で、果たして、胸を張って「生長の家」を名乗れますか?

今、信徒に問われているのは、自分の信仰に心からの誇りを持てるかどうか、それに尽きるのだと思っています。




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