《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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現総裁によって、今や「生長の家」は石を拝む宗教≠ニなってしまった!これは「神観」の3度目の変遷である… (13294)
日時:2021年04月09日 (金) 15時04分
名前:破邪顕正


現総裁が教団に乗り込んでやってきたことを振り返ると、大まかに、二つに分類されるように思います。

一つは、愛国者の教団追放です。

その嚆矢 (こうし)となったのが生政連の活動停止という名の実質上の解散≠ナあり、愛国聖典の相次ぐ絶版であります。

これについては、これまで繰り返し繰り返し、投稿してまいりましたので、屋上屋を重ねることは差し控えたいと思います。

今一つが、表題に掲げた「神観」の根本的変更であります。

まず最初は、住吉大神を脇神にするために行った、所謂「造化の三神」の勧請です。

次に、現総裁は、「實相」額の前に、「造化の三神」を祭ったお社と七重塔を設置し、信徒にそれを礼拝するよう強要しました。

そして、今回、とうとう現総裁は、石ころ≠拝ませるということまでやってのけたのです。

もう完全に、これは生長の家の「神観」の変質、変更という表現ではすまない…。

はっきり言って、これは宗教的堕落であるとすら私は思っています。

だって、聖経「甘露の法雨」に何とありますか…。

《創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則…》

石ころ≠拝んでいては、この宗教的な荘厳さ、いのちの響きは少しも理解されないのではないでしょうか。

だって、石ころ≠拝むのは、唯物論信仰であり、偶像崇拝以外の何ものでもないと思いますから…。

で、私が思うのは、ここまで来たら、真の信仰者はもはや現教団に留まることは出来得ないのではないのか、ということなのです。

まず、愛国者が追放され、今度は本当の信仰者までもが教団から離れるしかない…。

それを予見させるのが、今回の石ころ$樗qではないのか、そう思うものであります。



石ころ≠フ話をするならば、それを拝めというより、『生命の實相』にこういう話があると紹介するのが本来のあるべき姿ではないでしょうか… (13297)
日時:2021年04月11日 (日) 16時11分
名前:破邪顕正


表題は、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」を拝読していて、思ったことです。

《宣宗皇帝の若いときに弟子になって、そこで修行した師匠の香厳和尚でもそうであります。
これは有名な和尚さんで、香厳の撃竹といって、石が竹を撃つ音を聞いて悟を開いたといわれる。
…ある日竹林の側(かたわら)を掃除しておった。
そうしたらその箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の竹にブッ突った時に、その音を聞いたときに、竹と石と天地と自分と「一つ」−−すべては「一つ」だということがわかって悟を開いたえらい坊さんであります。
吾々心の耳を開いて聴けば、到るところに先生がいるわけです。
路傍(みちばた)に転んでいるところの石ころも、あの辺に生えているところの雑草も、或は薮に伸びている一本の竹であっても、皆吾々が本当に心の眼を開いて見た時に、心の耳を開いて聴いた時に、そこに本当の真理を語っているわけなのであります。》(152〜153頁)

こういう悟り≠フ世界こそが、宗教の何とも言えぬ魅力なのだと思うのです。

その魅力に惹かれて、多くの方が「生長の家」に入信したのではなかったでしょうか。

そういう世界を取り戻す…。

そうすれば、必ず「生長の家」は甦るに違いない、私はそう確信しています。


これが宗教法人≠フ目指すべきことなのでしょうか。いっそ、宗教法人≠返上して、NPO環境保護団体≠ニして再出発したがいいのではないでしょうか。 (13298)
日時:2021年04月12日 (月) 09時10分
名前:破邪顕正


知人から「現教団のホームページを見るように」と勧められました。

表題は、それを覗いてみての感想です。

……………………………………

「ノンロック・リレー」(No-Nuclear, Low-Carbon Relay, NONLOC Relay)のご案内
トップ › ニュース › 行事案内 › 「ノンロック・リレー」(No-Nuclear, Low-Carbon Relay, NONLOC Relay)のご案内

行事案内

2021.04.04

この度、公式サイト上に特設サイト「ノンロック・リレー」を開設いたします。
「ノンロック・リレー」とは、生長の家が取り組んでいる「原子力発電を利用しない(脱原発:No-Nuclear)自然エネルギーの利用と、低炭素(Low-Carbon)のライフスタイルの普及」を願い、SNI自転車部のメンバーが、2021年4月17日〜20日、4月24日〜26日の日程で、「生長の家国際本部“森の中のオフィス”」(山梨)から「生長の家 福島・西郷ソーラー発電所」までバトンをつなぎ、自転車でリレーするものです。

この取り組みは、Facebookの公開グループ内で開催され、リレーの様子をライブ中継したり、リレー以外の地域で思いを同じくして走るメンバーの様子が投稿されます。どなたでもご覧いただけて、応援等のコメントも大歓迎です!

なお、この取り組みにご賛同いただける方は、募金のかたちでもご参加いただけます。一緒に盛り上げていただけるとたいへん嬉しく思います。(募金方法は、公開のFacebookグループ内にて、別途ご案内いたします)
なお開催に当たり、充分な新型コロナウイルス感染防止対策をとっています。

特設サイト公開期間:2021年4月4日〜5月31日

SNIオーガニック菜園部、SNI自転車部、SNIクラフト倶楽部

*低炭素のライフスタイル:私たちの生活や仕事で、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の排出を低減する工夫や取り組みを行うライフスタイル

…………………………………………

石ころ≠拝ませたかと思えば、今度は、こういうことを提唱する。

今のコロナ禍で、こういうことを発想すること自体に、もう私は唖然としています。

こんなこと、宗教団体のやることではないだろう…。

結局、これも、現総裁に教団が乗っ取られ、私物化されているが故だと私は思います。

だって、こんなこと、現総裁の趣味嗜好から来ているとしか思い得ませんから…。

それに教団信徒はまんまと乗せられている…。

いったい、本来の「生長の家」はどこに行ってしまったのか。

そういう嘆きの声がとぜんどん聞こえてきそうです。

次から次と、教団本部から、信じられないようなことを通達される信徒の皆さんの心中、いかばかりかとお察し申し上げる次第です。

フト、ここで見切り千両≠ニいう言葉を思い出しました。

そろそろ、本当に、教団には見切りをつける、そういうトキが来ているのではないでしょうか。


「住吉大神」「宇宙浄化の祈り」「大日本神国観」これがないのでは生長の家とは言えない (13309)
日時:2021年04月15日 (木) 09時17分
名前:破邪顕正


ある会員さんに、教化部から「戻って来てよ」という声が掛かりました。

そのときに、この方が言ったのが、表題の言葉です。

この話を伺って、私は大変、心打たれました。

私は、毎朝、『真理の吟唱』『続真理の吟唱』を一章ずつ拝読させていただいています。

今日、拝読したのは『続真理の吟唱』の冒頭にある「住吉大神を顕斎殿に迎え奉るための祈り」でした。

その中にこういうお言葉があります。

《天照大御神、天之岩戸より姿をあらわし給うならば、光が必ず闇を消すごとく、此の世のすべての暗雲と不浄と争いと戦いと混乱と騒擾とは消え去りて…》

そのために実修するのが「宇宙浄化の祈り」であるとご教示いただいております。

今のコロナ禍、何よりも大事なのは、この住吉大神の浄化の働きなのではないでしょうか。

ところが、それを現教団は実修しないのです。

自転車リレー≠キることが、今、生長の家の信徒の為すべきことなのでしょうか。

信徒挙って、「宇宙浄化の祈り」を厳修することこそ、生長の家が教団あげて広く呼びかけることではないのですか。

教化部の皆さんに申し上げます。

退会した信徒に「戻って来い」という前に、そこには戻るべき教えがあるのですか、それをこそ自らに問うべきではありませんか。

住吉大神を脇神にし、「宇宙浄化の祈り」も「大日本神国観」も実修しようとはしない場所に「戻って来い」というのであれば、その論拠をはっきりと示すべきであります。

呆れかえったことに、退会者が増えて教化部の経営が苦しいから「戻ってきてよ」と言われたそうですが、それを聞いて開いた口がふさがりませんでした。

信仰の中身より教化部の経営の方が大事で、それで「戻ってきてよ」それはないでしょう…。

何が第一義なのか、それが本当に分からなくなってしまっている、改めてそれを痛感した次第です。



現教団では、「絆」をほだし≠ニしか読ませないようにしているのではないでしょうか… (13311)
日時:2021年04月16日 (金) 11時07分
名前:破邪顕正


教団信徒の中には、宗教法人を認証されたというのに、未だに「谷口雅春先生を学ぶ会」を別派∴オいにし、その上でネガティブキャンペーンに励んでいる方もいるようです。

どうしてそうムキになるのでしょうかね…。

やはり、信徒の減少が、余程、堪えているからだと思われます。

当然、信徒が減れば、一人ひとりに対するノルマも増えざるを得ません。

教区によっては「特志会員」への昇格を声高に喧伝する向きもあるのだとか。

それより何より、やはり、信徒の減少は、将来への不安を掻き立てるというところが実に、辛いのではないでしょうか。

だからこそ、信徒を引き留めるのに躍起になっている…。

そこで、思ったのが表題のことです。

「絆」という漢字には、二つの読みがあります。

きずな≠ニほだし≠ナす。

前者は誰しもがよく知っていることだと思いますが、後者は案外、知られていません。

ほだし≠ニは、人の心や行動の自由を縛るもの、自由をさまたげるもの、手かせや足かせという意味です。

なるほど、きずな≠熾ハの視点から見たらほだし≠ニも言えます。

神様とのきずな≠深めようとして入信したというのに、現教団の方から一方的に、勝手に神様を変えてしまった…。

これほどの裏切りはない。

もはや、きずな≠フ意味はなくなってしまった…。

そう思って、退会を申し出たら、脅しや泣き落としや、その他諸々の手をつかって退会したくても退会できないようにしてくる…。

まさしくほだし≠サのものです。

そういうことで、「なかなか退会できません」と言ってこられる向きもあります。

そういう方には、無理して退会をお勧めすることもしません。

何故と言って、まだ機が熟していないからだと思うからです。

どんなほだし≠ェあろうとも、自ら勇を鼓して断ち切る人は断ち切るし、そうでない方はそのままで一向に構わないと思っています。

いずれ、トキが来ます。

こういうものには、トキの流れというものがありますから…。

流れができれば、それに乗っかることが容易となります。

如何にして、その流れをつくっていくか。

それが私たちに課せられた使命であると思っております。





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