《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「黴菌とさえ和解せよ」これが現総裁の「大調和の神示」の解釈であったことに慄然とします。これは明らかなる反国体思想≠ネり! (13277)
日時:2021年03月19日 (金) 09時38分
名前:破邪顕正


現教団は今、「大自然讃歌」を完全に聖経♂サし、信徒にその周知徹底をはかろうとしています。

そうであるならば、もう一度、この企みの根本的問題について、示しておくことがとても重要であると思います。

そもそも、現総裁は、何故、「大自然讃歌」を拵えようと思ったのでしょうか。

その動機から振り返って考えてみたいと思います。

「唐松模様」2012年10月10日 (水)付け「生長の家と自然 (2)」にこうあります。

〈私は「生長の家がその立教の当初から“自然と人間”の調和について大きな関心を払ってきた」と書いたが、それは「数多くの関心の中の1つ」という程度の軽いものではない。それを最も有力に語っているのが「大調和の神示」である。この神示は、多くの神示の中でも、生長の家の宗教上の根本規則である「生長の家教規」の中に「教義」として掲げられた唯一のものだ。そして、多くの読者はご存じのように、冒頭を飾る言葉は「汝ら天地一切のものと和解せよ」である。気がついていただきたいのは、和解する相手が「天地一切の人々」ではなく、「天地一切のもの」である点だ。「一切のもの」とは、人間を含み、人間を超えたすべての存在という意味で、「大自然」とほぼ同義語である。そのあと、神示はこう続く−−(略)
 これを読めば、神示は昭和6年の当初から、「自然界」を含めた「天地の万物」すべてに対して和解することを命じてきたことは明らかである。「黴菌」について書いてあるのは、「黴菌だけと和解せよ」という意味ではなく、「黴菌とさえ和解せよ」という強調の意味を込めた例示である。だから、上の引用文の最初の3行は、次のように書き直しても意味上の違いはほとんどないはずである−−
 
「大自然との和解が成立するとき、大自然は汝の味方である。
 大自然が汝の味方となるとき、
 大自然の中の何物も汝を害することは出来ぬ。」
 
 このように考えると、生長の家の信徒が大自然の素晴らしさを称える「大自然讃歌」を読誦することは、「大調和の神示」の教えを実践する方法の1つとして捉えることができるのである。〉

読んでみて、私は、これは大変、深刻な問題を孕んでいると改めて痛感いたしました。

何故、現総裁は「大自然讃歌」を拵えようと思ったのか、その動機がここにはっきりと示されています。

即ち、現総裁の関心事の第一義はとにかく「自然環境」にあった…。

人間救済は二の次でいいと思っているという節がここから窺えるということです。

「環境問題は喫緊の課題であって、人を救っているヒマなどはないのよ」

現教団幹部がこういうことを平然と言ってのけるというのも、考えてみれば、現総裁のこの考えをそのまま受けたものだったということがよくわかります。

もう一つ、分かったことは、現総裁は、「黴菌とさえ和解せよ」という解釈に立っているということです。

これは大変なことです。

だって、これは明らかに尊師の教えに真っ向から反することなのですから。

例えば、新編『生命の實相』第24巻「倫理篇」にはこうあります。

《「生長の家」倫理学の特色と致しますところは、存在を「実相(ほんとにあるもの)」と「仮相(まよい)」とに別けることであります。そして「仮相」は存在するように見えても、それは非実在(ない)というのであります。そして「実相」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。例を挙げていえば、人間に結核病を惹起こす毒物としての結核菌は、それは仮相(かりのすがた)であって実相(ほんとのすがた)ではないのであります。この場合、吾々が仮相の結核菌を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば吾々人類は滅びるのであります。何故なら「仮相」を実在だと思ってこれに和解し、「仮相」を殊更にのさばらせれば、実相はますます隠れるほかないからであります。》(86〜87頁)

さて、私がどうしてこれを重要視しているかというと、現総裁は「黴菌とさえ和解せよ」との解釈でもって日本共産党とも和解せよ≠ニ思っているのではないのかと疑っているからにほかなりません。

「日本学術会議」問題の件に関して、実に象徴的だと思うのは、現教団がどんどん左傾化して、あろうことか「日本共産党」とまで手を結ぶようになってしまった…。

これではまるで日本共産党のフロント組織ではないのか…。

何故、そういう事態を招いてしまったのか…。

「黴菌とさえ和解せよ」という解釈がこれに深く関与しているのではないのか…。

決してこれは私の自分勝手な、恣意的な、穿った見方とばかりは言えないと言うのは、実は、尊師がそういう観点から発表なされたことがあるからです。

『日本の政治と宗教 ―護国の神剣―』からご紹介します。

《生長の家は大調和を説いてゐるのだからといつて、悪に対しても調和をすべきだといふ考へ方は、それは表面の調和であつて本当の大調和ではないのです。悪に調和することは現象に妥協するといふことです。本来、悪は実在しない。その実在しないものに妥協するといふことは本来あり得ないのです。本当の調和とは、実在に調和するといふことです。
 実在するもの即ち実相の完全さに調和するといふことであります。実相の善なるものにひたすら調和していくことによつて、
「神があらはるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのづから備はり」
 と『甘露の法雨』にありますやうに、そこから現象の調和も整つてくるのであります。》(17〜18頁)

ここから、杉浦慶一さんの話が紹介されます。

「私は結核菌にだつて調和してゐる。結核菌などは少しも恐しいとは思はない。私の肺臓は左に二つ右に三つ合はせて五つの部屋がある。だから三室ぐらゐは結核菌に貸してやつてもよろしい。結核菌よ、這入つて来たければ這入つて来給へ、私は決して排斥しない――そんな心境でゐるんです」

このような体験談を発表した杉浦青年は、その後、重症の結核症で昇天します。

尊師は、これを紹介され、「処を得ないものを妥協して入れてやるのは本当の和解でも調和でもないのであります」と仰り、ここから共産主義思想についてこう述べていかれるのです。

《確かに、共産党員は人間ですから、本来は神の子でありますが、共産主義といふ迷ひに晦まされた人なのであつて、まだ実相が顕はれてゐない状態なのです。本当の実相の日本国は、華厳経において釈尊がお説きになつたやうにビローシャナ如来(大日如来・天照大御神)がその中心にまします所謂る蓮華蔵世界――現実日本に即していへば天皇を国なる生命体の中核としてゐる国家――なのです。そして国民はその生命体の細胞として天皇を仰慕し鑚仰し、この国体を護持して、その生成発展のために力をつくし精神をつくし生命をつくして仕へることが使命だと感得してゐる。これが日本本来の実相なのです。その実の相に調和することが、生長の家でいふところの天地一切のものに和解する¢蜥イ和なのであつて、その処を得ざる結核菌が侵入する相や共産主義が侵入する相に妥協することが調和ではないといふことを、生長の家の皆さんは、はつきりと知つておかなければなりません。もしその侵入を和解≠ニ称して許すならば、杉浦君の轍を踏んで国家が結核症状を呈して杉浦君と同様に滅びてしまふ。「永久に戦ひなき平和は、戦ひを通じてのみつくられる」といつた毛沢東語録を信じて世界侵略を企図する共産主義国を隣国に控へて、今や日中国交樹立と称して共産主義の工作隊が自由に入国できる道をひらいた田中内閣は、杉浦慶一君と同様の危険に対して道をひらいたのでありますから、余程今後の共産主義者の行動に注意しなければならないのであります。》

ここまで共産主義の脅威に警鐘を鳴らされたのが尊師であります。

ところが、その現教団が、既に、共産主義の工作隊が自由に入国できる道をひらい≠トいるのです。

現総裁の「黴菌とさえ和解せよ」とは、オソロシイまでの反国体思想≠ナあると思うものであります。


現教団の教勢の低迷の原因を「宗教の7つの側面」から見れば理解しやすいのでは… (13280)
日時:2021年03月20日 (土) 18時30分
名前:破邪顕正

現教団の、そもそもの変質は、「大自然讃歌」を拵えたところの、現総裁の間違った解釈≠ゥらはじまったのではないのかというのが私の最近の見解です。

その象徴とも言うべきブログ記事が、「唐松模様」2012年10月 1日 (月)付け「生長の家と自然」に他なりません。

この記事は、こういう書き出しから始まります。

〈私は今年3月末の本欄で、「新年度の始まりに寄せて」と題して今年度の運動の方向性を展望したとき、9・11やそれに続く“テロとの戦い”の昏迷、人間の自然破壊と地球温暖化の進行、さらには東日本大震災とそれによる原発事故など昨今の一連の悪現象の流れの背後に、「神−自然ー人間」の間の不調和があることを述べ、これを解消するためには、これら三者の間の大調和を心に強く描くことが必要であることを訴えた。〉

そして、問題のこの文章となります。

〈「私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義−−例えば自然と人間との関係など−−について補強を試みている」。
 
 この「補強」ということについて、一部で誤解があるようなので少し説明しよう。私は、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』の中に、例えば自然と人間の関係について「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。〉

つまり、現総裁の関心事は「自然環境」にこそあったのであり、ここからどんどんそちらにのめり込んでいったと私は見ます。

それが、宗教団体として見たとき、如何に面妖なものであるか、京都大学の宗教学者カール・ベッカー教授の「宗教の7つの側面」から捉えると実に理解しやすいのではないでしょうか。

@教団としての宗教…教団組織としての宗教は、表面的なものです。同じ教団の中でも、非常に熱心にその教義を実践する人もいれば、全く倫理や掟を無視して、身勝手に生きている人もいる。

A社会体系としての宗教…神を信じるということは、現在の物の見方や社会秩序を支持することを意味します。宗教とは、キリスト教やイスラム教といったものではなく、その人の潜在的な価値観、社会秩序なのです。

B倫理道徳としての宗教…一昔前なら、当たり前のように「罰が当たる」「ご先祖様に申し訳ない」と言い、「お天道様が見ている」と母親が子供たちをしかってくれました。天や神、先祖の監視によって、身勝手な言動にはブレーキがかかり、次世代への責任を意識します。

C潜在的な価値としての宗教…誰もが世界観や価値観を持っています。例えば、我々はどのような理由なら、親を殺すのか、殺さないのか。あなたの価値観がそこに現れるのです。

D伝統的な知恵としての宗教…「もったいない」や「ありがたい」、宗教的に言えば、輪廻転生、不殺生、因果応報、自業自得、縁起など古くからの知恵、世界観です。

E実存理解としての宗教…「スピリチュアル」という言葉、言い換えれば「実存」が最近、はやっています。私はなぜこの身体に、なぜこの家族に生まれたのか。私は何を目指すべきなのか。人生は何か。これらはすべて、自分の存在に関わる実存的な問題です。科学はその答えをくれません。伝統的に、それに答えていたのが宗教です。

F超常体験としての宗教…我々には説明できない、不可思議な体験があります。宗教は、それを理解するための説明を与えています。例えば、以心伝心、虫の知らせ。

で、ベッカー教授は、「なぜ今、宗教か」と聞かれたら、@〜Fの価値観や知恵、実存的な意味、体験などが「宗教」だからであり、今後も、そこから学ぶことが多いと指摘しています。

恰も自然環境保護教≠ニも言うべき現教団には、この「宗教」の果たすべき役割が期待できない…。

それを見切った信徒からどんどん退会していっている…。

全ては、現総裁の「自然」への過度の執着が根因だと私は思っています。


何故、現総裁は補強≠ニいう表現を用いたか。その心の奥底に分け入ってみると… (13281)
日時:2021年03月21日 (日) 16時39分
名前:破邪顕正

補強≠ニいう言葉を辞書でひくとこうあります。

〈弱い部分や足りない部分を補い強化すること〉

つまり、現総裁は、「聖経」について、弱い部分や足りない部分があると感じていたからこそ、新たな「経本」を拵えたのです。

しかし、それは補強≠ヨの誤解だと、現総裁はこう弁解をしています。

再度、その箇所を引きます。

〈「説かれていない」から、その欠落を補うためにこれらの長編詩を書いたのではない。説かれていても、詩編全体の中で量的にあまり多くないなど形式的に「強調されていなかった」ので、それを強調する必要を感じたのである。〉

よし、それが現総裁の本音だとしたら、最初から強調≠ニいうべきだったのではありませんか。

結局、補強≠ニいう表現に、予想外の批判が集中したために、その場を取り繕おうとして、上述のような言い訳を弄したに過ぎないと私は見ます。

だって、何度も申し上げてきましたが、現総裁は確信犯≠ネのですから。

何としても、「聖経」に取って替わるものを拵えないといけないと思っていたに相違ないのです。

その根本的な動機が、同じ「生長の家と自然」というブログ記事の結論部分にはっきりと示されています。

〈『生命の實相』など谷口雅春先生の他の聖典にも、自然界の事象や出来事を先生自らの“心の鏡”として理解し、そこから学ばれようとする態度は明確である。…
自然界の現象を冷静に観察し、そこから真理に到達しようとされる谷口雅春先生の真剣な態度は、多くの生長の家信徒の心を打ったに違いない。その代表的なご文章は、同じ『生命の實相』第20巻の冒頭にある「ヘビとカエルの闘争」の話である。…
 このような例を見てくると、生長の家がその立教の当初から「自然と人間」の調和について大きな関心を払ってきたことは疑いない事実なのである。〉

現総裁は、尊師のご文章を、文字通り恣意的に解釈≠オて、尊師は立教の当初から「自然と人間」の調和について大きな関心を払っていた≠ニいうことにして、「生長の家」が自然環境問題に取り組んでいくのは、恰も理の当然であるかのように切言します。

しかし、その解釈≠ノ、果たして正当性があるでありましょうか。

人類光明化運動の発進宣言には何とありますか。

《…自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか…等々。》

ここにはっきりと示されているように、人類の苦悩を救う、それこそが立教の何よりの第一義ではなかったのではありませんか。

どうして、そこに、「人間と自然」の調和≠ニいう話を持ち込まないといけないのでしょうか。

これなどは、はっきり言って、無理スジもいいところ…。

実は、そのことは、現総裁も十分に分かっていたのではないでしょうか。

何しろ確信犯≠ネのですから。

つまり、現総裁は、立教当初から尊師は「人間と自然」の調和≠ニいうことを説かれていたというふうに、強引な解釈≠持ち込んで、教団をして「自然環境保護団体」へと大きく舵を切り替えたかったということなのです。

その背景に蠢いていたのは何か。

それが、自然環境問題は、国境を越える、グローバルな視点が必要だということだったと私は見ます。

つまり、この観点から、「鎮護国家」の教えを排除することができると踏んだのです。

現総裁は、共産主義という名の新たなグローバリズムの壁として立ちはだかるのは「鎮護国家」の教えであると痛感していたと思います。

その壁を突き崩すには、環境問題が最もタイムリーであり、なおかつ信徒を誘導しやすいと考えたのではないでしょうか。

現総裁は、本気で、環境問題をやろうと思っていたのではない…。

環境問題もまた「鎮護国家」の教えを排除するために利用できると踏んだのです…。

それが証拠に、本気で環境問題に取り組むのであれば、自転車に乗ったり、自然菜園をしたり、クラフトしたり、そんな次元に留まるはずがありません。

現総裁が環境問題にのめり込んだのは、それに過度の執着を見せているのは、それがひとえに「鎮護国家」の教えを排除できる、そのための戦略として実に好都合であっからというのが私の申し上げたいことです。

現総裁の、その戦略にまんまと乗せられ、信徒が、尊師の本来の教えを見失っているという現状に、私は得も言えぬ危機感をもっています。

心ある信徒に、何とか目覚めてほしい、その一念で、こうして投稿し続けているという次第です。


「大自然讃歌」は「黴菌」だけではない「悪霊とも和解せよ」という、オソロシイ経本と知るべきです! (13283)
日時:2021年03月23日 (火) 10時27分
名前:破邪顕正

先に、「生長の家と自然 (2)」を紹介して、現総裁が「黴菌とさえ和解せよ」という、とんでもない解釈をとっていることを確認しました。

しかし、問題は、もっと深刻なのだと思います。

これにいち早く気づいたのは、「浄め給へ」さんで、こう述べています。

関係箇所のみを引かせていただきます。

………………………………………………

『大自然讃歌』が悪霊を呼ぶ理由 (571)
日時:2016年02月27日 (土) 05時09分
名前:浄め給へ

(前略)

要するに、雅宣総裁は、黴菌や悪霊と和解せよ≠ニ言い、信徒を黴菌と悪霊への感謝へと誘導しているのです。

雅宣総裁がいう「大自然」の中には、「黴菌」と「悪霊」が入っていることに注意してください。

しかし、雅宣総裁は、間違って解釈したのでも、誤読したのでもありません。雅宣総裁は、「確信犯」なのです。

『大自然讃歌』を「読誦」することは、黴菌や悪霊を讃嘆し、あろうことか、黴菌や悪霊の霊力を増大することになります。

雅宣総裁は、わざと「大調和の神示」の間違った解釈を言い、信徒を光明世界とは違う世界に誘導しようとしているのです。

「生長の家」という看板を付けている船はすでに海賊に乗っ取られてしまっています。早く降りなければいけません。

新編『生命の實相』第4巻233ページに尊師は以下のようにお書きになられています。

>テイ・ステッド氏よりの霊界通信によりますと
「あなた方に、果して会得し得るかどうか知れないが、あなた方の有する書物――印刷し、装幀してあるドッシリ重い書物は霊界より観れば一つの光体である。書物の生命はその光の価値できまる。」といっているのであります。これによればどんな部厚い書物でもただの紙屑にすぎないものもあれば、片々たる冊子でも神仏の護符同様霊光燦然たるものがあるはずであります。しかも、その霊光にも色いろの種類があるので、読まずにただ側に置くだけでも吾々の心に悪影響を与えるもの、良影響を与えるもの等様々あるわけです。総じて明るい言葉を書いた書物より発する光は善霊を呼び、暗い言葉を書いた書物より発する光は悪霊を呼ぶのであります。<

『大自然讃歌』を読んでもいけないし、持ってもいけないのです。

「最後の審判≠ノ就いての神示」に、以下のようにあります。

わが臨(きた)れるは『真』と『偽』と、『実在』と『虚妄』とを選り別けて、『偽』と『虚妄』とを永久に非実在(じごく)の中に葬りて封印を施さんがためである。

………………………………………………………………

実際、現総裁が拵えた、新たな「経本」に嵌まってしまって、精神に異常を来し、日常生活すらままならなくなった信徒さんがいます。

こういう事実を目の当たりにすれば、この「経本」を読誦してはならないし、また持ってもならないと心底、思います。

そう思うのは決して私一人だけではなかったことをここに紹介させていただきます。

…………………………………………

ニセ経の印象 (10731)
日時:2019年03月15日 (金) 09時44分
名前:桜

わたしは鑑定師です。

先日、実家に、どういうルートだか、現教団のニセ経がありました。
どういうものか見せるために、母がパラパラとニセ経をめくると・・・

墨字で書かれた最初のページに、何か蛇のような忌まわしいものを感じ、ゾッとしました。
気持ち悪かったです。

まさのぶ先生は、本来気の弱い、劣等感のカタマリのような、器の小さい凡人です。
今は悪霊に保護されているので、どうもありませんが、パッと離れたら、どうなることか、怖ろしいです。
ニセ経もきっと、蛇のような悪霊に書かされたのだなあ・・と思いました。

母は、後日、それを捨てました。

本当に、現教団が言うからって、命令するからって、手にしない、読まないほうがいいですよ。

忠告します。身のためです。

それを聞かされている可哀想なご先祖が本気で怒るまえにどうか捨ててくださいね。

………………………………………………

新編『生命の實相』第25巻「人生問答篇」に、黴菌と悪霊に関することが示されておりますので、それをここにご紹介しておきます(121〜122頁)。

誌友の大村さんが、尊師にこう問いかけます。

《大村−−或る霊学者の説によると病気のほとんど全部は、悪霊の災いで、黴菌や災難も皆な悪霊が武器として使うものだというじゃありませんか。》

それに対して、尊師は、こうお答えになられます。

《谷口−−それはなるほど、一面の真理であります。医者は悪霊が武器として使った黴菌を征服する方法を考えています。…「生長の家」ではその悪霊と共鳴するような悪精神波動を起さないようにして、悪霊がいても害をすることが出来ないようにするのです。悪霊は魚みたいなものです。迷いの精神波動はその魚の泳いで来る波のようなものです。その波を干上らしてしまえば悪霊が禍いをしようと思っても水のない魚のように禍いが出来なくなるのです。そうさせるのが生長の家の「神想観」であり、聖典の一章の毎日読誦であります。》

「悪霊とも和解せよ」というようなシロモノを読むより、「神想観」を実修し、聖経・聖典を拝読するのが何より大事なことなのだと改めて思います。

心ある信徒の皆さんに、ぜひ、このことをお伝えしていきたいと思います。




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