現教団の教勢の低迷の原因を「宗教の7つの側面」から見れば理解しやすいのでは… (13280) |
- 日時:2021年03月20日 (土) 18時30分
名前:破邪顕正
現教団の、そもそもの変質は、「大自然讃歌」を拵えたところの、現総裁の間違った解釈≠ゥらはじまったのではないのかというのが私の最近の見解です。
その象徴とも言うべきブログ記事が、「唐松模様」2012年10月 1日 (月)付け「生長の家と自然」に他なりません。
この記事は、こういう書き出しから始まります。
〈私は今年3月末の本欄で、「新年度の始まりに寄せて」と題して今年度の運動の方向性を展望したとき、9・11やそれに続く“テロとの戦い”の昏迷、人間の自然破壊と地球温暖化の進行、さらには東日本大震災とそれによる原発事故など昨今の一連の悪現象の流れの背後に、「神−自然ー人間」の間の不調和があることを述べ、これを解消するためには、これら三者の間の大調和を心に強く描くことが必要であることを訴えた。〉
そして、問題のこの文章となります。
〈「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義−−例えば自然と人間との関係など−−について補強を試みている」。 この「補強」ということについて、一部で誤解があるようなので少し説明しよう。私は、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』の中に、例えば自然と人間の関係について「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。〉
つまり、現総裁の関心事は「自然環境」にこそあったのであり、ここからどんどんそちらにのめり込んでいったと私は見ます。
それが、宗教団体として見たとき、如何に面妖なものであるか、京都大学の宗教学者カール・ベッカー教授の「宗教の7つの側面」から捉えると実に理解しやすいのではないでしょうか。
@教団としての宗教…教団組織としての宗教は、表面的なものです。同じ教団の中でも、非常に熱心にその教義を実践する人もいれば、全く倫理や掟を無視して、身勝手に生きている人もいる。
A社会体系としての宗教…神を信じるということは、現在の物の見方や社会秩序を支持することを意味します。宗教とは、キリスト教やイスラム教といったものではなく、その人の潜在的な価値観、社会秩序なのです。
B倫理道徳としての宗教…一昔前なら、当たり前のように「罰が当たる」「ご先祖様に申し訳ない」と言い、「お天道様が見ている」と母親が子供たちをしかってくれました。天や神、先祖の監視によって、身勝手な言動にはブレーキがかかり、次世代への責任を意識します。
C潜在的な価値としての宗教…誰もが世界観や価値観を持っています。例えば、我々はどのような理由なら、親を殺すのか、殺さないのか。あなたの価値観がそこに現れるのです。
D伝統的な知恵としての宗教…「もったいない」や「ありがたい」、宗教的に言えば、輪廻転生、不殺生、因果応報、自業自得、縁起など古くからの知恵、世界観です。
E実存理解としての宗教…「スピリチュアル」という言葉、言い換えれば「実存」が最近、はやっています。私はなぜこの身体に、なぜこの家族に生まれたのか。私は何を目指すべきなのか。人生は何か。これらはすべて、自分の存在に関わる実存的な問題です。科学はその答えをくれません。伝統的に、それに答えていたのが宗教です。
F超常体験としての宗教…我々には説明できない、不可思議な体験があります。宗教は、それを理解するための説明を与えています。例えば、以心伝心、虫の知らせ。
で、ベッカー教授は、「なぜ今、宗教か」と聞かれたら、@〜Fの価値観や知恵、実存的な意味、体験などが「宗教」だからであり、今後も、そこから学ぶことが多いと指摘しています。
恰も自然環境保護教≠ニも言うべき現教団には、この「宗教」の果たすべき役割が期待できない…。
それを見切った信徒からどんどん退会していっている…。
全ては、現総裁の「自然」への過度の執着が根因だと私は思っています。
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