《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

Página de Português/ポル語ページ
 

 

これは完全な洗脳°ウ育だ!−教化部長各位に送付された2021年4月度/5月度「地方講師・光明実践委員研修会」のテーマについて≠ナ痛感したこと (13275)
日時:2021年03月16日 (火) 12時20分
名前:破邪顕正

2月24日付けで、表題の資料が全国の教化部長に送付されています。

教区で開催される「地方講師・光明実践委員会」は、この資料を使って開催されなければならないということでしょう。

この資料に基づかないで、教化部長が自分勝手に研修することは、もはや不可能と言っていいかと思います。

もし、資料を使わない研修をしようものなら、早速、参加者からその旨、本部に報告されるでしょうから…。

教団内には、そういう相互監視体制が完全に出来上がっていますからね…

もし、その報告が本部にあがったらどうなるか…。

本部からの呼び出しを受け、始末書を書かされた上で、教化部長解任、練成道場送りということになるでしょうね。

今の教化部長は、そういう悪意に充ちた人事異動を嫌と言うほど見せつけられてきていますから、もはや本部指示に従わない教化部長など皆無と言っていいのではないでしょうか。

教化部長である以上は、その地位に留まろうとするのであれば、この資料に基づいた研修を行うしか、他に道はないということです。

前置きが長くなりました。

それでは、どういう研修資料なのか、その中身をみていきましょう。

1頁にゴチックで表記されている文言が、その全てを物語っています。

〈なお、生長の家総裁・谷口雅宣先生のブログ「唐松模様」、白鳩会総裁・谷口純子先生のブログ「恵味な日々」をはじめ、ブックレットシリーズ、機関誌『生長の家』、普及誌『いのちの環』『白鳩』『日時計24』も、常時テキストとしてご活用ください。〉

つまり、今や、研修会は、総裁夫妻のプロパガンダ機関になっている…。

即ち、夫妻の思想・考えを信徒にそのまま伝達する洗脳°@関ということなのだと思います。

具体的にどういう指導が示されているか。

4月度はこうです。

〈テーマ:居住地の自然と文化を顕彰するとはどういうことか〉

それでは5月度は…。

〈テーマ:「石上げ」とは何か〉

いずれも、総裁が『機関誌』1月号、2月号に書いたものをテキストにして学習するという指示になっています。

このテーマからして、こんな話を、第一線の信徒が誌友会等で聞きたいと思うものでしょうか。

つまり、もはや、本部は信徒の目など関心外、見ているのはただ総裁だけである…。

総裁の覚えめでたければそれでいいということなのだと思います。

こういう研修しか許されないとは、教化部長もさぞかし気苦労が絶えないことだろうなとご同情申し上げます。

本来ならば、教化部長として、尊師・谷口雅春先生のこのようなご文章をこそ信徒に伝えたいところではないでしょうか。

《…『眞理』及び『生命の實相』の本を繰返し繰返し読むことは、自己の潜在意識の悟りのためになるばかりでなく、宇宙の潜在意識を悟らしめるために貢献するのである。それには扉の裏から最後のページに至るまで真理の言葉が充満しているのである。それは生命のパン種であり、真理の水であり、キリストの葡萄酒であり、観世音菩薩の如意輪であり、住吉大神の持ちたまえる如意宝珠である。「我に来るものは渇かず、飢えず、永遠の生命を自覚して、空の星の如く輝かん」である。》 (新版『栄える生活365章』326頁)

宇宙の潜在意識を悟らしめる

何という凄いお言葉でしょうか。

こういうところに得も言えぬ感動、喜び、魅力を感じて、「生長の家」の門を叩いたのではないでしょうか。

それをもう一度、甦らす!

それが宗教法人を認証された「谷口雅春先生を学ぶ会」の使命なのだと思っている次第です。


現総裁に捧げたいのはラインホルド・ニーバーの祈りの言葉です。 (13276)
日時:2021年03月18日 (木) 13時23分
名前:破邪顕正


今回の「通達」の4頁から5頁にわたって、現総裁がつくった「大自然讃歌」の一節が紹介されています。

教団信徒は、こういうものを読まされているのか。

それを思うと、教団信徒の皆様のことが本当に気の毒でなりません。

それこそ、文字通り気の毒≠ノなりはしないかと、心から案じております。

だって、こんな文章なのですよ。

〈多くの人々
自ら本心を欺き、
他者の告ぐるままに
自ら欲し、
自ら動き、
自ら倦怠す。
自らを正しく知らぬ者
即ち「吾は肉体なり」と信ずる者は、
肉体相互に分離して合一せざると想い、
利害対立と孤立を恐れ、
付和雷同して心定まらず、
定まらぬ心を他者に映して
自らの責任を回避せん。〉

こういうことを「天使(てんのつかい)説き給う」という形式にして書かれているのが、この「大自然讃歌」なのです。

この「天使」と「聖経」のそれとは、果たして同じと言えるのでしょうか。

これを読誦して、果たして信徒は、本当に救われるのでしょうか。

で、改めて私が感じたのが、ラインホルド・ニーバーの有名な祈りの一節です。

〈神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。〉

現総裁に言いたいのは、尊師が住吉大神から神授せられた、素晴らしい「聖経」があるというのに、どうして、それを変えなければならなかったのか…。

それは、ニーバーの言葉を借りれば「識別する知恵」のない所業ではないのか…。

それに尽きます。




名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板