《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「大自然讃歌」は現象の生命≠説き、一種の進化論≠ナあり、これでは尊師のお悟りに逆行するものである (13285)
日時:2021年03月24日 (水) 11時32分
名前:破邪顕正

現教団が、「大自然讃歌」を聖経♂サし、その読誦を勧めていること。

一方で、石≠拝むようになっていること。

私は、この間には、一つの連関性があると見ています。

それは、どちらもが、現象の生命≠扱っているということであります。

それが如実に現れているのが、「大自然讃歌」のこの箇所です。

〈人体では食物を溶かす胃酸の中にも
シロアリの体内にも、
宿主を助け
共生する微生物多数あること知らざるや。
生物は殺し合いではなく、
生かし合いと棲み分けによって
多様な生態系を築き上げしこと、
生物学者も認むるところなり。
生かし合いと棲み分けこそ、
神の愛と無限の表現なり。
これなくば、
生物進化の永き過程で
かくの如き多種多様の生き物
地上に栄ゆること能わざるなり。
汝ら今こそ知れ、
地球誕生して四十六億年、
生命現象皆無の中から
単細胞生物出現し、
多細胞生物さらに分岐進化し、
海から陸へと棲処(すみか)を拡げ、
湿地から乾燥地帯へ、
熱帯、温帯、寒冷地帯へと
生命繁栄の拠点を打ち立てて来し道程は、
個々別々の生命の絶えざる闘争過程にあらず。
個別生命の盲目的生存競争の結果に非ざるなり。
汝ら、
闘争から平和生るるとの妄想より醒めよ。
悪から善生ずるとの迷いを去れ。
現象生命の地上誕生と繁栄の過程は、
実在生命の描きたる一幅の書画、
大生命の演じたる一曲の楽のごとし。〉

ここに「生物学者」が出てまいります。

「生物学者」が見ているのは、当然、現象の生命≠ナありましょう。

また、こうも書いてありますね。

〈地球誕生して四十六億年、
生命現象皆無の中から
単細胞生物出現し、〉

これって、まさしく進化論≠フ世界の話ではありませんか。

これは、明確に、尊師のお悟りに逆行し、背反するものであります。

因みに、頭注版『生命の實相』第33巻「随喜篇」のこの部分を読んでみてください。

《ダーウィンの「進化論」なんかの奥にあるところの「生命」などというふうなものは、要するに弱肉強食の生命を指しているのであります。もし、こういう生命を礼拝し、その生命をそのままに生きてゆくというのでありましたならば、われわれは弱肉強食の生命を生きてゆくしかいたしかたがないのであります。われわれはそういうショーペンハウエルの考えたような、ダーウィンの考えたようなそんな生命を礼拝するのではないのであります。この種の生命を生長の家では現象生命といっております。現象界に現われているところの生命は畢竟「現われの生命」で、本当にある生命てはないというのであります。本当にある生命を生命の実相と申しております。ひとかど大思想家といわれるような人が現象の生命と実相の生命とを混同しておられるのであります。本当の生命(生命の実相)というものは現象生命の奥にあって、現象生命が滅したように見えても滅しないところの生命、現象の生命が争っているように見えても争っていないところの生命です。仏教でいえば仏性というもの、キリスト教でいえば神性というか、久遠のキリストとでもいうべきもの、惟神道でいえば隠身の生命であって、日本古典の冒頭にある「身を隠し給いき」というのがキリスト教でいう形なきゴッドであります。この目に見えない神を礼拝するのが生長の家であって、万教はおのずから一つの「真理」または神を拝しているとするのであります。わたしがこういう生長の家の教えを発見いたしますまでには、ずいぶんと人生に悩み苦しんだものであります。それは今までの「生命」というものの考え方がまちがっておったのであります。どういうふうにまちがっておったかといいますと、やはりショーペンハウエル流に、あるいはダーウィン流に考えまして、われわれは弱い者を虐げなければ生きられないのである、生き物を殺さなければ生きることはできないのである、自分が生きるためには、多くの生き物がみんな犠牲になっているのであって、自分というものは実に悪い、善ならざる悪逆極まりなきところの、残忍極まりなきところの生命である、こういう感じを持っておったのであります。そうしてこの苦しい人生観の中にあえぎながらなんとかしてこの生命が調和して生きる道を発見することができないかしらと思って暗中模索の姿であったのであります。…そのころのわたしの人生は暗い暗い人生でありました。暗い心をもっていれば暗い運命が来るのでありまして、ちょうどそのころ関東大震災に遭いまして、とうとう、都落ちをして郷里の神戸へ帰ることになったのであります。そのころわたしは毎日坐禅のように坐って精神統一をするのを日課としておりましたら、その時に大濤のように天空から聞こえてくるところの声があったのであります。「人間は神の子だ」という声であります。実に厳かな荘厳な宇宙そのものの声のような響きであります。「人間は神の子だ。そしてこの世界はすでに完全であるのである。物質はない。病気はない。不幸もない。貧乏もない。かく見えるのは、要するに人間自身の心の投影である。心が去ればいっさいの悪しき現象は消える」というような意味の言葉が天空から大濤のように大滝のように聞こえてきたのであります。その時にハッとわたしは悟ったのであります。われわれがこの世界に生きながらそういう弱肉強食の苦しい生命を生きている、その生命というものは本当は自分の生命の本当の相ではないということがわかったのであります。それは自分の心の投影である、そうして本当の生命、実相の生命、本当にあるところの生命はすでに調和したところの生命であって、決して奪い合いも殺し合いも食い合いもないところの調和したところの生命である、それこそ自分の本当の生命であり、久遠の昔から永劫の未来に至るまで滅びることもなく生きとおしている生命であることが解ったのであります。生長の家の礼拝する生命とは、この生命なのであります。それをその時天空から大濤のように響き渡る声によって知らしていただきました時に、初めて忽然としてわたしの迷夢が醒めたわけでありまして、その時にこの世界はそのままで浄土であるということ、そのままでみんな人間は神の子、仏子であるということがわかったのであります。自分だけが神の子であるというような意味ではなしに、いっさいの衆生が、いっさいの生きとし生ける物が神のいのちの流れを受けて生き、ことごとく仏のいのちの顕現であるということがわかったのであります。…今まで見えなかったところの五官の眼で見ていたこの人生が、この世界が、すっかり相が変わってしまいまして、生きとし生ける物がことごとく完全に調和している。生きとし生ける物だけではない、国土も山川もすべてのものがことごとく悟りの相であり、光明輝くところの実に浄らかな世界であるということが解ったのであります。》(9〜16頁)

尊師は、ここではっきりと

久遠の昔から永劫の未来に至るまで滅びることもなく生きとおしている生命であることが解った

と仰っているのです。

であるのに、「大自然讃歌」では、四十六億年≠ニいうような有限な言葉が出てくる…。

尊師のお悟りが少しもわかっていない証拠です。

現象の生命≠ゥらは、本当の「大調和」はあり得ない…。

教団信徒の皆さんには、甚だ申し訳ありませんが、「大自然讃歌」を読誦しても石≠拝んでも、本当の救いはもたらされない…。

それどころか、ますます現象生命≠フ迷いの世界に彷徨うことになると、危惧するものであります。



尊師は進化論の誤謬≠指摘してこられたことを知るべきです (13286)
日時:2021年03月25日 (木) 16時08分
名前:破邪顕正


ダーウィンの『種の起原』の上巻の表紙には、次のような文章が書かれています。

〈自然選択(=自然淘汰)と適者生存の事実を科学的に実証して進化論を確立し、自然科学の分野においてはもちろん、社会観・文化観など物の見かた全般に決定的な影響を及ぼした著作として、この『種の起原』の名を知らぬ人はあるまい〉

で、この中には、こういうことが記されています。

〈ほとんどすべての種はその生息中心地においてさえ、これと競争する種がなければ、いちじるしく個体数をますであろうこと、ほとんどすべての種は他のものを捕食(生物が他の生物をつかまえて食べること)するか、または他の犠牲になる(=食べられる)ものであること(=どの生物も直接または間接に、他の生物と関係を持っていること)…
 それは、どの国に生息するものもその範囲は、目立たずに変化していく気候や土地の物理的条件のみに依存するものでは絶対になくて、その大部分は、その生物があるいはそれに依存(=捕食)し、あるいはそれによってほろぼされ(=食べられ)、あるいはそれと競争する、他の種の存在によってきめられる、ということである〉

この「進化論」が、尊師にとって、甚だ大きな問題として屹立していたことは、その「自伝篇」を拝読させていただきますと分かります。

新編『生命の實相』第32巻「自伝篇」にこうあるからです(92〜93頁)。

《現代の多くの神学が進化論をとり入れて、細より大に、単調より複雑に、無より生命に、静寂より戦いに一切のものを流動さす力−−これこそ神なりと説くのは、実に神の正しき救いを、戦いと迷いとに置き換える冒涜の他何ものでもない。自分はかくの如き宇宙創造の世界観を把持し、かくの如き神学を燈台として世界を救おうとする人々の矛盾をこの論文において是正せねばならぬ責任を感ずる。》

この論文とは『聖道へ』であります。

同書には、また、こういう文章も出てきます(105頁)

《神の宇宙創造説を信ずるものにとっての最大強敵はダーウィンの進化論の提唱であったのは言うまでもない。彼の進化論は、今迄神の聖とき摂理に由ると解釈せられた生物の分化を、それが機械論を最も伴い易きところの、自然淘汰による進化に基くと解釈したのである。》

何故、「進化論」がそれほどまでに問題なのでしょうか。

『人間無病の原理』にそれがはっきりと示されています(47頁)。

《人間が人間として生れて来るのも、「猿」が徐々に進歩して『猿』となり、《猿》となり、ついに人間に進化して来たのではないのであって、「人間」というのは新型の「理念」(精神原型)が天降って来て人間が出来たのであります。そう云う訳で「人間は人間である」決して猿の延長ではないのであります。だから人間は、「猿」の肉を食っても、牛の肉を食ってもみんな「人間」になってしまうのであります。》

「進化論」では、この「理念」という世界が導き出されないのです。

唯神実相哲学(谷口哲学)の根本にあるのが、この「理念」の哲学に他なりません。

『幸福の哲学』には、この「理念」がこう説かれます(77〜78頁)。

〈吾々の本の素の人間は肉体でもなければ物質でもない、「人間」なる「理念」でなければなりません。理念とは「理」即ちコトワリ(言割)であって、言(ことば)なる神から割り出だされた念であり、神の造り給うた「人間なる原型」であります、心の世界に既にあるところの「人間」の理想形態でありまして、その心の世界にある人間なる理想形態から、地上の人間が出て来たのであります。これを「言(ことば)は肉体となりて吾等の内に宿り給えり」と言うのでございます。(『ヨハネ伝』第一章)〉
 
『幸福の哲学』では、この後、ダーウィンの進化論の誤謬が示されていきます。

つまり、「進化論」を彷彿させるようなものは、断じて尊師のお悟りとは違う…。

それに全く反するものであり、こういうものを「聖経」に取って代わって読誦しては絶対にならない…。

それを改めて申し上げておきたかったということであります。





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