尊師は進化論の誤謬≠指摘してこられたことを知るべきです (13286) |
- 日時:2021年03月25日 (木) 16時08分
名前:破邪顕正
ダーウィンの『種の起原』の上巻の表紙には、次のような文章が書かれています。
〈自然選択(=自然淘汰)と適者生存の事実を科学的に実証して進化論を確立し、自然科学の分野においてはもちろん、社会観・文化観など物の見かた全般に決定的な影響を及ぼした著作として、この『種の起原』の名を知らぬ人はあるまい〉
で、この中には、こういうことが記されています。
〈ほとんどすべての種はその生息中心地においてさえ、これと競争する種がなければ、いちじるしく個体数をますであろうこと、ほとんどすべての種は他のものを捕食(生物が他の生物をつかまえて食べること)するか、または他の犠牲になる(=食べられる)ものであること(=どの生物も直接または間接に、他の生物と関係を持っていること)… それは、どの国に生息するものもその範囲は、目立たずに変化していく気候や土地の物理的条件のみに依存するものでは絶対になくて、その大部分は、その生物があるいはそれに依存(=捕食)し、あるいはそれによってほろぼされ(=食べられ)、あるいはそれと競争する、他の種の存在によってきめられる、ということである〉
この「進化論」が、尊師にとって、甚だ大きな問題として屹立していたことは、その「自伝篇」を拝読させていただきますと分かります。
新編『生命の實相』第32巻「自伝篇」にこうあるからです(92〜93頁)。
《現代の多くの神学が進化論をとり入れて、細より大に、単調より複雑に、無より生命に、静寂より戦いに一切のものを流動さす力−−これこそ神なりと説くのは、実に神の正しき救いを、戦いと迷いとに置き換える冒涜の他何ものでもない。自分はかくの如き宇宙創造の世界観を把持し、かくの如き神学を燈台として世界を救おうとする人々の矛盾をこの論文において是正せねばならぬ責任を感ずる。》
この論文とは『聖道へ』であります。
同書には、また、こういう文章も出てきます(105頁)
《神の宇宙創造説を信ずるものにとっての最大強敵はダーウィンの進化論の提唱であったのは言うまでもない。彼の進化論は、今迄神の聖とき摂理に由ると解釈せられた生物の分化を、それが機械論を最も伴い易きところの、自然淘汰による進化に基くと解釈したのである。》
何故、「進化論」がそれほどまでに問題なのでしょうか。
『人間無病の原理』にそれがはっきりと示されています(47頁)。
《人間が人間として生れて来るのも、「猿」が徐々に進歩して『猿』となり、《猿》となり、ついに人間に進化して来たのではないのであって、「人間」というのは新型の「理念」(精神原型)が天降って来て人間が出来たのであります。そう云う訳で「人間は人間である」決して猿の延長ではないのであります。だから人間は、「猿」の肉を食っても、牛の肉を食ってもみんな「人間」になってしまうのであります。》
「進化論」では、この「理念」という世界が導き出されないのです。
唯神実相哲学(谷口哲学)の根本にあるのが、この「理念」の哲学に他なりません。
『幸福の哲学』には、この「理念」がこう説かれます(77〜78頁)。
〈吾々の本の素の人間は肉体でもなければ物質でもない、「人間」なる「理念」でなければなりません。理念とは「理」即ちコトワリ(言割)であって、言(ことば)なる神から割り出だされた念であり、神の造り給うた「人間なる原型」であります、心の世界に既にあるところの「人間」の理想形態でありまして、その心の世界にある人間なる理想形態から、地上の人間が出て来たのであります。これを「言(ことば)は肉体となりて吾等の内に宿り給えり」と言うのでございます。(『ヨハネ伝』第一章)〉 『幸福の哲学』では、この後、ダーウィンの進化論の誤謬が示されていきます。
つまり、「進化論」を彷彿させるようなものは、断じて尊師のお悟りとは違う…。
それに全く反するものであり、こういうものを「聖経」に取って代わって読誦しては絶対にならない…。
それを改めて申し上げておきたかったということであります。
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